第265話 赤と青の烈風(第27章 完)
担架の揺れが心地よく、瞼が落ちかけるたびにリオナやセネカから適当な起こし方をされた。ずっと誰かしらに声を掛けられ、返事がなければ触れられる。顔であることもあったし、手であることもあった。
だが地底湖のある七層からオーガ居住区のある六層へと戻る階段の途中で、俺たちはダンジョン全体を覆うような異変に気づいた。最初はいつも通りリオナだ。
「……とんでもない血の臭い。嘘、嘘。何これ……」
ヴォイドが舌打ちをした。
「妙だぜ。――おい、猫。そこかしこで戦闘が起きていねえか?」
「起きてる。すごいのが一体と、そこら中で気配がぶつかり合ってるみたい。たぶん魔物だと思うけど……」
リオナが顔をしかめて前方の闇に目を凝らす。
「何なの……? まるで戦場みたいに入り乱れてて気配が読みづらい……」
オウジンが尋ねる。
「すごいの、とは?」
「こんな状況だとわかんないよ。距離感も変になってる。……ホムンクルスかも」
モニカを背負っている限り、ヴォイドは自由に戦えない。オウジンは殿から動けないし、フィクスを背負うベルナルドも配置を換えられない。
俺は全身の感覚をほとんど失っているから気配すらつかめないが、青ざめたリオナの表情からろくなものではないことが想像できる。
セネカが強い口調で言った。
「足は止めない。どのみち選択肢はないわ。イルガ、リオナの指示通りの道順で行って。オーガ以上の厄介な魔物だけ避けて進む」
イルガの喉が大きく動いた。
「ま、任せておきたまえよ……」
「もしもイルガが死んだら殿はリオナに変更、オウジンが前に出て。その場合はわたしがエレミアを背負って歩く。担架は破棄よ」
オウジンとリオナが同時にうなずいた。
「了解だ。ホムンクルスが相手でも、以前ほど簡単に負けたりはしない。片腕でも」
「わかったよ。戦闘は苦手だけどあたしも頑張ってみる」
イルガがかつてない珍妙な表情で声を荒げる。
「ちょっと待ちたまえキミたち! 俺が死ぬ前提みたいな会話はやめてくれないか!?」
「クク、だったらさっさと進めや」
ヴォイドがイルガの尻を膝で蹴り上げた。
「わ、わかっているとも」
そう言ってイルガが歩き出した瞬間だった。
「だめッ!!」
次の瞬間、リオナが叫んだ。
「発見された! 違う、とっくに発見されてた! まっすぐにこっちに向かってきてる! 他の魔物がいても迂回さえしてない! なんで!? こんなにいっぱい気配が散っているのに、どうしてわたしたちだけを狙ってるの!?」
「ホムンクルスの可能性が高いわね。――接触までどれくらい!?」
セネカの冷静な問いかけに、リオナが苦渋に満ちた顔で眉根を寄せる。
「……もう手遅れだよ。逃げたら背中から襲われる。みんなエルたんとフィクスくんを壁際に寝かせて防陣を組んで。ワンコも、モニカを下ろして迎撃に加わって」
これは……尋常ではないな。
まさか例のバケモノが追ってきたか。いや、上層方面からこちらに向かってきている以上は別物だ。
まったく、今日はどうなっているんだ。
みな戸惑っている。セネカの指示を待っているらしい。だが停滞を薙ぎ払うようにリオナが金切り声で叫んだ。
「――いますぐッ!!」
オウジンが前に出る。
リオナとセネカが俺を担架ごと壁際に置き、ヴォイドがモニカを縛りつけた制服の袖を解きかけた瞬間――。
「間に合わない……」
そいつはとてつもない速度で現れる。
真っ赤な液体を軌跡のように全身に纏い、数体分のオーガの手足や首を斬り飛ばしながら――まるで烈風のようにイルガの眼前へと飛び出してきた。
イルガはそれなりに経験を積んだ手練れだ。正騎士と打ち合っても、一対一でならば簡単に負けはしない。それに突発的な遭遇にも柔軟に対応できるように、部活動で仕込んできた。先鋒を務めることの多い一班だからだ。
事実、やつはすでに抜剣していた。
「~~ッ!?」
息を呑む。
抜剣はしていた。だが。
銀閃――!
