第199話 ただの笑い話にしかならない
キルプスの上体が下がった。手を伸ばしても間に合わない。自ら供えた花束の上へと、肩から崩れ落ちる。
背筋が凍った。この瞬間俺は、完全にブライズへと戻っていたのだと思う。
血塗られたナイフを両手に持ったまま、震えている女へと疾走する。
暗殺者ではない。彼らは目的を達成した後にはすぐに動く。人間を殺すことになど、何の感慨も抱かないからだ。
彼女は違う。だが、俺もまた違った。俺は。
俺を支配していたのは、全身が震え出すほどの怒りだった。
殺す――!
そう叫んだつもりだった。だが、俺の口をついて出たのは、言葉にもならぬ獣の咆吼だった。それでも女はこちらを見ない。怯えた目でキルプスを見ている。
間合いに入る直前、脇差しを下段に構えた。そうして、その頸を目がけて斬り上げようとした瞬間――。
「よせッ!!」
キルプスが転がるように、女の前に飛び出してきた。
「~~ッ!?」
一度は放ってしまった脇差しを強引に止める。
踏み込んだ足をとっさに突っ張ったことで、俺はキルプスと女の横を派手に土を巻き上げながら転がった。
「ぐ……っ」
すぐに膝を立てる。
「キルプス! なぜ庇う!?」
「……ッ」
キルプスは女を庇うような位置で膝をつき、俺を見ていた。その唇から、つぅと血が流れる。
まずい。内臓まで届いている。
再び怒りに身を任せ、俺はキルプスを迂回しようと動く。だがそれでもキルプスは、女を庇うように俺に向けて掌を広げた。
「落ち……着け……ッ」
「落ち着けるかこの大馬鹿野郎がッ!」
キルプスの足下に血が滴る。
あれではいくらも保たない。近衛騎士に治療魔術師はいるだろうか。わからない。
「ヴォイド!」
振り返ったときにはもう、ヴォイドの姿はベンチから消えていた。歯がみしてから思い直し、頭を振る。
大丈夫だ。あいつならアルムホルトに報せてくれるはず。
そう思い視線をキルプスへと戻した瞬間、俺は戦慄した。やつの背中で庇われていた女が、再びその背へとナイフを振り上げていたからだ。
「――ッ」
今度は止まらない。キルプスは再び俺を阻止すべく掌を向けたが、俺はやつを跳び越えて、女の手首を脇差しの峰で叩いていた。細い手首が弾きあげられて、その手の中からナイフが吹っ飛び、墓石にあたって地面に落ちる。
女は短い悲鳴を上げて尻餅をついていた。
「く、邪魔しないで!」
切っ先を女の喉へとあてがった俺を――見もせず、彼女はいまにも倒れそうなキルプスを射殺さんばかりの視線で睨みつけて言う。
涙を滲ませて、声を震わせながら。
「……あなたが悪いのよ……。……ねえ、お父さんを返してよ……」
ナターリア・ワーグネル。ホムンクルス・ケメトに殺されたワーグネル男爵の娘だ。
だが、俺は怒鳴りつける。
「ワーグネル男爵を殺したのは共和国の諜報員だ! キルプスではない!」
「子供は黙っててッ!!」
「~~ッ」
「〝剣聖〟様が生きていた時代に、あなたが共和国を滅ぼさなかったから、こうなったのでしょう? 中途半端な平和なんて望むから、こんなことになったんじゃないっ!!」
息を呑んだ。
力が抜けて、脇差しの切っ先が下がってしまった。
女の疲れた泣き顔が、ひどく歪む。ひどくだ。醜く、厭らしく。
「それがなに? わたしの父が――この国を支える貴族が殺されたのに、国王が仇すら取らないの? どうして共和国に抗議さえしてくれないの? どうして国内に公表することさえ赦されないの?」
「……」
キルプスはただ黙って、彼女の目を見ていた。
その態度に失望したように、ナターリアは首を左右に振る。
「挙げ句の果てに、生活の保障をするからどうか忘れてくれ?」
ギリと歯が鳴る。
「ふざけるなッ!! バカにするのも大概にしてよッ!! 私の父の命はそんなに安くはない!」
びゅうと、木の葉を巻き上げて風が流れた。
ナターリアが髪を押さえる。
「ねえ、父は貴族の義務として戦争にも行った! 停戦後には小さな商会を作って平民と一緒に汗を流して働いた! あんたが、いつかなくすであろう貴族制度を見越して、自分が平民との橋渡しになると言っていた! あんたの夢見る世界で生きたいからって言ってたのに!」
