第292話 楽しいお話をしようっ
呼吸を止めておよそ四十。
ようやっとリオナが俺の口を覆っていた手をどけた。止めていた呼吸を限界まで吸い上げた。吐いたばかりのときに塞がれたのだから、たまったものではない。
気配を探るが、俺には何も感じ取れない。念のために視線で問う。
「声を落としての会話なら大丈夫だよ。でもしばらく移動はしない方がいいと思う。今夜は風がないから空気が動いちゃう」
「そうか」
俺を落ち着けるためだろうか。リオナが笑みを浮かべながらいつものように言った。
「退屈だし、おねーさんと何か楽しいお話でもしてよっか」
「そうだな。――やつらに見覚えは?」
「わーお……早速楽しくない話題。エルたんが事務的すぎて泣きたい」
「無事に帰ってから好きなだけ泣け」
スンと鼻を鳴らして、リオナが拗ねたような表情をする。
「ダンジョンのときみたいに、また慰めてくれる?」
「い・や・だ。――で、見覚えは? あるのか? ないのか?」
「あぁん、つれない。そういうところも好きよ」
会話内容が一方的すぎてキレそう。
「見・覚・え・は?」
「あはっ、おもしろい顔。昨日までなら見覚えはないよ。何人かは、今日のお昼が初めてだね」
「おまえも不穏を感じ取っていたのか」
驚いたな。何も考えていないように見えるのに。
「んー……。薄々だけどね。最初は嫌な視線の動きをしてるなーって思ってただけ。ストーカーかなって。でもカウンターとテーブルで法則性のある音を出してた。あたしの知らない信号だけど、法則性があることだけはわかった。だから、あーこれもしかして共和国系かも、って思ったのよ」
指先でテーブルを叩くアレか。
うなずく。予感は的中していたようだ。念のために迎えに出てよかった。
「だったら俺を帰らせないで待たせておけっ」
「しーっ、声大きいよぉ。それに一度は一緒に帰るか尋ねたもん」
む。そういえば。思い出してきた。
――それまで待ってくれるなら一緒に帰る? 何ならその後、あたしの部屋で晩ご飯もご一緒したりして? リリちゃんとこには朝に帰るとか?
「おまえが助平顔で余計な言葉を付け加えるからだろっ?」
「やー、ついでに既成事実までイケないかなーって思って」
なんで命の危機とおふざけを繋げてしまうんだ。脳みそファンタジーか。
「くう、不覚……。ま、まあ、あのときは俺も先に出たやつらを追おうと焦っていたからな……」
「エルたんがお店の周囲を探ってくれていたのには気づいてたよ」
「もはやぐうの音も出ん。すまなかった」
しかし隠形にせよ察知にせよ、こいつのそれはとんでもない精度だ。いまもそうだ。まさか俺が捕まるまで接近を許してしまうとは。正直言って、多少なりと落ち込んでしまう。なぜなら以前リオナは、自身の隠形はリリには通用しなかったと言ったからだ。
どうやら――。
「はぁぁ。それにしても、ああもあっさりとリオナに捕まるとはな。俺の察知能力はリリ以下か……」
弟子の分際で。嬉しい反面、己の不甲斐なさにはため息が出る。
「違う違う。そんなことないよ」
「くだらん慰めはやめろ。もうガキではない。十一歳だ」
「あんま変わんないって。じゃなくて、えっと、あたしが気配を消して先にここに隠れてたの。エルたんはそれに気づかず自分から近づいちゃっただけ。手の届く範囲までね」
「同じことだ。おまえの手の届く範囲までおめおめと来てしまうとは。これではまるで蜘蛛の巣に巻き取られる虫けらではないか」
リオナが首を振った。
「そうなんだけど、リリちゃんの場合とは全然違うよ。気配は動いたときに出るでしょ。体温とか呼吸とかの影響も多少は関係してるけど。それはわかるよね?」
「ああ」
気配察知は第六感ではない。五感すべてだ。
味覚を除く、目で見える視覚、物音を聞く聴覚、異臭を感じる嗅覚、空気の流動の触覚で感じ取るものだと、ブライズは理解していた。それはエレミーとなったいまも変わらない。もし第六感を使用する者がいるとすれば、それはアテュラやリオナだけだ。
リオナが薄い胸に手をあてる。
「あたしは最初からここにいたの。気配を消して。体温も可能な限り大気温に近づけて」
体温調整? その時点で俺にはもう未知の能力なのだが?