青と赤の入り交じる烈風を俺が目視した瞬間にはもう、やつの刃はイルガの喉を撫で――バッ、と身を翻し、そいつは俺たちとの正面衝突を回避するように脇に逸れ、両足で地面を掻いて滑っていた。
唖然、呆然。
「……全員、いるわね?」
声。聞き慣れた声がした。リリだ。
その場にいたリリを除く全員が、一斉に長い息を吐くのがわかった。イルガにいたっては膝を揺らし、腰砕けでその場にしゃがみ込む。
ああ、そうか。だからまっすぐにこちらに向かってきていたのか。リオナのように気配を辿れたわけではないだろう。おそらく下層へと続く通路を最短距離で走ってきていたんだ。襲いくる魔物らを血肉に変えながら。
だが、到着までが早すぎる。彼女の全力疾走を考慮してもだ。
同じ疑問を浮かべたのだろう。セネカが尋ねる。
「ど、どうしてここに教官が……?」
「一層での待機中に魔物が突然二層から現れたからよ。ゴブリンだけではなく、オーガやオークまで。彼らはパニック状態で地上まで溢れそうだったから、地下で何かが起こったと判断して潜り始めたのよ。途中で撤退中の四班五班にあったから話は聞いたわ」
珍しく全身に返り血を浴びている。髪から足下へと滴るほどにだ。
これは数体分程度ではないな。リリならば返り血を浴びることもなく避けられる。おそらく数十、あるいは三桁近くまで殺しながらやってきたようだ。リオナやヴォイドが戦場という言葉を選んだ理由がこれか。
イルガが震えた声でつぶやいた。
「イ、イトゥカ教官……た、助かったぁ~……」
やむなしだ。ほんの一瞬、一秒にも満たない会敵で、首を断たれかけたのだから。リリもリリだ。あの状況でよく刃を止められたものだ。
リリの視線が俺へと向けられた瞬間、あいつもクラスメイトらと同じ表情を俺に向けた。信じられないものを見るかのような顔だ。
「エレミア!」
叫びながら走り寄り、担架の横に膝をつく。
至近距離で覗き込まれて気づいた。
真っ赤に染まったリリ。これはブライズが見た最期の景色だ。でも、あのときとは違う。俺は死なない。それに、何だろうなあ。リリの顔を見ていると、意識がしっかりとしてくる。他のやつらじゃだめだったのだが。
俺は震えながら手を伸ばし、リリの膝に触れる。
「……心配するな。生きてはいる。フィクスの治療のおかげでな。かろうじてだが」
リリが両手で口元を覆って、震えるような呼吸をした。大きく見開かれたその目から、唐突に涙がこぼれ落ちる。
数秒あった。
そうして言ったのだ。沈黙の中で、確かにこうつぶやいた。
リリの唇が微かに動く。声にならない吐息で、俺を見ながら「ブライズ」と。
「お、おい……」
だが慌てた様子で涙を拭い、リリは立ち上がる。
「マージス、あとで報告を。いまは一刻も早く地上まで撤退しましょう。怪我人を運びながら、わたしのあとについてきなさい」
こうして今回もかろうじてだが、俺たちは無事に地上まで撤退することができた。
今度ばかりは俺自身も死ぬかと思った。
あんなバケモノを掘り当ててしまったのでは、ダンジョンカリキュラム自体はこれで正式に中止となるだろう。古竜発見時と同様に、入り口を封印してお仕舞いだ。
成果は十分。大量の光晶石だ。瘴気がある限り、発掘もなかなかに骨が折れそうな作業ではあるが。
何にせよ、学園理事長としてのキルプスの面目も保てたはずだ。
だが、俺の中では何も終わってはいない。
いつか必ず、あのバケモノは俺が殺す。
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