昔からキルプスが、親しい友人にだけ話していた与太話がある。
もしも共和国の脅威がなくなり、十分に国力が潤うときがきたなら、ガリアから貴族制度を廃止するというものだ。国王も、領主も、その時代を生きる民が選べばいい。富は自然と再分配され、スラムも解消されるだろう。
俺はその景色が見たくて、キルプスについた。
そうか。殺されたワーグネル男爵もまた、キルプスの夢に魅せられたひとりだったか。そのような男が殺されたのに、仇は討たず、公表すら赦されないのでは。
「わたしはここで死のうとも、父の命と名誉のためにあなたを殺したかった……! それすらこんな子供に邪魔されたけれどねッ!! あはっ、あははははっ、笑えるわ! ――何なのよ、これ……」
これでは……。俺にはもう何も言えん……。
キルプスが青白い顔で、真っ赤に染まった唇を開いた。
「……ワーグネル卿の……命を背負って……貴女は……立っているのだな……?」
「そうよ。だから――!」
「――だが!」
キルプスが突然立ち上がろうとしてよろめいた。俺は慌てて手の下に潜り込み、肩を貸す。やつは俺の肩を支えにしながらどうにか立ち上がり、後ろ手を組んで胸を張った。
そうして朗々とした声で言い放つ。
「私もまた、この国で生きる数百万の命を背負って立っている! 戦争は、今回のような悲劇を無数に生み出す! 無数にだ! ゆえに、この国の王として、開戦に近づくことだけは決してできぬ! 貴女のような思いをする人をこれ以上増やしたくはないのだ!」
すっと頭を下げる。
「ナターリア殿。もう一度願う。いや、私は何度でも願う。ワーグネル卿の一件、どうか貴女のその胸に収めてはもらえ……ない……だろう……か……」
キルプスの全身が揺らいだ。
倒れる寸前、俺は身を入れて支え、ゆっくりと地面に寝かせる。その瞬間を見計らったかのように、北側の墓石裏からヴォイドとアルムホルトがこちらに駆け寄ってきた。
アルムホルトはキルプスを見るなり顔色を変える――こともなく、呆れたようなため息をついてこうつぶやいた。
「今後はお控えください。本当に」
「……善……処する……」
そうして手甲を投げ捨て、魔術光を宿した右手をキルプスの背部。傷口へとあてる。
「アルムホルト、おまえ、魔術師だったのか!?」
「はあ。魔法剣士ですね。まあ、どちらかといえば剣の方が得意ですが」
なるほど。これはキルプスやアルムホルトにとって、ある程度予想できる範囲での出来事だったというわけか。だが、刺される箇所によっては即死もある。どうするつもりだったのか。
考えるほどに頭が痛くなる。あとで絶対に問い詰めてやる。
ナターリアは、涙でぐちゃぐちゃになった顔でその光景を見ていた。殺害は失敗に終わったというのに、どこか安堵したような表情でだ。
俺は。俺が彼女のためにしてやれそうなことは。
「ナターリア。ワーグネル男爵の仇は俺が討つ。俺はあなたの父を殺害したホム――諜報員と交戦したことがある。次は逃がさない。必ず殺してやる。そうしてあなたのもとにその首を運んでやる。だからどうか、それで矛を収めてはもらえないだろうか」
「……子供のくせに……」
「馬鹿にするな。子供ではない。エレミア・ノイだ。覚えておけ」
ナターリアが諦めたような表情で、長い長い息を吐いた。
「もういいよ……。なんか疲れちゃった……。――ふふ、でも内乱罪に国王暗殺未遂だから、これでお父さんに会えるかな」
近衛騎士らがワラワラと湧いて出てくる。だが誰もナターリアを捕らえようとする者はいない。彼女は不思議そうに、キルプスを取り囲む彼らを眺めている。
だから俺は言ってやった。
「待ってても無駄だぞ。まぬけな国王が足を滑らせてすっ転び、墓石で背中を強打しただけだからな。ただの笑い話にしかならん」
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