第260話 あなたが見ていてくれたなら
背中で揺られながら、俺は考える。
もしも再び開戦された場合、彼女はこの先ご両親の願いに反し、自身の決断で多くの味方を失うことになるだろう。たとえそれが最良の判断であったとしてもだ。戦争で指揮を執るとはそういうことだ。
それでも立ち止まれない。いまここで涙を見せなかったように、己にそう課してしまったから。呆れるほどに頑強な意志だ。
だからこそいまのうちに伝えておきたいことがある。せめてこの言葉が彼女の救いになるように。
「昔な、娘がいたんだ」
「……あんた、ついに瘴気が脳まで……」
ひどいなっ!?
俺の言い方も相当まずかったが。
「ブ、ブライズの話だ」
「だと思った」
出鼻を挫くな。まったく。
「やつには血の繋がりのない娘がいた。ある日、娘が剣を手に取り、ブライズの真似事を始めた。やつはそれを快くは思わなかった。娘の両腕には死を生み出す剣ではなく、子を生んで幸せを抱いてほしかったからだ」
水音だけが響いている。
しばらくして、セネカがつぶやいた。
「それってイトゥカ教官のことよね?」
「だが結果的に娘は戦場で人を殺める人生を勝手に選んだ。ブライズの背を見て育ったせいだ。やつは自分を責めた。己が娘を人殺しにしてしまったのだと悔いた」
そして。
「やがてブライズはそのことを悔いたまま、無様にくたばった。娘はそんな後悔には気づきもしなかっただろうな。まったく、親不孝な」
セネカは苦笑する。
「言われなくたってわかってるわよ。どうせ不出来な娘です。そんなことより少し休んでなさい。多少でも回復するかもしれないから」
「だが、な。ブライズの死後、残された娘は剣で時代を変えた。何十万、何百万と敵味方に犠牲を出し続けてきた王国と共和国との長きにわたる戦争を、あいつはブライズから教わった剣だけで停戦させたんだ。リリはブライズの想像を遥かに超えた」
そうとも。すごいことだ。ブライズにだってできなかったのだから。
もしもこの時代まであの糞間抜けな剣聖が生き残っていたら、きっとリリにこう伝えただろう。照れくさそうにな。
「――俺は娘を誇りに思う、とな」
セネカが怪訝な表情で俺を振り返った。
「また。ねえ、本当に頭は大丈夫? まるで自分のことみたいに話してるわよ?」
「あくまでもブライズのことだ。それにやつのリリ・イトゥカへの愛が途切れたことなど一度たりともない。リリが剣を握る以前から今日までずっとだ。……まあ、素直に口に出すことこそ一度もなかったが」
少し笑ったセネカがつぶやく。
「やっぱり自分のことみたいに言ってる。わかんないでしょ。ブライズがイトゥカ教官のことをどう考えていたかなんて。本人はもう死んでるんだから」
「いいや、俺にはわかる。そしてブライズがそうだったように、おまえのご両親も同じだと、俺は思っている。それが親というものだからだ」
しばらく妙な沈黙が流れたあと、セネカはそよ風にも掻き消されそうな微かな声を出す。これまでに見たことのない表情で微笑みながらだ。
「……うん……そうかもね……。……あ~……だめだぁ……。……なんでそんな話するのよ……」
セネカが視線を前方に戻した。
「どうした?」
「寝て。早く」
「なぜ?」
ああ……。
背中から嗚咽が伝わる。抑えようとしているようだが、呼吸も乱れ始めた。
顔を覗き込もうとすると視線を逸らされ、さらに後頭部の頭突きで阻止された。
「とても痛い」
鼻の奥にじんと響く。
ひとつ結びのクッションがなければ鼻血が出ていたところだ。
「うっさい、バ~カ。見るな」
「寝る」
「そうして」
見上げる光晶石の天井がさらに高くなってきている。