「臭いはまあバイト上がりだから、ちょっとおいしそうな感じだったかもしんないけど。……食べる? エルたんならどこでも囓っていいよっ。おすすめは、おっぱ――」
「食わん。いいから続けろ。その先を知りたい」
ブライズの知識以外にも、まだ俺が進化できる余地があるかもしれん。
「おいしそうな匂いを誤魔化すための路地裏だよ」
「そういうことか」
俺は魔導灯を消して視覚を自ら閉ざした。リオナは息を潜めて物音や空気の流動を消し、民家から漂う夕飯時の匂いで香りを誤魔化した。さらには出されたゴミが嗅覚まで鈍らせる。
その状態で偶然にも、おめおめと俺が目の前に歩いてきてしまった。これでは確かに気配察知などできるはずがない。
リリには通用しないと言ったのは、リオナが自らリリに近づくときの場合だ。なるほど、リオナから近づかれたならばさすがに気づく。俺でも。
だが待てよ。
「レアンダンジョンのときは? おまえがキルプスを殺しかけて逃亡した日だ」
「エルたんが立ち止まったから、空気が流れないように息を止めて、ゆ~~~~~~っくり近づいたんだよ。カタツムリみたいに」
「そうか……」
少し安心した。ブライズだった頃よりも感覚が鈍ってしまったかと思った。
リオナやアテュラは別格だが、あの頃の知識はまだ使えるようだ。
「ところでエルたんは、どうしてあいつらのことに気づいたの?」
俺は馬車の停留所でのことや、昼食時の出来事を掻い摘まんでリオナに話した。
しばらくおとなしく聞いていたリオナだったが、珍しく少し気まずそうな顔をしながら頬を染め、横目で俺を見て小さくつぶやく。
「……ありがと。気にかけててくれてちょー嬉しい。もー、どんどん好きになっちゃうじゃん……」
「面倒臭いことを言うな。それよりどうだ? そろそろやつらの気配は消えたか?」
「めんどくさいってそんな……でもそういう無駄にクールなところも好きっ」
俺は眉間に皺を寄せ、下唇を捲って歯を剥いた。
「や・つ・ら・の・気・配・は?」
俺には察知できない。やつらは見事に暗殺者だったようだ。だが襲いかかってきた瞬間に反応できる自信ならある。戦場では遠方から飛来した矢ですら、つかみ取っていたからな。もっとも、先ほどリオナにやられたように待ち伏せされてはどうしようもない。
気をつけよう。前世のような最期はまっぴらだ。
「えっへっへ。楽しく話してたおかげで、少し離れたみたい。でも、迂闊には動けないかな。たぶんこの一帯に潜んでることはつかまれてると思う。包囲網ができてる」
「戦場亭にいた五名だけではないのか?」
「正確にはわかんないけど、十人以上はいたよ」
おい、おい。ことが大きすぎるぞ。なんだこれは。
まさか昼時、あの大型馬車から降りた人数全員がそうだとでもいうつもりか。だとしたら、またしても国家を揺るがす大事件ではないか。
ああ、このようなことなら、停留所でもっときっちりと全員の顔を覚えておくのだった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。
追記
こういうのも始めました。
『剣奴帝は自由を謳歌する! ~念願叶って賢者さんと一緒にナンパ旅に出たはずが、なぜか養女をゲットしてしまい困惑する~』
https://ncode.syosetu.com/n2850je/
ちょい悪オヤジのコンビが旅の最中に子供を拾ってしまい、やむにやまれず育て始めるお話です。
何卒よろしくお願いいたします。




