第291話 闇より忍び寄る者(第30章 完)
戦場亭からドレス店シュシュまではあまり離れていない。もしまだ彼女がこの時間でも働いているのだとしたら。
俺は走り出した。
シュシュの扉前では、いつものように看板娘としてのアテュラが何をするでもなく立っていた。どうやら今日は運よくイブニングドレスの宣伝だったようだ。
通りすがりの男たちが、横目で彼女を盗み見しながら去っていく。俺はそいつらを避けながら彼女に近づいた。
「アテュラ!」
「エレミア。あなたが近づいてきていたことには気づいていました。会いにきてくださって嬉しいです」
無表情なのに言うことが素直で大胆だ。精神年齢が子供のままなのだろう。
だがいまは――。
「すまん、おまえに会いにきたわけではない。リオナの居場所を尋ねにきただけだ」
「ベルツハインの?」
「ああ。この近くでリオナが働いていたのには気づいていたか?」
「はい。彼女の気配は普段からよく感じ取っています。わたしたちはホムンク――ン」
俺はアテュラの口を片手で塞いだ。
おい、おいおいおいおい! 何言い出すんだ!? こんな天下の往来で!
アテュラが微かにうなずく。俺は手を放した。
「すみません。あなたが来てくださったので、少々興奮してしまいました」
いやそんな、何の感情もなさそうな無表情で言われても。
興奮とは……?
「とにかく気ぃつけろィ!」
一応国家機密だぞ!?
ふと気づくと周囲にいる男どもは俺を睨み、女どもは好奇な視線を向けてきていた。看板娘としての役割は十分に果たしているようだ。厄介な。
ああ、もう――! 散れ!
……と、ブライズだった頃なら叫んでいたところだが、エレミーの肉体で喚いたところで時間の無駄だ。むしろかわいがられてしまう。
ええい!
俺はアテュラの手をつかんで引っ張り、十分に人混みから離れてから、その耳元で囁いた。
「アテュラ、いまリオナがどこにいるかわかるか?」
「……」
アテュラが目を閉じた。
どうやら集中しているようだ。邪魔をしないように息を止めて待つ。
俺からしたら、シュシュの店前に人だかりがある時点で正確な位置など探れたものではない。リオナやアテュラはそれをあっさりと乗り越えてしまうのだから、恐ろしい感知力だ。どういう感覚をしているのだか。
「……北東の方にいますね。かなりの距離があります。動いたり止まったりと、細かく移動を繰り返していますね」
北東。西方にある貴族街とは反対の平民街だ。
あいつが寄るような店などほとんどない。おそらく西方を経由して北にある騎士学校に戻ろうとしている。細かく移動しているなら、追われている可能性が高い。
「周囲に誰かの気配は? 数はわかるか?」
アテュラが首を左右に振った。
さらさらと髪が流れる。
言葉を待っていて気づいた。唇に少し紅を引いているようだ。店の方針だろうか。それともドレスがイブニングドレスだからだろうか。
「申し訳ありません。わかりません。これだけ距離があると、ベルツハイン以外はわたしにもつかめません」
やはりホムンクルス以外はつかめないか。
「わかった。礼を言う」
そう言って立ち去ろうとした俺の手を、今度はアテュラがつかむ。
「捜索を手伝います。わたしがいれば見つけるのにそう時間はかかりません」
「だめだ。連中にはおまえの面はすでに割れている。カーツの工作が無駄になる」
「アランカルド……」
一瞬の逡巡を見せたあと、けれどもアテュラはすぐにうなずいた。
「そういうことでしたら、他にも方法があります」
「それもだめだ。ネレイドの願い通り、普通の人間として生きていたいのだろう。ならばこの件には関わるべきではない。ましてやそのような方法など以ての外だ」
おそらく共和国からレアンダンジョンに至るまでに、彼女は多くの騎士や追っ手の命を奪ってきただろう。だがその手が汚れているからといって、さらに血に染めていい理由にはならない。
俺としてもアテュラの生存を共和国側に知られれば、暗殺者や諜報員を確実に屠らねばならなくなる。生かしたまま捕らえたいのは正直なところだが、それはもちろん、人道的な面を考慮してのことではない。やつらの持つ情報だ。
「……申し訳ありません、エレミア。お気遣いに甘えます。かの魔獣を相手に時を稼げたあなたならば、アランカルドやイトゥカといった極めて特殊な人間を除けば、万に一つもないとは思いますが……」
かの魔獣とはテスカポリトカのことだろう。
「どうか。あなたを送り出すしかないわたしを、後悔させないでください」
「やかましいぞ。説教臭いことを抜かすな」
「その返答は、とてもあなたらしいですね」
どちらかと言えばブライズ臭いのだが。ホムンクルスというのは魂で人を判断しているのではないだろうな。
アテュラが手を放した。俺は苦笑いを浮かべてから、彼女に背中を向けて走り出す。目指すは平民街だ。
戦場亭を素通りし、迷わず北東へと向かう。
大通りは使わない。なるべく最短距離だ。野良猫がゴミを漁る真っ暗な路地裏を駆け抜け、足下を流れる水路を飛び越え、平民街へと入った。
貴族街とは違い、光晶石の街灯は比較的少ない。だが、あえて魔導灯を消す。
相手は暗殺者である可能性が高い。光はよい的となってしまう。
深呼吸。限界まで感覚を研ぎ澄ませ。かつての戦場を思い出せ。ここから先は死地だ。
「よし……」
気配を探りながら走りだそうとした瞬間、ひゅっと小さく風が鳴った。肌が粟立つよりも早く、細い手が視界の左右から生える。
背後――ッ!!
直後、俺は抜刀すらできぬまま、右から伸びた手に口を押さえられ、左から伸びた手に両腕ごと巻き取られ、闇の中へと引きずり込まれていた。
「~~ッ」
ドグッ、と心臓が跳ねた途端に、すべての毛穴が開く。
何も感じ取れなかった。何をする暇もなかった。
だがすぐに、背中に感じた覚えのあるその感触に目を見開く。けれどがっちりとつかまってしまっていて、振り返ることすらできない。
耳に直接唇を押しつけられた直後、微かに吐息の声がした。
「……静かに……。……息を止めて、指一本動かさないで……」
闇の中でそう囁いた声は、リオナのものだった。
直後、俺たちの目の前を、顔を隠した数名の男らが足音もなく通り過ぎていく。
俺はようやく脱力した。
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