第316話 これに勝てない有様では
第九層のビオトープからは、あいかわらず草木の匂いと瘴気が漂っていた。八層からの縄ばしごを最後に下ったベルナルドが、半円状に垂れ下がっていた半透明の糸を回転させるように引く。すると縄ばしごがくるくると自然に巻き上げられていった。
「レティス」
「あいよ、ベルリン」
ある程度の高さまで巻き上げてから、ベルナルドがしゃがみ込み、レティスを肩車で持ち上げた。
レティスはその肩車の上でさらに立ち上がり、目一杯全身を伸ばしながら糸と縄ばしごを結ぶ。
「こんくらいの高さでいい?」
「うむ」
「あいあい」
ベルナルドが見上げながらうなずいた。
一連の動作をイルガとフィクスが若干うらやましそうに見ていたのは黙っておいてやろう。貴様らの身長ではベルナルドの代わりは務まらんだろうに。
これはグールが上の階層に出ないようにするための工夫だろうか。
だが――。
「グールは瘴気なしでは生きられない。上がられる心配はないのではないか? 仮に上がっても勝手にくたばるだろう」
俺がそう言うと、ベルナルドはレティスの腰を両手で挟み込むようにして抱え、肩車から下ろしながら口を開いた。
「念のためだ。他にも、正常な空気に適合できる生物が、いるかもしれん」
「なるほど」
「仕掛けは、レティスが考案し、作ったものだ」
レティスが人差し指を立てて得意げに言った。
「だって、縄ばしごを垂らしっぱにしといて、グールに引っ張られて壊されちゃったらどうすんのさ。そうなったら致命的だろ。あたしらだって帰れなくなるもん」
「そうか。それもそうだな」
前回来たときは、第八層で一組のおよそ半数を待機させていたから、その心配はせずに済んだのだった。
「得体の知れない土地だから、用心はできるだけしとかないとな。……というか、あたしがみんなのためにできることなんて、ほんとこんなことくらいなんだ」
「いや、そのようなことはない。縄ばしごの改良など誰も考えていなかったことだ。十分に助かっている」
レティスが照れくさそうにはにかむ。
「エレミアにそう言われると悪い気はしないな。ね、ベルリン?」
「うむ」
さっきからなんだその呼び方は。ベルナルドのやつも普通に受け容れているし。まあ、おっさん呼ばわり以外はなんでもよさそうだが。
しかし、そうか。そうだった。
一組はまだこの第九層を隅々まで調べたわけではない。一年前はグールによるモニカの連れ去りのせいで、それどころではなかったからな。
探索範囲を広げれば、瘴気と空気の両方に適合できるナイトゴーンドのような魔物が他にもいるかもしれん。ここまで広大な土地と深い森では。
イルガが気が遠くなるような声を出した。
「しかし、あらためて眺めると……恐ろしい場所だなあ」
あいかわらず、湿地というか湿原と森の大地だ。
真夜中でも光晶石は輝き、時間どころか昼夜までわからない。シダ植物は腰のあたりまで生い茂り、踏みしめる地面は水分でわずかに沈む。常緑樹が生い茂り、数歩先もろくに見通せない。
セネカが静かにつぶやいた。
「エレミアとイルガは先陣を切るんだから、特に気をつけなさいよ。九層を走り回ったわたしや三班でさえ、この階層のすべてを見たわけじゃない。それに、いつも真っ先に敵陣を切り開いてくれていたヴォイドはもういないんだからね」
イルガが残り少ない髪をふぁさ~と掻き上げる。
「ふ、平民に言われるまでもない。戦いはこの貴族たる俺の義務。任せておきたまえよ」
「あんたはもう……。はいはい。あいかわらず過ぎて嫌味でさえ笑えるわ」
ギャアギャアと、人の悲鳴のようにも聞こえる鳥の声がしている。姿は見えないが、羽ばたきの音がなければ駆けつけてしまいそうだ。他にも動物だか魔物だかの遠吠えのようなものもある。
モニカがふぅと息を吐いた。
「わ、わたしも。前回のように足手まといにはならないから。だから、わたしも頼って。オウジンさんほどではないけれど、あの頃から少しは変わったつもり」
言い方は弱きだが、剣気は突き刺さるように鋭い。しかしこれは少々尖りすぎた。接敵前からこれでは最後までもたんぞ。
