第305話 予知する女
朝食を取り終えた俺たちは屋上から一時解散する。
一度女子寮の部屋へと戻った俺だったが、リリは当然のように帰っていなかった。室内は明かりが消えたままで、別室にも気配はない。
「まさかもう旅立ったのではあるまいな……」
いや――。
クローゼットには魔物革のコートがまだ残っていた。俺が前世でリリの十五の誕生日にプレゼントしたものだ。未だ手入れされているし、金属糸で編まれた教官服よりも遥かに頑丈だ。
これを置いて戦いに行くとは考えられない……というのは自惚れか。
そんなことを思った瞬間、ドアがノックされる。
「リリ!」
間抜けな俺は扉に駆け寄り、勢いよく開けた。だがそこにいたのは、作業着を着用した数名の男性の姿だった。
帽子を取った中年男が、子供にそうするように膝を曲げ、わざわざ俺に視線の高さを合わせてから口を開いた。
「こちら、イトゥカさんの部屋であってるかい?」
「あ、ああ。合ってるが、あんたたちは?」
「おじさんたちは、イトゥカさんから荷運びの依頼を請けた業者だ。すまないが、少し上がらせてもらうよ」
このときになって俺はようやく理解した。リリがもう、この部屋に戻らずに旅立つつもりでいたことをだ。
言い様もない寂しさが、唐突に胸に去来する。同時に苛立ちもだ。
――家族のつもりだったのだがな……。
リリのサインが書かれた依頼書を俺に見せ、男たちはズカズカと部屋に上がり込んできた。
俺はその作業を横目で見ながら、呆然と壁にもたれていた。
「あまり荷物はないみたいだなあ。……えっと、ソードラックのロングソードを二振り、クローゼットは開かずに丸ごと縛ってそのまま運び出せ。いいか、あの〝戦姫〟様の私物だ。どちらも絶対に傷をつけるなよ」
「わかりました」
クローゼットの上に左遷されていたぬいぐるみたちが、丁寧な手つきでひとつずつ下ろされていく。どうやらやつらは俺と同様、置いていかれる運命らしい。
俺は床に置かれたそれを、ひとつずつベッドへと戻した。
「靴はありったけ必要になるそうだ」
「梱包します」
若い作業員がふたりがかりでクローゼットを運び出していく。少し遅れて、箱詰めされた何足かの靴が別の作業員によって持ち出された。
それだけだ。たったそれだけの荷物だった。当然だ。開戦したら、あとはすべて騎士団が用意してくれるだろうから。
だが。
中年男が再び帽子を取って、俺に会釈をした。
「じゃあ、おじさんたちはこれで失礼するよ。邪魔したね」
「待て。忘れ物だ」
俺は魔物革のコートを投げる。それを受け取った中年男は、もう一度依頼書に目を通した。
「いや、これは依頼されていないものだよ」
「すまない。先ほど俺がリ――イトゥカ教官のクローゼットから抜いてしまったものだ。どうせ必要になる。それも頼む」
「クローゼットから? そうか。わかった。必ず届けるよ」
中年男は慣れた手つきでコートを丁寧に丸めると、それを抱えてドアへと歩き出す。俺は慌ててその背中を追った。
「なあ、あんた。イトゥカ教官はいまどこにいるんだ?」
「さてねえ。私は知らないよ。一度は英雄様のご尊顔を拝んでみたかったが。……とんでもなく美人なんだろ?」
「む。……まあ、そうだな」
どうやらもうリリの居場所は機密情報入りしたらしい。この手際のよさはキルプスだな。ラセルの件もある。重要人物の居場所は隠しておくに越したことはない。
手がかりがあるとしたら、外征騎士団駐屯所か。あるいは当面、そこにいるかだ。
「だけど、荷物の運び先はガライアのようだよ。うちは運送業者に繋ぐだけだから、そこまで詳しくは知らないけれどね」
ガライアだと……!? 先の大戦で最も死者を積み上げた激戦区だぞ!?
