第257話 生息空間の悪神④(第26章 完)
背筋に悪寒が走った。
恐ろしい気配に追い立てられるように、俺たちは三段飛ばしで螺旋階段を駆け下りていく。中腹あたりまできたとき、再びやつが咆吼した。
空間の震動が鼓膜を激しく震わせ、三半規管を狂わせて視界をも上下左右に揺らす。
「……ッ」
やつを一度でも見たことがなければ、腰を抜かしてその場にへたり込んでもおかしくないほどの叫びだ。
直後、急速にやつの気配が近づいてくる。
「すぐに追いつかれるよ!」
俺たちが一階に辿り着いたと同時にリオナがそう叫んだ。
走る、走る、走る――っ!
もしもこの先にグールの群れがなければ、俺たちはもう終わりだ。この建造物を出たあたりで追いつかれて全滅する。
一階中央を通過したところで、背後の螺旋階段からバケモノの姿が見えた。
セネカが息を呑む。
「もう!?」
当然だ。速度が倍近く違う。直に戦った俺たちにはわかる。
やつにしてみれば、俺たちなどただ散歩でもするかのようにゆっくりと移動しているだけにすぎない。
ヴォイドが振り返りながら先頭のリオナに吐き捨てた。
「クソったれがッ!! ――猫、もっと速度を上げろ!」
「これ以上はあんた以外ついてこられないでしょ!」
ヴォイドの足ならば、モニカを見捨てれば奇跡的に撒くことができるかもしれない。あるいはリオナの穏形術ならば、俺たちという足手まといがいなければ帰還できるだろう。
だが深手を負って足を引きずるように走っているオウジンや、前三者に至っていないセネカにはムリだ。むろん、言うまでもなく幼い俺にも。
ああ、情けない。つくづく、このエレミーの肉体の不甲斐なさには悔やまれる。
俺がいまもブライズだったならば……いや、もうよそう。とにかく走るしかない。
「――っ!」
幸い。幸いだ。出口から見える生息空間には、俺たちの帰りを待ちわびるかのようにグールどもが詰め寄ったままだった。
建造物内から光晶石の輝く洞窟内の生息空間へと飛び出す。
グールたちは俺たちを見るなり犬のような口吻を捲り上げてガチガチと牙を打ち鳴らし、襲いくるべく体勢を整えた。
「クク、律儀な野郎どもだ。――行け、猫! 殺す必要はねえ! 攪乱しながらぶっちぎれ!」
「いちいち言わなくてもわかってるよ!」
振り返る。もう数歩の距離のところまでバケモノは迫っていた。
セネカは歯を食いしばりながら、全力で駆けている。オウジンもいまのところ膝を折る様子はない。俺の脇差しが杖代わりだ。
ならば俺もまだ反転する必要はないだろう。
たとえバケモノの三歩で背中を裂かれる距離だとしても。
獣の息吹が背後に迫る――!
「群れに入るよ!」
俺たちに続いて飛び出してきたバケモノを見た瞬間、グールらは浮き足立つ。目を見開いて牙の打ち鳴らしをやめ、次の瞬間には一斉に恐慌状態に陥ったんだ。
背中を向けて逃げ出す個体もいれば、呆然と立ち尽くすやつもいて、かと思えばバケモノには気づかずに俺たちに襲いくる間抜けもいる。
いずれにしても、リオナはその群れの中へと身を低くして潜り込んだ。バケモノはもう俺の背後一歩に迫っている。爪の振り下ろし一回で俺は死ぬ。
ダガーを抜いたリオナが恐慌状態で立ち尽くしていたグールの喉を裂きながら走った。ヴォイドはそのグールの喉元を片手でつかみ、軽く上方へと投げながら走り抜ける。オウジンとセネカと、そして俺がその下をくぐり抜けた瞬間、振り下ろされたバケモノの爪が投げ上げられたグールに突き刺さって大地に叩きつけられた。
パン、と肉と水の弾ける音が響いた。
何体かのグールが俺たちから視線を外し、バケモノへと襲いかかった。バケモノは煩わしそうにそれを払い除け、容赦なく叩き潰す。そこに怒りを覚えた他のグールらがバケモノへと飛びかかる。
――行ける!
