第195話 尊き犠牲に剣聖を(第19章 完)
食堂に戻り、廊下から壁に貼り付くようにして中を覗く。
夕方前には閉店する予定だったせいか、客足はだいぶ遠のいている。いまは厨房もホールも一体となって、片付けを始めていた。
「……」
食い逃げ犯がキルプスだったことは、リリと三班の面子以外には話せない。他の生徒らは理事長が国王であることを知らないからだ。ゆえに彼らの前でリリに報告するわけにはいかない。
ただ視線を向けただけだったというのに、背中を向けて座っていたリリが即座にこちらを向いた。
リオナといい、リリといい、どういう気配察知術を使ったら、ただの視線にさえ反応できるのか。ブライズ時代の知識を以てしても理解に苦しむ。
リリが口を開く。
「お――」
その言葉が発せられる前に俺が唇の前で人差し指を立てると、彼女は口をつぐんで立ち上がり、こちらに近づいてきてくれた。
そうしてじっとりとした視線を俺に向ける。
「遅いから逃げたかと思ったわ」
「このような格好で逃げるか。少しは俺を信用しろ」
おまえの師だぞ、俺は。
ああ、そうだ。そうだった。前世から一貫して、まるで信用がないのだ。
またひとつ、昔のことを思い出したぞ。
ブライズが〝剣聖〟となった後、俺は騎士団に招かれ騎士どもを鍛えにいくことが多々あった――のだが、リリはそれを昼間っから飲み歩いていると信じ込んでいた。
違うぞ。違う。
あれは訓練に付き合ったあとに飲んで帰ってきていただけだ。ベロンベロンになるまでな。
仁王立ちで出迎えてくるこの小娘に、ろれつの回らん舌で何度弁解をさせられたことか。いやむしろいまになって思えば、己の半分も生きていないような小娘に、なぜ尻に敷かれていたんだ。
酔っていたとはいえ、不覚も不覚。
頭を掻く。
ああ、糞。いらん思い出ばかりが蘇る。もう少し役に立つことを思い出したいものだ。
俺はため息をついて、リリを見上げた。
「少し席を外せるか? 報告したいことがある」
「そうね。いまなら逃げそうな子たちがいないから平気よ」
これだ。どうせ俺とヴォイドのことだろう。信用ゼロではないか。ふははは。
再度ため息をついてから食堂棟の外までリリを連れ出し、俺は人気がないことを確かめてから報告をした。
「結論から言う。食い逃げはキル――あ、いや、陛下だった」
しばらく考えるような素振りを見せた後、リリが突然目を丸くする。
「………………えっ?」
まあそういう反応になるよな。
エプロンドレスのポケットに入れた封を取り出し、俺はリリに渡した。リリは中身を確かめてから、眉をひそめる。
「犯人が?」
「ああ」
「これを?」
「迷惑料込みだとよ」
「陛下?」
「そうだ」
曲げた人差し指を唇にあてて、何かを思案しているようだ。やがて合点がいったように俺に視線を戻し、口を開く。
「お金を持ってなかったから慌てて取りに戻った? 逃げたように見えたのは学生たちや民への顔バレを防ぐため?」
「らしいぞ。すまんな。紛らわしいことをしてくれたもんだ、まったく」
リリが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてエレミアが謝るの?」
「んあ!? そ、れもそうだな。じゃなくて、陛下から謝っておいてくれと伝えられたんだっ」
「そう。護衛はいた?」
「近衛騎士団がレアンの民に扮して学祭に紛れ込んでる。そこそこの数だ。例のバケモノであっても、一体なら問題ないと思う」
バケモノとは、もちろんホムンクルスのことだ。
むろん、アテュラ級の個体ならば不足も不足だが、幸いにもケメトにはそれほどの力はなかったように思える。
アテュラが凶行に走った場合に止められる人間が王国内にいるとしたら、それこそ〝戦姫〟や〝王壁〟だけだろう。〝剣聖〟はもういないからな。
リリがふいに視線を上げた。
その方角を見ると、遠くの方からリオナとオウジンが手を振りながらこちらに近づいてきていた。俺は手招きをして彼らを呼ぶ。
リオナが開口一番に言った。
「女子寮にはいなかったよ。念のために屋上まで調べたんだけど」
「修練場にもだ。地下の武具庫にもいなかったよ」
「あ~、そのことなんだが……」
俺は手短に食い逃げ事件について報告する。
リオナはリリと同じ反応を示し、俺とキルプスが親子であることを知っているオウジンは苦笑いを浮かべていた。
俺はリリを見上げる。
「今回の一件、どういうふうに決着をつければいいんだ?」
「そうね。捕まえて騎士団が連れていったことにすると、優秀なマージスあたりに記録を調べられそうね。どうしたものかしら」
厄介なことに、インターンシップのおかげでそれぞれに騎士団とのパイプができてしまっている。セネカがその気になった場合、食い逃げ犯が連行された記録がないことなど簡単に調べられてしまうだろう。面倒の種だ。
リオナが楽しそうに言った。
「じゃあさ、じゃあさ、リリちゃん。エルたんが食い逃げ犯をボッコボコにやっつけちゃった上に、有り金を全額むしり取って赦してあげたことにしたらいいんじゃん?」
「おい、その言い方はやめろ。俺が騎士団に連行されるだろ」
オウジンがつぶやく。
「うん、僕もそれでいいと思うよ。エレミアならやりかねないって、みんな納得してくれるだろうからね」
「俺の意志は? なあ、俺が逮捕されそうだぞ?」
リリがうなずいた。
「そうね。そうするわ。この子が凶暴なことは周知の事実だし」
「おい、聞いてるか? リリ?」
「それと、ベルツハイン。わたしのことはイトゥカ教官と呼ぶように」
こいつは驚いた。誰も俺の話を聞いてくれない。
「はいはぁ~い。了解、リリちゃん」
「……」
猫に芸を仕込むのは無理だ。
いやそんなことより俺の意志は?
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