ガリア王国とエギル共和国の国境線上に存在する要塞都市の名だ。
両国を隔てる険しいアルシナ山脈を、数千、あるいは数万規模の騎馬が滑落の危険なく進軍できるのは、ガライアへと続くなだらかな丘陵のみであることから、都市ガライアは何度となく戦火にさらされてきた。
ゆえの要塞化。そしてその領主こそが、〝王壁〟マルド・オルンカイム辺境伯だ。
ガライアに旅立たれては、もはや説得する機会さえ失われてしまう。
「そうか。感謝する」
中年男はもう一度会釈をすると、そのまま部屋から去っていった。そのドアが閉ざされる前に俺は外へと飛び出し、怪訝な表情の男を追い抜いて走った。
女子寮を飛び出して学校正門まで来たとき、見知った顔に足を止める。
「ミリオラ?」
ミリオラ・スケイル。元〝諜報将校〟だ。
目は見えておらず、横一線に入った薄い傷を隠すためか、いつも目隠しをしている。その彼女が正門の門柱を背に立っていたのだ。
「その声はエレミア?」
「ああ。どうしてここに――」
「今日は入学者のために、武器の搬入に来たのよ。高等部のね」
いや、いや。いまはミリオラと話している時間はない。
だが、糞。彼女の手を引く戦災孤児ふたりの姿はない。フアネーレ商会の人間らしき姿もだ。
「そうか。すまない。ちょっと急いでいるんだ。ヴォイドとは約束をしているのか?」
「ええ」
なら手を引いてやる必要はないな。
「ところで、エレミアはどこへ行くつもり?」
「外征騎士の駐屯所だ。あ~、少々用事がある」
彼女は何かを考えるような様子を見せているが、それを待つ余裕はいまの俺にはない。
「ではな」
「待って頂戴」
走り出しかけて蹈鞴を踏む。
「本当に急いでいるんだっ。用なら手短に頼むっ」
「リリ・イトゥカが騎士団に呼ばれたのね?」
俺はうなずいた。
「そうだ」
「彼女、エレミアにとってどういう存在なの?」
「どういう……?」
何の意図があってこのようなことを聞くのか。いまさら。そう、そのようなことは本当にいまさらだ。
娘、弟子。いずれもこたえられん。だが、別の言い方ならできる。前世からずっと、ずっと長い間、俺はそう思っていた。
春先の強い風が砂を巻き上げ、真横に流していく。
俺は胸を張り、強い口調で言い切る。
「リリは、かけがえのない家族だ。血など繋がっていなくともな」
我ながら頭の悪いこたえだが、他に形容のしようがない。
「たった一年、一緒に暮らしただけの赤の他人でしょ?」
違う。六年だ。
ブライズとして五年、俺はあいつと生きた。だがきっと、それは五日だったとしても同じで。
「時間は関係ない。そんなことは孤児院あがりのおまえにだってわかるだろう!」
「ううん、全っ然わかんない。だからわたし、そのうちヴォイドと本当の家族になるつもりよ。てか、あいつみたいなの、わたしくらいしか乗りこなせそうにないし」
「!?」
あ、あたりまえのようにそんな重大な告白をされても……。や、おそらくヴォイドもそう考えているのだろうが……。あらためて宣言されると……何やらこう……お、おめでとう?
「じゃあ家族でいいわよ。でもそれって――」
しばらく待ってからミリオラは表情を消し、唇を手で覆うように隠し、低く声を落とした。
「――エレミー・オウルディンガムにとっても……?」
全身の毛穴が開いた。知られていた。まさかとは思っていたがそこまでつかまれていたか。
いや、いや。ミリオラは〝諜報将校〟フアネーレだ。キルプス自身の懐刀でもある。
俺はため息をついてつぶやく。
「俺が何者であるかも関係ない。あいつを家族にすると決めたときから、あいつは俺の家族なんだ。それ以外に言いようがない」
「そう。いつその信頼関係が成り立ったのかは知らないけど、……うらやましいわね」
「あんたにはヴォイドがいるだろ?」
ミリオラが少し戯けた様子で肩をすくめた。
「まーね。ま、だったら応援してあげる。個人的に彼女のこと結構気に入ってたから。もうじきここにヴォイドが現れる。彼を駐屯所まで連れていくといいわ」
「ヴォイドを? なぜ?」
むしろ騎士団とは相性が悪いように思えるくらいだが。
だがミリオラはただただニヤついているだけだ。
「それにやつを待っている余裕は――」
この瞬間にも駐屯所からガライアへの馬車が出てしまうかもしれない。
「大丈夫、もう来てる。ほら――」
校舎方面からヴォイドが気怠そうに歩いてくるのが見えた。俺の姿を見て、眉間に皺を寄せている。さっきのいまだしな。
「光を失ったせいか、遠くの気配もわかるようになったのよね。どう? すごいでしょー?」
大きな胸を張って得意げだ。
何でも知っていて、どうにも調子の狂う女だ。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。