俺はモニカの腰を軽く叩く。
「そのつもりだが、あまり気負うんじゃあないぞ、モニカ。おまえがケガをしたら、俺がオウジンに叱られる」
一瞬、目を丸くしたモニカだったが、すぐに相好を崩した。
「ふふ」
少しは緩和できたか。名を出すだけでモニカには効果覿面なようだ。
俺の背後でリオナが両腕で身を抱え、身震いをした。
「うへぇ、でもこの瘴気。あいかわらず鳥肌立つぅ~……。気持ち悪い……」
「瘴気が見えるのか?」
通常ではあり得ないことだ。だが、俺たちとはまったく別の第六感のようなものを持つリオナであれば、可能性がないとも言い切れん。
「見えないよ。でも感じるの。あたしってすっごく感じやすい女だから。ほら、どこでも触ってみ?」
両腕を広げて満面の笑みを浮かべるリオナに舌打ちをして、俺は森に視線を向けた。
厄介な森だ。本当に。
「……」
「無視はやめて? せめてつっこんで? ねえ、エルたん? 泣くよ~?」
この九層ビオトープに満ちる瘴気の存在は、俺には一切わからん。わかった頃にはもう手遅れだ。味も色も臭いすらもない毒素が、空気に溶け込んでいるようなものなのだから。フィクスの教えでは、物理的な毒素というよりは、通常生物に適合しない魔素に近い性質らしいが。
そのフィクスが俺を宥めるように言った。
「まあまあ。大丈夫だよ、ふたりとも。瘴気はボクに任せて」
「ああ。頼むぞ、フィクス」
リオナが俺の肩に手を置いた。
「エルたん」
「……」
「ねえ」
リオナが肩をつかんで揺さぶってくる。無視を決め込んでいるのに、まだ揺する。
「ねえってばっ」
「……」
やけにしつこいな。
ずっと揺する。だんだん激しくなってくる。
「エルたん!」
「ええい、なんだ!?」
振り返って気づく。
てっきりまたからかわれているだけだと思っていたが、リオナの表情は真剣そのものになっていた。
「生き物かどうかもわかんないのが、こっちにすごいスピードで近づ――!」
その直後のことだ。
バンと鋭い音が鳴り響き、風すら吹かないこの第九層で、眼前の樹木から大量の木の葉や細枝が散った。そこから灰色の影が飛び出す。
毛穴が開いた。
全員が驚愕に目を見開くと同時、ほとんど反射的に俺は剣を抜いていた。
「な――っ!?」
気配などなかったぞ――!? いや、俺が感じ取る暇もないほどの速度で迫ってきていたのか!
飛び散る夥しい量の木の葉から飛び出したその悍ましい姿に、セネカが舌打ちをする。
「あのときの……!? ――全員抜剣! 背中合わせ! 動きが速いわよ!」
肉体を包み込むような形状の、外向きに尖った歪な外骨格を持つ四足獣だ。この姿に比べればナイトゴーンドやグールの方がまだ生物的にマシに見える。吐き気を催しそうなそのあまりに悍ましい姿には、生理的な嫌悪さえ感じる。まるで、かつて七層で葬った出来損ないの竜のように。
こいつの同種には一年前にも遭遇した。俺たちはかなりの苦戦を強いられた上に、セネカが自ら捨て身の囮となることで、ヴォイドがかろうじて仕留めることに成功したんだ。
しかも。
「ひとまわり以上、大きいね……」
掠れた声でリオナがそうつぶやくのが聞こえた。
イルガが喉奥から声を絞り出す。
「こ、これは……? 既知の魔獣ではないぞ……? ま、まさか……新種か!?」
「気圧されるなよ、イルガ。背中も見せるんじゃあないぞ。あの速度だ。一瞬でやられる」
息を呑む音が聞こえた。
フィクスかレティスあたりだろう。
だが、イルガは騎士が誓いを叫ぶときのように剣を正中に立て、腹から声をあげた。
「あたりまえだ! あまり見損なわないでもらおうか! この俺がすでにスケイルよりも優れているというところを見せてやろう!」
「くく、いいぞ。その調子だ。これに勝てんようではテスカポリトカには到底及ばん」
俺は嗤う。この場にのこのこと現れてしまった哀れな魔獣を――嘲笑する!
「前哨戦だ。――楽しめよ、貴様ら」
そうして切っ先を魔獣へと向け、俺は真っ先にぬかるんだ大地を蹴った。
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