第190話 猟犬も黄昏に果てた
休憩所を出た俺は、ちょうど向こう側からやってくるイルガたち一班の足を止めさせるため、先頭の薄毛に声を掛けた。
「待て、イルガ」
「ん? なんだい、エレミア?」
己の女装に自信でもあるのだろうか。イルガは、ふぁさ~っと生命力の弱そうな髪に手を入れて、こちらに半眼で視線を送ってきた。
うざいな。
「うざいな」
「えっ!?」
ああ、声に出てたか。いかんいかん。
「いや、えっとな。いま休憩所の中では~……う~ん……オウジンとモニカがとんでもないことになっているはずだ。だから入らん方がいいぞ」
オウジンが突発的に気絶して、モニカが介抱してくれていると言いたかったのだが、説明を求められるのが非常に面倒臭かった。
イルガたち一班は、何やら衝撃を受けたような表情で立ち止まっている。
やがてその顔が赤く染まり、そしてイルガは右の拳を握り締め、歯を食いしばりながら天井を見上げた。
「こ、この上級貴族の俺を差し置いて、留学生ごときがそのような破廉恥な――あいや、そのような風紀破りを……! く、許せん! うらやましい! 俺の目が黒いうちは、脳裏に焼き付けておいてやるぞ」
「おまえは素直だなあ」
俺のつぶやきなどまるで聞こえなかったかのようにやつはドスドスと横を通り抜けて進み、休憩所の扉に手を掛けた。
すまない、モニカ。俺ではやつの進行を止められなかったようだ。まあ別にいいか。思いの外、健全なふたりの姿を見て、落胆する薄毛の顔が思い浮かぶようだ。
俺は早々に諦めて、ホールへと復帰した。
食堂内を見回すと、だいぶ客足が落ち着いてきていた。休憩所に入る前は八割方埋まっていた席が、いまは五割ほどにまで減っている。
リリは――と見回すと、食堂扉の前の席に陣取って、珍しくコーヒーを啜っていた。
「苦……」
いつものように砂糖やミルクを入れたらいいのに。
目が合うと、手を振ってくれた。それに応えながら考える。
あいつめ、意地でも脱走者を出させないつもりだな。用足しにでも立ってくれれば、このまま逃げられるのに。いや、こんな服装のまま逃げ出しては、またナンパされてしまうか。
ふふ、この俺の似合いすぎる女装が、実に悩ましいところだ。
そのときだ。手を振っているリリの隣、食堂扉を開けて入ってきた杖持ちの客がいた。少しほつれた長い髪を一つ結びにした女性は、案内を待つかのように入り口で立ち止まっている。かつての戦争で〝諜報将校〟フアネーレの作戦名で暗躍していた女――ミリオラ・スケイルだ。
彼女の盲目の視線が、目隠しの上からふいにリリへと向けられる。
「……あら? もしかして……」
「……」
ミリオラは戦姫リリ・イトゥカを知っているが、リリは存在自体が国家機密だった諜報将校フアネーレの正体を知らされてはいない。
だが、達人同士だ。珍しくリリもそちらへと視線を返した。何かしら思うところがあったのかもしれない。見つめ合っている。片方は見えていないが、それでも。
しばらくして、リリの方が口を開いた。
「あなた、目が見えないのね」
「ええ。よければ案内をしてくれるかしら。ここへは知り合いを訪ねてきたのだけれど」
探るような会話だ。
「ごめんなさい。わたしは教官だから、出し物をしている生徒を案内に呼ぶわ。少し待っていてくれる?」
教官。その言葉で確信を得たのだろう。ミリオラがうなずいた。
「ええ、ありがとう。――イトゥカ将軍」
リリが押し黙る。
しばらく考えるような素振りを見せたあと――囁くように尋ねた。
「もしかして、あなたが闇市の〝諜報将校フアネーレ〟?」
ミリオラが微笑みながら、唇の前に人差し指を立てた。
「もと、ね。いまはただのミリオラ・スケイルよ、〝戦姫〟さん。ところで、その情報はヴォイドから? それともエレミア?」
「エレミアよ。でも安心して。聡い子だから、わたしの他には決して語らない」
「ふふ、そう思う」
リリが席を立って、ミリオラの手を両手で取った。ふたりの英雄が両手を使って、無言で握手を交わす。
珍しく、リリが人前で笑顔を見せた。柔らかな笑顔を。
「あの時代を、よく無事に」
「お互いに、失うものは多かったけれどね」
ふたりが抱き合った。
リリはブライズを失い、ミリオラは光を失った。それでも生きてここに立っている。
この女装食堂に。いや女装のせいで台無しだな。
しかし何気にこれは歴史的瞬間ではないだろうか。まさかこんな学園祭の催し物で、ふたりの英雄が初顔合わせしようとは。つくづく惜しい。女装が。
リリがこちらを向いて手を振った。
「スケ――……。エレミア、お客さまよ。案内して」
「おう」
そう言って歩き出したとき、視界の端で四つん這いになってうなだれている男の姿がふいに見えた。
ヴォイドだ。
わかる、わかるぞ。ミリオラが訪ねてくるなどと思いもしなかっただろう。おそらく学園祭があることさえ彼女には話していなかったはずだ。このような出し物だからな。
くく、くくく、気の毒になぁ……!
身中の獣がほくそ笑む。
よもや姉弟同然に育った憧れの女性を相手に、こんなみっともない女装を披露する羽目になるとは。良い機会だ。おまえのスカシた顔面が恥辱と苦痛と悲痛に歪む様を、この目に焼き付けておいてやる。
あーっはっはっは! あーっはっはっはっは!
……と、言わんばかりの表情で、厨房からリオナが顔を出し、失意のヴォイドを見ていた。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。




