第209話 剣聖の名が廃る
「後ろだ、ヴォイド!」
そう叫んだときにはもう遅かった。ケメトは水中から上がろうとするヴォイドの足首をつかむや否や、振り返ったヴォイドに何をさせる暇もなく、後方、激しく流れる本流へとやつを無造作に投げ捨てたんだ。
「走れ、エレ――!」
ヴォイドが水流に落ちる。その流れは凄まじく、ヴォイドの長身を一瞬で飲み込んで、先ほどまで必死で戻ってきた通路へと押し流していった。
天井まですっかり水没してしまった通路へと逆戻りだ。息のできる隙間などない。
「ヴォイ……ド……?」
嘘だろ、おい……。
ケメトが嘲笑う。上半身を水流から出し、俺のいる支流の通路へと足を掛け、水の滴る長い髪を片手で掻き上げて。
「ふはは、悪かったな。本来俺が苦しめながら殺したいやつはおまえを含め四名だ」
俺、オウジン、サビちゃん、そしてセネカのことだろう。
「さっきのやつは俺にとってどうでもいい命だったから、ついゴミのように投げ捨ててしまった。まあそう嘆くな。亡骸くらいは回収できるだろう」
ケメトが自らの舌を出し、人差し指でさす。
「ここで俺が喰らってやった騎士どもとは違ってなァ?」
「人喰い……」
ホムンクルスは生物だ。この薄暗い地下上水道で何を喰らい生きてきたのか、ようやっとわかった。どうやら騎士団の捜索隊はケメトに栄養を与えていただけらしい。
そういえば最初の遭遇からすでに、こいつはワーグネル男爵の腕を咥えていたか。
冷え切った全身に熱が灯った。いかりに血管が押し広げられ、全身を脈打たせながら高熱が駆け巡る。体熱が上昇し、全身から湯気が立ち上った。
焦りや不安が、どす黒い怒りと殺意によって圧し潰されていく。
「外道か。いや、もはやただの魔物だな」
「礼を欠くなよ、ガキ。上位種だ。おまえたち人間の」
脇差しの柄に手を伸ばし――……。
俺は歯がみした。ここではだめだ。こいつの息の根を確実に止めるには。
この支流にも水は流れ込んできている。足首までだった水が、いつの間にか膝下まできている。だからこそ、ヴォイドは最期に叫んだのだ。走れ、と。
この先にある別の本流にさえ出られれば、その通路に水はないはずだ。どこへいこうがこの足では逃げ切れはしないだろうが、そこでならば少なくともまともに戦える。
俺は踵を返して逃げるように走り出した。
ケメトが呆れたような声を発する。
「おいおい。逃げるのか? 人間というのは俺たちホムンクルスとは違い、仲間のために命を捨てられる尊く愚かな生き物だと教わったぞ。わかっているのか? 俺はいま、おまえの仲間を殺したのだぞ。ゴミのように」
ケメトが追ってきた。水しぶきを上げながら走るも、すぐに追いつかれる。
やつが俺の頸部を掻き切るように右腕を振った。俺はとっさに抜いた脇差しの刃の腹を滑らせてそれを受け流し、距離を取ってまた走る。
じんと腕が痺れた。
「はははっ、ネズミはおまえではないか。いいさ、わかった。好きなだけ逃げてみるがいい。だがもうおまえを救う仲間はいない。おまえはひとりだ」
けたたましい嘲笑とともにやつが追ってくる。その手から放たれた炎弾を跳躍で躱し、追いつかれて回り込まれた。だが足は止めず、俺は支流の水路に頭から潜り、流れの勢いに乗ってやつの側方をすり抜け、その先の本流まで一気に泳ぎ切った。
振り返りながら頭を出すと、眼前に炎弾が迫っていた。
「~~っ!?」
「ほらほら、どうしたァ! 逃げてみろよォ!」
すぐに水中に引っ込める。水面に着弾した炎弾は凄まじい衝撃と音を響かせながら水柱を高く上げた。その柱に紛れるように俺は本流の通路に這い上がり、脇差しを構え直す。
この通路に水はない。水路には勢いよく流れ込んできているが、通路にまで溢れることはないはずだ。
ここで迎え撃つ。
水しぶきを突き破って現れたケメトが、俺の頭部を目がけて拳を振り被った。
「終わりだッ、目障りなガキッ!」
不意打ちのつもりだろうが馬鹿め。予想通りだ。ブライズの経験は役に立つ。目隠しがあれば、素人ほどそれを利用したくなるものだ。
俺はケメトの拳を最小限の動きでかいくぐり、飛び込んできたやつの勢いを利用してその胸部に刃をあてた。
瞬間。およそ己のものとは思えぬ、いいや、紛う事なきかつての己。獰猛なる獣のごとき裂帛の咆吼が、無意識に口から吐き出されていた。
「ガアアアアァァァァァァーーーーーーーーーーーーーッ!!」
振り――切るッ!
先ほどサビちゃんが砕いたケメトの胸部にだ――が、キィィと体表面を滑った刃は、やつを裂くことができなかった。すでに修復済みか。
しかしケメトは背中から通路に叩き落とされ、跳ね上がり、転がって、ようやく膝を立てる。
派手さに反して、おそらく無傷。わかっている。
だがどうだ。たったの一撃で、あの表情。笑えるぞ。
俺は脇差しの切っ先をケメトへと向けて、冷徹に嗤う。
「思い出したか? 死の恐怖を。おまえは今日ここで死に、肉体を失った意識は消滅する。だが心配するな。別のおまえが再びこの世界に現れても、何度でも俺が殺す」
正直に言えばハッタリだ。
我ながらあまりに未熟。とっさの瞬間に岩斬りがちゃんと出せていれば、すでに真っ二つにしてやれていたというのに、うまく合わせられなかった。
それでも勝ち目がないわけではない。セネカがケメトにかけた呪縛はまだ残っている。初めて恐怖を知ったやつは、本来持つその力を存分には振るえなくなる。迷い、萎縮し、動きの中にほんの少しの隙を生む。
だから吼えるのだ。ブライズは。いつだって吼える。
「どうした、さっきまでの勢いは。お望み通り相手になってやるぞ、ホムンクルス」
人間は怒りや大義といった意志の強さで――あるいは騎士道などの教えでそれらを乗り越えるものだが、世界に生まれ、まだたかだか数年のホムンクルスには到底できない芸当だろう。対峙してわかった。やつの精神年齢はせいぜい一桁だ。
俺は濡れた髪を振って水を飛ばし、獰猛に歯を剥いて嗤う。獣のように。
「そんなに怯えるなよ。糞餓鬼」
「こ……のチビ……ッ」
セネカの呪縛はケメトから力と勇気を奪い続け、ヴォイドの叫びはいまも俺に力と勇気を与えてくれている。
俺がいまひとりだと? 勘違いするな。おまえには理解できないだろうが、三対一だ。
これで負けたら〝剣聖〟の名が廃るというもの。
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