俺たちは川下の方角を目指して進んできたのだから当然だ。水は高い方から低い方へと流れる。だが川上へと進めばベースから距離を離すことになってしまう。つまりバケモノの居住地となっていたあの建造物を挟んで向こう側だ。
どうにか崖上に戻れるルートを発見できない限り、俺たちはもう終わりかもしれん。
いずれにせよ自力での復帰は厳しそうだ。ベースに近づけるだけ近づいて、そこでリオナやヴォイドの助けを待つしかない。
「――ッ」
唐突に皮膚が粟立った。
助けを待つ。いや、もはやそれ以前の問題か。
「セネカ」
「まだ起きてるの?」
「下ろしてくれ」
セネカが俺を背中から滑らせて下に下ろした。ぐらり、左側に傾いた肉体をショートソードを抜いて水中を突くことで支え、防刃繊維で編まれた制服を急いで脱ぐ。
「エレミア?」
「着ていろ。おまえなら俺のサイズでも入るはずだ。多少なら耐えられるようになる」
セネカは自身の制服をモニカに貸してしまった。彼女が着ているものは、ただの布にすぎないシャツだ。
「何の話を――」
「バケモノが追ってきた。もう近い。臭いを辿っているのか速度は遅いが、発見されるまでいくらもないだろう」
セネカが顔色を変えて俺の制服を受け取った。そのまま袖を通す。少し胸のあたりが窮屈そうではあるが、羽織る程度のことはできた。
「ここまで運んでくれて感謝する。――いいか? ここから先はおまえひとりだ。全力で走れ。後ろを振り返るな。おまえが俺を背負ったように、俺がおまえの時間を稼いでやる」
世界は揺れたままだ。だが突き立てたショートソードに寄りかかれば、視界もかろうじて静止する。
――……ォォ……ォォォォォ……!
「――っ! わかったら行け。やつが走り出した。発見されたようだ」
セネカが喉を大きく動かした。
そうして右足を軽く引いて、俺が杖代わりにしていたショートソードをコンと軽く蹴った。支えを失った俺は浅い川の中へと倒れ込む。
「ぐ……、何のつもりだ!?」
流れの中で手探りで剣を探す俺より一瞬早く、セネカが俺のショートソードを取り上げる。右手に一振り。左手に一振り。
「最期かもしれないから、言いたいことを言わせてもらうわ」
「そんな時間は――!」
セネカが笑う。恐怖に引き攣った顔で、歯をガチガチと打ち鳴らしながら。
「わたしね、エレミアが見ててくれると、いつもより頑張れるんだ」
息を呑む。
来た。発見されてから数秒もない。とてつもない速さで距離を詰め、やつは崖上から何の躊躇いもなく俺たちの間近へと飛び降りてきた。
あらためて、人ではない。あれだけの巨体で飛び降りながら、ほとんど足音がなかった。地面を抉ることさえない。
セネカが二振りの剣を手に、バケモノと正対する。
「あんたはいつだって小さな身体で、何度も何度も身を挺してみんなを救ってくれた。わたしはいつもそんな背中を見てきた。だからわたしは、剣聖様よりイトゥカ教官よりも、エレミア・ノイを尊敬しているの」
バケモノが彼女を睥睨した。
鋭い爪が持ち上げられる。
「見ててね。それだけで頑張れるから」
やめろ。やめろ。そいつには帰る場所がある。立ち上がろうとして顔から転んだ。水を飲んで立ち上がり、吐きながらまた転がる。
まっすぐ走ることさえできない。
「やめろ……そいつは……」
そいつはこの国の未来そのものだ――!
それは偶然だったに違いない。いや、あるいはバケモノがセネカという無力な獲物を弄ぼうとでもしたか。轟と振り下ろされた爪を、セネカは二振りの剣で防いだ。
「――ッ」
だがこの域での戦いに奇跡などない。
凄まじい金属音が鳴り響き、セネカの小さな全身では受け止めることすらできず、せせらぎの水しぶきを巻き上げながら水底を抉り、跳ね上がって、ただ静かに転がった。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。




