第251話 猟犬と狂犬
リオナを先頭にして俺たちは湿地帯を覆うようにできた森を走り続ける。
湿気に苛立つ。不快だ。
もはや靴の中などグチョグチョ、顔にあたる虫が鬱陶しい。ぬかるみの足跡も、合間合間に現れる浅い沼のせいで途切れ途切れだ。そもグールのような人型がうろついているようでは、正直オウジンの足跡であるとは限らない。
それでもリオナはどんどん進んでいく。
「リオナ、方向は合っているのか? 臭いで追えるわけではないだろう?」
背後から声をかけるとリオナが一旦立ち止まり、自身の顔の側まで伸びていた樹木の蔦を引っ張って俺の眼前に持ってきた。
「これ見て。ワンコもセネカも」
「――!」
斬られている。オウジンだ。痕跡を残していた。
「足跡の判別は不能だけど、人を引き摺ったような痕跡はわかる。モニモニが抗ってつかんだような泥の手形もさっき見た。それにリョウカちゃんは方角が変化するところでは、必ずわかりやすく樹木に傷を入れてる」
「すごいな。俺にはさっぱり見つけられん」
ヴォイドもセネカも肩をすくめている。
だがリオナのこの能力には何度も救われている。いまさら疑う余地はない。それは三班のみならず、セネカであってもだ。
「おまえに任せる。足を止めさせて悪かった。頼む、リオナ」
「うん。行くよ」
リオナが余計なことを言わなくなっている。普段頼み事などしようものなら、何を要求されるかわからないというのに。
いつもなら噛みつくヴォイドも無言だ。
みんなわかっているのだろう。これはかつてない危機だ。こうしている間にも、俺たちの肉体は徐々に瘴気に蝕まれているのだから。
再び走り出したリオナを追って、俺たちも駆け出す。
倒木を音もなく跳び越え、積もった濡れ落ち葉を踏み潰し、乱立する樹木を避けながら走り続ける。
「足を止めずに見て」
そのリオナがふいに右方向を指さした。だがそちらには向かわない。
何者かに併走されてる。風もないのに低い樹木やシダ植物が揺れているんだ。
ヴォイドが顔をしかめた。
「グールかぁ?」
リオナが走りながら呻るようにつぶやく。苦虫をかみつぶしたような表情でだ。
「違う。後方から追いつかれたんだけど、一瞬で距離を詰められた。たぶん二足歩行の生物じゃないと思う」
魔獣か――! 面倒な!
直後、リオナが息を呑んだ。
「――気配が変わった! 来るよ!」
「上だ! 散れ!」
ヴォイドの叫びと同時に、リオナとヴォイド、そして遅れてセネカが四方に飛んだ。中央、俺の全身を呑み込むように影が落ちる。
「エレミア!」
振り返りながら走る俺に牙を剥き、獣が空中から襲いかかった。
爪……ッ!?
俺はぬかるんだ地面を転がってそれを躱し、大口を開けて迫った獣へと、見よう見まねで空振一刀流の抜刀術を繰り出す。
「おお……ッ!!」
ガギン、と音が響き、俺の脇差しは上下の牙に挟まれるようにして止められた。
動かん……!
ブライズの肉体であれば強引に砕くことも吹っ飛ばすこともできたろうが、エレミアの肉体ではこれが精一杯か。
「くっ!」
異様。またしても異様な生物だ。魔獣なのだろうが、前世を思い返してなお知識にない。
ぞわぞわと、肌が粟立った。
嫌悪感を抑えきれん。まるであの出来損ないの竜を見たときのようにだ。得体の知れない夜鬼や屍食鬼の方が、生物的には遥かにマシに見える。
外骨格だ。肉体を包み込む鎧のように、外向きに尖った無数の歪な骨が、魔獣の外部を覆っている。背中も腹も、顔でさえもだ。骨は外側に向けて針のように尖っているため、他者を寄せつけない。
四肢もまた尖った骨のような外殻に覆われている。俺が先ほど爪と勘違いしたものは、どうやら前脚から刃のようにはみ出た骨だったようだ。
「まるで昆虫だな……ッ」
かろうじて全体の形状を既知の生物にあてはめるのであれば、痩せた犬だ。だがその禍々しい体躯の大きさは、俺の知る犬という種を遥かに超えている。
噛まれたままの脇差しが軋んでいる。フアネーレ商会の武器でなければ、あっさりと噛み砕かれていただろう。
「おらぁッ!!」
ヴォイドが叫び、やつの顔面へとブンディ・ダガーを突き出す。
しかし怪物は噛んでいた俺の脇差しをあっさりと放すと、四足獣特有の素早さで後方へと逃れてそれを躱した。
それどころか俺たちを攪乱するように、藪から藪へ、あるいは木枝に乗ったり、幹を蹴って背後に回ったりし始めた。
「チッ、猟犬かよ」
視線で追うのもやっとだ。加えてこの湿地帯という足場。
正面からの牙をブンディ・ダガーの手甲を合わせて防いだヴォイドが吐き捨てる。
「クソが! 場所が悪いぜ、エレミア!」
「わかっている。だがどうしようもない」
やつはものともせずに飛び回っているが、俺たち人間にとっては煩わしいことこの上ない。踏み出すたびに足を取られぬよう、気を配る必要がある。深めのぬかるみを踏めば終わりだ。
「避けろ、リオナ!」
「ひゃんっ」
飛びかかられたリオナがやつの股下をかいくぐるように前転して、泥だらけの全身で俺とヴォイドの背後へと逃れてきた。
もはや身体どころか顔まで泥水まみれだ。
「ぺ、ぺ、うぇ~……。も、最悪ぅ……」
「こんなところで時間食ってる場合じゃないのよ!」
セネカが大声で叫び、ひとり走り出した。眼前にあるのは浅い沼だ。
「セネ――!?」
焦って追いかけようとした俺へと、彼女が一瞬だけ視線を向ける。
……!?
背中を見せて逃げ出した獲物へと、当然のように魔獣が躍りかかった。前脚から伸びる刃のような骨でセネカを背後から斬りつけようと迫る。
その瞬間、セネカは踵を返してショートソードを噛ませることで怪物の牙を受け止め――切れずに湿地帯の沼へと頭まで仰向けに沈み込んだ。
「くぶ……あッ、がはッ! う! ~~っ」
セネカはショートソードの柄と刃をつかみ、水しぶきをあげながら、魔獣の噛みつきをかろうじて防いでいる。
その両腕が力なく折れたとき、俺はすでに宙を舞っていた。眼下でセネカの喉を噛み砕かんとする怪物の頸部へと向けて、降下しながら岩斬りを繰り出す。
一瞬早く気づいた魔獣が側方へと跳躍する――が、脇差しの刃はやつの首を掠めた。ギギと引っ掻き、岩斬りによって刃は外骨格へと潜り込む。
「ち……ッ!」
斬ったが、浅い。
外骨格内部の肉や血管を裂いたのは間違いない。それでも命には届いていない。いつも肉体の小ささや脇差しの短さがネックとなる。
だがまあ、十分だろう。
なぜならヴォイド・スケイルという男が、この機を逃すような間抜けではないこと知っているからだ。
「ぐおらああああ!」
轟音が鳴り響いた。
技などない。力と道具に任せた圧倒的な一撃だ。
やつのブンディ・ダガーは魔獣の硬い外骨格を破壊し、突き破り、粉砕し、その下に守られていた肉体をも真綿のように圧し潰して、その醜い全身を浅い沼地の底へと叩き伏せていた。
爆発でもしたかのように水しぶきが高く舞い上がり、砕けた骨と一緒に周囲に降り注ぐ。
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