第309話 弟子の守備範囲が意外と広い
とても気まずい。受験後、初めてこいつの部屋に訪れ、ともに暮らすことになった日よりもよほど気まずい。
とりあえず水差しから水を汲み、リリに差し出した。
一旦落ち着かせなければ。
リリはそれを素直に受け取って、一気に飲み干す。
「それはその、あ~……れ、恋愛感情か? それとも家族のような保護対象に向けるものか?」
なんで子供になった俺が大人の弟子にこんなことを聞かねばならんのだ。前者だと困るだけだし、後者でも方向性が違うだけの第二のアリナ王妃ではないか。
返事が来る前に後悔した。
聞くんじゃなかった……。
ギロリと俺を睨んで、リリが不機嫌そうに言った。
「わからないわ。でもわたしはもう二十六歳よ。いくらブライズに似ているからといって、いまさら十歳の子供に対してそんな感情は――」
「十一歳だぞ」
リリがカップを乱暴に叩きつけるように、ベッド脇のテーブルに戻す。
「どっちでも大差ないわよ!」
ひぇ……。叱られた……。
「エレミアがひとつ年を取れば、わたしも同じだけ年を取るの!」
「ごもっとも……」
「追いつけるものなら追いついてみなさいよ!」
何言い出した? 大丈夫か?
「……」
「……」
あ、大丈夫そうだ。あれは言ってから後悔しているときのリリの顔だ。前世から変わらんな。
しかしこの物言い。弟子の分際で生意気な……とは思うものの、こいつから見れば俺は教え子で、生意気なのは俺の方なのだろう。
いまさらながら、なんだこの関係。頭がおかしくなりそうだ。
俺はもう一度ベッドの隣に腰を下ろした。
「あ~、なんだ。えっと……。何をしたらおまえは参戦を諦めるんだ?」
「それはもう決定事項だから」
「た、例えばだぞ? 例えば……仮にだ、仮に――ぬあああああ!」
奇声を上げて言葉を呑む。勢いをつけるための奇声だ。
俺はブライズではない。エレミーだ。だから言っても大丈夫。
自分に言い聞かせるも迷いは晴れず、額に打ちつけるように手をあて、うつむく。
「ちょ、ちょっと、エレミア? どうしたの?」
ええい、可愛い弟子のためだ。
俺は顔を上げる。
「――俺がな……その、おまえに、プロポーズ? ……とかしたら、それでもだめか?」
「……?」
沈黙が客室を長く支配した。俺がその言葉を吐いてからゆうに数十秒は経過した頃、ようやく。
リリが眉間に皺を寄せ、唇をねじ曲げる。
「はあ?」
すっごい冷めた目で見下ろされた。つらい。前世と今世を合わせても初めて口に出した言葉の返事が、この氷のような視線なのは本当につらい。もう一度奇声を上げてこの部屋から逃げ出し、外征騎士団宿舎内を全速力で走り回りたくなる衝動に駆られる。
手が震えそうだ。
「十五も下の子供が何をおかしな世迷い言を……」
世迷い言か。まあ、そうだな。俺だってそう思うよ。
でもおまえ、前世では二十五ほど離れたおっさんを愛していたのだろう。少しは自分の行動を省みろと言いたい。
言ったら叱られるから言わないけども。
「もちろん、いますぐというわけではない。ガリアでの結婚可能年齢になってからだから、いまは婚約止まりだな」
十四だ。ガリアの法律ではそう定められている。ちょうど三年後だ。
リリが苛立ったように長い髪に両手を入れてそれをつかんで大きなため息をつき、そっぽを向いた。
「バカじゃないの。本当に子供ね」
「すまん……」
まあ、そうなるよな。
このようなことならブライズであることを最初から明かしておくべきだった。戦場以外での俺は、いつも判断を間違える。もっとも、それをしていたところで信頼を得られたとも思えないが。
リリは微かに揺れる声で吐き捨てる。
「ベルツハインでもマージスでも、あなたには他に相応しい子がいくらでもいるでしょう。嫁ぎ遅れをからかうのもほどほどにしなさい」
「決してそのようなつもりでは……」
リリの戦争参戦を阻止できるのであれば、それくらいは容易いと本気で思っていた。どのような立場であれ、俺たちはともにいられればそれでいいんだ。
師弟でも、親子でも、それが夫婦となったとしても……。
きっと前世では、リリもまたブライズに対しこんなふうに考えていたのだろう。馬鹿な俺はいまになってようやくそれが実感できた。
けれどいまのリリがエレミーを決して男性として見ないように、当時のブライズもまたリリを女性として見てはいなかった。
だからリリはブライズの身を案じるあまり、戦場へと勝手についてきてしまった。
もしもあの頃、彼女の幼い気持ちに気づいていたら、ブライズはリリをどうしていたのだろう。あるいは気づいていたことを、俺が忘れているだけなのか。
自分自身のことなのにわからない。
つくづく、この娘の人生を狂わせてしまったと実感させられる。俺を戦場で拾い育ててくれた老騎士ケインのようには、うまくできなかった。
きっともう、何を言ったところでリリはガライアへと旅立つのだろう。ならばいまの俺にできることはなんだろうか。おそらくついていっても、この肉体では足手まといにしかならない。ホムンクルスが相手となればなおさらのこと。
俺は隣に座るリリを横目で見上げる。
リリはまだ両手で自身の長い髪をつかみ、顔を背けていた。
相当怒らせてしまったようだ。すまない。
「なあ、リリ」
「……何よ」
「二年だ。あと二年、どうにか生き延びてくれ。卒業したら俺も戦場に出る。騎士としてではなく猟兵としてだ。せめておまえの背中を守らせてくれ」
正直、卒業などどうでもいい。騎士爵など最初から叙爵するつもりはない。
待つべきは肉体の完成、ただそれだけだ。本音を言えば十年はほしいところだが、共和国のホムンクルスの投入規模次第で間に合わなくなる。
リリが死ぬ……。
「バカね。猟兵なんて、いくら剣才があっても花開く前に死ぬわよ。スケイルだってわたしがフォローしていなかったら、何度死んでいたかわからない。戦争はあなたが思い描くほど甘いものではないわ」
知ってるよ、馬鹿野郎……。だからこうして止めようとしたのではないか……。
リリが髪をつかんだまま、視線だけを俺に向けて矢継ぎ早に言う。
「あなたは戦争になんて関わらず、誰かと幸せな人生を歩むの。わたしはその一助になれたらそれでいい。大丈夫よ、わたしはブライズのように死んだりはしないから」
ブライズだって最期まで己が死ぬだなどと考えていなかったぞ。
それでも死ぬ。それが戦争というものだ。
「ふざけるな。俺自身の幸不幸を決めるのは俺だ。おまえではない。勝手な思想を押しつけるな。おまえが幸せでなければ、俺は幸せにはなれん」
前世から思い続けてきた本音だ。そう言いたいのに言えないことが歯がゆい。
転生後の俺は、いつだって無力を実感してばかりだ。
「…………これが本音だ……」
だから、こんなものが精一杯の言葉だった。
いつまで待っても返事はなかった。
いつの間にかうつむいていた俺は、伺うようにそっとリリを見上げる。そうして気がついた。
髪をつかんで顔を隠していたことでいままで見えなかったが、リリは目に涙をいっぱい溜め、顔どころか、かろうじて髪の隙間から見えている耳まで真っ赤に染まっていたことに。
「……」
「な、何よ?」
弟子ぃ……?
おまえやはり、俺のことまで好きになってるだろ……?
つーか、うちの弟子はブライズからエレミアまで、存外にして守備範囲が広いらしい。
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