第255話 生息空間の悪神②
3/9追記
おだやか先生によるコミカライズ版の連載がゼロサムオンライン様にて開始されました。
3/9の活動報告に表紙絵やアドレスなどを載せさせていただいております。
小説ともども、どうぞよろしくお願いいたします。
バケモノ。ヴォイドはやつをそう称した。ホムンクルス以来だ。
俺はその意味をいまさらながらに思い知る。
やつが膝を曲げて身を屈めた。次の瞬間、十数歩あったはずの距離は消滅し、やつはもう俺の眼前にいた。
油断などしていない。アテュラの助言通り、見ることに注力もしていた。なのにだ。俺はかつて、前世での経験も含め、このような馬鹿げた出鱈目な速さで動く生物を知らない。
「~~ッ!?」
それでも脇差しをやつの爪へとぶつけることができたのは、思考外で動くことを当然としていた前世からの経験の蓄積、その結果にすぎない。それはつまり、考えてから動いていては間に合わないということに等しい。
だからといって、うまく受け流せたわけではない。
金属同士を打ち合わせたような音が響き渡り、両肩が外れそうなほどの衝撃を受けた。速度の割には軽いくらいだ。けれども体勢は背後に持っていかれる。
倒される――!
地面から両足が離れ、背中が地面に近づく。それでも目を離すまいとして凝視していたはずなのに、俺はバケモノの姿を再び見失った。
直後、背後から踏み切るような音が響く。全身を反らせながら音の正体を確かめたときにはもう、四本の爪が俺の頭部に振り下ろされていた。
やつは俺が見失うと同時に、背後に回っていたらしい。
これは防げん……!
躊躇はなかった。というか思考する前に動いていた。
左腕を捨てる。左腕で爪を受け止めるしかない。仰向けになってしまったその後のことはわからん。
いまを生きるために、爪と頭部の間で左腕を立てた。
だが鋭い四本の爪が俺の左腕を抉る寸前、滑り込んできた刀の刃が爪を弾いた。ギィンと音が鳴り響き、バケモノがステップを切って距離を取る。
俺は仰向けに倒れ込んだ勢いのまま足を振り上げて後転し、体勢を戻した。
ドグ、ドグ、ドグ。
心臓が恐ろしい音を立てて血液を全身に巡らせている。ぶわっと汗が全身に浮いた。
わずか二秒足らずでこれだ。
ろくに打ち合うことすらできなかった。セフェクのとき以上の絶望かもしれん。
オウジンが俺を庇うようにバケモノと対峙し、掠れた声で途切れ途切れにつぶやく。
「……見ようとするな、エレミア……。……目では、追えない……」
そうして身を低くしながら外周の影を伝い、バケモノの背後を取ろうとしていたヴォイドへと、目一杯の声で叫ぶ。
「ヴォイド! 祭壇の背後に三階へと続く階段がある! 彼女はそこに連れていかれた! 追ってくれ!」
バケモノがヴォイドの動きに気づいた。だがすぐには襲いかからない。俺やオウジンに背中から攻撃されることを警戒しているんだ。
舌打ちをしたヴォイドが大声で返す。
「てめえ、オウジン! 俺抜きでやれんだなッ!?」
だがその問いかけに、オウジンはこたえなかった。
左腕をだらりと下げ、右腕一本で刀の峰を肩にのせながら。
「僕じゃもう彼女を背負えない。エレミアでもリオナさんやセネカさんでもムリだ。……だから、頼む……。……ヴォイド、キミしかいないんだ……」
「てめえッ、俺の話を――ッ」
「頼むよッ!!」
それは絶叫にも等しい懇願だった。
「グールが三体……。……やつらはこのバケモノを恐れ……モニカさんに手出ししていない……。……必ず生きている……」
ヴォイドが髪を掻き毟って吐き捨てる。
「クソがッ!! いいか? こいつぁどでけえ貸しだぜ、オウジン! くたばんじゃねーぞ!」
「……ありがとう……」
俺は入り口付近で息を潜めていたリオナとセネカに早口で告げる。
「ヴォイドについていけ。ここは俺とオウジンでどうにかする」
「ど、どうにかったって、い、いま全然歯が立たなかったよね……? ほんとに死んじゃうよ、エルたん……! リョウカちゃんだってもう限界――」
「やかましいぞ。おまえたちは足手まといだ。守りながら戦える相手ではない。さっさとモニカを助け出せ。それから全員で撤退戦に移行する」
なおも食い下がろうとしたリオナの手をセネカが引いた。
「リオナ。だめ。時間がない。エレミアが正しい」
「そんなのわかってるよ!」
「いまは感情で動かないで。決断を間違えば全滅する。リーダーはわたし。従ってもらうから」
うつむいたリオナの手を強引に引いて、セネカが外周を走り出す。やつが彼女らに視線を向けた瞬間、オウジンが動いた。
素早く距離をつめ、右腕一本で全身を回転させながらバケモノへと斬りかかる。すぐさまオウジンへと視線を戻したやつはそれを難なくかいくぐり、次の瞬間には――否、かいくぐりながらすでにオウジンの腹部を掻き斬るべく、爪を振るっていた。