撤退戦に入ってから、初めて俺たちとバケモノとの距離が開いた。
もはやグールの群れの大半が、その視線を俺たちではなくバケモノへと向けていた。これまで生贄を捧げ続けてきた悪神へとだ。
長きにわたり同種を生贄に捧げ続けてきたのに、この神は自身らに何ももたらさなかった。塵芥のようにただただ殺されるのみ。ならば己らは何のために種を犠牲にしてきたのか。
恐怖が怒りを上回ったグールは、次々とバケモノへと飛びかかった。逃げる個体は半数程度だ。
瞬間、視界が開けた。
それまで密集していたグールの肉体がふいに消え、密林の景色が開けた。
俺は前後左右を確認する。
先頭のリオナ。そのあとをピタリとついて走るヴォイドと、やつが背負ったモニカ、俺の渡した脇差しを杖代わりにして走るオウジン、セネカは苦しげに喘いでいるが、隣にいる。
全員無事だ。
俺は叫んだ。
「急げ、リオナ! いまのうちに距離を空けろ!」
「あいあい! 敵の気配は避けるけど、行きと違って帰りは地形を気にせずほぼ直線で帰るかんね! 足下に気をつけて!」
心臓が狂ったように跳ね回っている。これだけ走り続けているのに、粘つく汗の温度がずっと冷たいままだ。
腰に吊した水袋で喉を潤しながら、密林を走った。飲みきった水袋は捨てていく。少しでも身軽になりたい。脇差しの鞘も捨てた。ショートソードの鞘もだ。少々危険だが、抜き身のまま腰に差し直す。
速く、もっと速く――!
時間がない。瘴気もそうだが、それ以上にあのバケモノが追ってくる。グールが百体、二百体いたところで、それほど時間稼ぎができるとは思えない。すべて殺し尽くすまで執着したと仮定してもだ。
俺たちを見失ってくれればいいが、ああいった犬だか猫だかに似た種は得てして嗅覚に優れている。
リオナが前方の地面を指さして言った。
「たぶん罠。全員、あの落ち葉溜まりは跳び越えて」
「了解よ」
リオナに続いてヴォイドが、そしてオウジンとセネカが跳び越える。最後に俺が跳び越え――た……つもりで、端を踏んだらしい。
ついた足に地面の感覚がなかった。
「エレミア!」
「お?」
伸ばされた手が俺の腕をつかみ、滑り落ちそうに傾いた肉体を引き止めてくれる。セネカだ。
手に支えられながら振り返ってわかった。原始的な落とし穴だ。底には削って尖らせた石や木々が設置されている。
「……すまん、セネカ。助かった」
「らしくないわね。あんた、もしかして疲れた? 体調悪かったりする?」
「んあ? いや、いつも通りだぞ。このくらいの疲労にも慣れている」
前世から。言わないけれど。
引き上げられて、長い息を吐いた。
セネカは小首を傾げながら、怪訝な表情をしている。
「珍しいわね」
確かに。俺はきっちり距離を測って跳んだつもりだった。ブライズ時代との記憶の差異だろうか。糞。足を引っ張っている場合ではないというのに。
少し先まで進んでいたリオナとヴォイドが戻ってきた。
「どしたー、エルたん?」
「なんでもない。足を滑らせてな。セネカに支えてもらった」
リオナが開いた落とし穴に視線をやって、眉間に皺を寄せた。
「だいじょぶだよね?」
「見ての通りだ。それよりオウジンは?」
前方に視線を戻して、俺たちは驚愕する。
オウジンが倒れていた。限界だったんだ。いや、そんなことはわかっていた。気づかないふりをしていたにすぎない。
あのバケモノを相手に、たったひとりで戦っていたんだぞ。
「オウジン!?」
呼吸はしている。だが震えながらだ。意識はかろうじて保っているようだが、眼球の焦点も定まっていない。先ほどから一言も喋らなかったわけだ。
ヴォイドがつぶやく。
「こりゃ、ちとまじいな」
「しょうがないなあ。あたしが肩を貸しながら走るよ。セネカやエルたんじゃ身長がちっこいからムリっしょ。それにリョウカちゃん、男子にしては小柄だからモニモニよりは軽そうだし」
「ククク、その発言、あとでフリクセルにも言ってやれよ」
「やーめーてー。失言でしたー」
リオナがオウジンの脇に手を入れた。
そうしてゆっくりと起こす。
「リョウカちゃん。もう少しだからね」
「…………す……ま……ない……」
「えっへへ、いーよー。これ貸しイチだかんね」
「…………はは……怖いな……」
俺たちは少し笑った。笑えたんだ。ようやく、いつものようにな。
だが、そのときだった。
――……ォ……ォォ……!
あのバケモノの遠吠えが聞こえてきやがったのは。
いい加減ため息が出る。
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