けれどもそれを予測していたかのように、オウジンは腰を引く。
「――ッ」
ギギと金属糸の制服が火花を立てて鳴った。
おそらくはそこに意識を持っていかれた瞬間を狙ったのだろう。バケモノはステップを切り、オウジンの背後へと回り込む。
肝が冷えた。見えていない。オウジンの視線はまだ前方にある。いまから走っても助けられない。
爪がオウジンの背中へと振り下ろされる――が、オウジンは前方を向いたまま、その爪を刃の腹で受け流し、振り返る動作に連動させて斬撃を繰り出した。そのときにはもう、バケモノは遙か遠く。掠ることさえなかったけれど。
「……?」
なんだ、いまのは……。
オウジンは確実にバケモノの動きを目で追えてはいなかった。なのに見もせずにその攻撃を防いだぞ。
先ほどオウジンは俺に「目で追うな」と言った。
アテュラの助言とは正反対だ。
だがしかし、いまの俺がいくら凝視したところで見えないのは確かだ。ならばいまはオウジンの助言に従うしかない。
先ほどのオウジンの動きと似たような経験をしたことは、あるにはある。
例えばリリとローレンスとのフラワーガーデンでの一件だ。俺は身を隠したままローレンスに石をぶつけようか迷ったが、結局しなかった。おそらくその瞬間を見ずとも、リリが防いでしまうであろうと考えたからだ。
見えていなくても防げる。
ああ、そうだ。ブライズだった頃はそうだった。雑多な戦場であっても飛来する矢などにあたらない自信があった。ときには矢をつかんで防ぐこともある。
意識などしてはいなかったが、あれは一体どうやっていたのか。
オウジンがつぶやく。
「……エレミア……。ヴォイドたちが行ったら、やつは僕らへと襲いかかってくる……」
あのバケモノは挟撃の危険性を知っている。だからいまは留まっているだけにすぎない。
つまりそれを考えられるだけの知能がある。厄介だ。
「わかっている。あまり喋るな。呼吸を整えることに専念しろ。血などゲボゲボ吐きおって、この阿呆が」
「……空振一刀流の――いや、ヒノモトの言葉には〝明鏡止水〟というものがある……。……どのような状況においても、澄んだ水面のように心を静めろ……」
「この状況で落ち着けということか?」
先ほどから心臓が痛いくらいに跳ね回っている。
「……敵が眼前にいようが、あるいは背後を取られようとも、いつも平常心でいろ……。そうすれば意識せずとも、その気配が次の行動として見えてくる。それが空振一刀流の〝心眼〟だ……」
リオナとセネカがヴォイドと合流し、生贄祭壇の裏側へと駆け込んでいった。おそらくそこに三階への入り口があるのだろう。
「……弛まぬ努力を続けてきた肉体は、それだけで勝手に動く……」
「そうか。そういうことか」
エレミーに転生してしまったいまとは違い、ブライズだった頃はなまじすべてを目で追えてしまっていたから、近接戦における〝心眼〟は使えていなかった。使う必要もなかった。
く、ブライズめ! たかが普通の人間の分際でふざけた肉体性能をしおって! まるでアテュラのようではないか! ……俺だよ。
一方で敵の姿の見えない遠距離からの矢や魔術には無意識ながら〝心眼〟は使えていた。さらに弓矢など己に命中するはずがないと信じ込み、恐れたことさえなかった。要するにこれが〝明鏡止水〟の状態だったというわけだ。
……非常識にも程がある!
しかしヒノモトの剣士の精神性が、ここまで剣に影響を及ぼすものだったとは。これをうまく扱えたならば、倒せないまでも時間いっぱいまで引き延ばすことならできるかもしれない。
「……岩斬りのように、キミならぶっつけ本番でも可能だと信じているよ……」
「善処はする」
「ははは……げほっ、かは……ッ」
オウジンが血の混じった唾を吐き、口元を袖で拭った。
足下が覚束ない。限界が近そうだ。
ヴォイドたちの気配が階段奥へと十分に遠ざかってから、バケモノが再びこちらと正対象に立った。
ああ、わかる。わかるぞ。意識して見てわかった。
先ほどと気配が変わっているな。苛立っている。ずいぶんとだ。お気に入りの生贄の方へと向かうヴォイドたちを通さざるを得なかったからだ。
そうだ。そうだとも。焦れ。隙を見せろ。俺たちを生かしたまま追えるとは思うなよ。
――アアアアァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
一層大きな咆吼が轟き、空間を振動させた。
距離などあってなきようなもの。
次の瞬間にはもうオウジンの喉へと迫った爪を、俺は脇差しで弾き上げていた。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。




