第151話 逃げることもままならず
ただただ息を呑んだ俺たちへと、少女はもう一度、自らの名を告げる。
「……アテュラ・アーレンスミス……」
アーレンスミス。ならばやはりネレイドが創った最初のホムンクルスだ。
そう思い出した瞬間にはもう――。
「キミはこんなところで何をしているんだい?」
保護でもしようとしたのだろう。イルガは彼女のもとへと歩き出していた。ヴォイドが手を伸ばし、イルガの肩をつかんで乱暴に引く。
「バカが! 近づくんじゃねえ!」
「うおっ!? え?」
尻餅をついたイルガを飛び越えたオウジンが、先頭の俺やヴォイドの横で膝をわずかに曲げ、その右手を柄へとのせた。
リオナが早口に告げる。
「気をつけて。あの子はホムンクルスだから」
「……へ? しかし、俺たちが見たホムンクルスとは似ても似つかないぞ……」
そうだ。
以前戦ったホムンクルスの目は、俺たちとは違って白い結膜はなかった。赤色一色の不気味な眼球だ。ひと目でバケモノと判断ができた。服も纏っていない全裸だったが、やつには性器どころか性的な特徴さえなかった。
だがどうだ。目の前に立つホムンクルスは。
瞳こそルビーのように赤いものの、白い結膜は存在し、少々色素の薄い人間の目と何ら変わらなく見える。纏う衣服にはレースやフリルがあしらわれ、まるで共和国貴族のモダンな令嬢のようだ。そして胸には女性であることを示すかのように膨らみがある。
共和国にはこんなホムンクルスがすでに存在しているのだろうか。人間社会に入り込まれれば、もはや見分けがつかない。
セネカが呻くように言った。
「ほ、本当にあれと同じホムンクルスなの……? わたしには人間にしか見えない……」
戸惑うのも無理はない。
だが三班はアテュラ・アーレンスミスの名を知っている。本来その名を冠するべきは、死んだはずの魔導錬金術師であるネレイド・アーレンスミスの娘だけだ。それが生きている時点で、もはや疑いようもない。
俺はアテュラから視線を逸らさぬまま、背中のセネカに叫ぶ。
「間違いない! 呆けるな! 指揮ならば指示を出せ! すぐに決断しろ!」
わずかな逡巡の後、セネカが告げた。
「――撤退する。三班、お願いできる?」
「ああ」
彼我の戦力差を鑑みるに妥当な判断だ。まだぶつかるには早すぎる。倒せたとしても犠牲を払うことになる。
だが、わかっていても気が遠くなるな。またあの絶望的な逃走劇が始まるのだから。
当然、言われるまでもなく俺たちが殿だ。武器を新調したのだから、以前のような無様は曝さずに済むはず。
このときはまだ、そう思っていた。
「……だめ……帰さない……」
アテュラが手を伸ばす。掌を魔術光で輝かせながら。だがそれが上がりきるより一瞬早く、俺は彼女の懐へと低く深く踏み込んでいた。
――殺せるならば殺しておくべきだ。
「――っ」
アテュラが俺を見て息を呑むのがわかった。視線がまともに絡み合う。
「おお――ッ!!」
俺は脇差しを抜刀する。狙いは脚部。足を奪えば、最悪でも逃走のための時間稼ぎにはなる。
見よう見まねの抜刀術に岩斬りを加えたものだが、俺の刃がアテュラの脚部に届く頃には、彼女はすでにそこにはいなかった。
視線を逸らした瞬間の虚を確実に突いたというのにだ。
「――っ!」
避け――!?
馬鹿な! 速すぎる! 生物の反応速度ではない!
気配は空中。
見上げた空を、膝を曲げた体勢で跳ぶアテュラの下半身が見えた。だがそこに、同じく跳躍していたヴォイドが飛びかかる。俺の初動に合わせてアテュラの回避方向に予測を立て、迎撃を置いていたんだ。
恐ろしいガキだ。味方でよかった。戦闘勘に関しては全盛期のブライズにも劣らない。
「バケモンがッ!」
ブンディ・ダガーの刃が頭部へと斬り下ろされる。
しかしそれすら。
「……」
アテュラは光り纏う右手で刃を押して逸らし、その反動で回転しながら地面に足をつける。着地の瞬間を狙って斬り込んだはずのオウジンの刃を靴裏で踏んで、彼女は再び空へと逃れた。
「く!」
その赤い視線は、俺たちには向けられてはいない。反転中のクラスメイトらだ。アテュラの唇が微かに動く。
「待って……」
俺はアテュラの背中へと向けて走り込み、跳躍と同時に刃を突き出した――が、アテュラは振り返りもせずに左手のみを背中へと回し、その切っ先を指先で挟んで止めた。
切っ先は止められ、ぴくりとも動かない。
「なんだ、それは……っ」
いくらなんでもデタラメだ! こんな馬鹿げた防ぎ方があるか!
あるいはリオナ並の察知能力を持つのであれば、可能な芸当なのだろうか。だとするならばアテュラの脅威は、リリが仕留めたあのホムンクルスどころではない。
俺は脇差しを手放し、ショートソードを抜きながら叫んだ。
「もたもたするなッ、逃げろッ! ――リオナ、みんなの先導をしろ!」
「え……?」
「先導だ!」
「あ、う、うん」
様子がおかしい。だがいまは構っていられる状況ではない。呆然と突っ立っていたリオナが弾かれたように走り出し、クラスメイトらの背中を押す。
「いって! 早く!」
背中を向けて走り出したクラスメイトとリオナを、脇差しをその場に捨てたアテュラが追う。
最後尾、逃げ切れないと踏んだのだろう。足の遅いベルナルドだけが単身で振り返り、背中から抜いた槍の穂先をアテュラへと突き出した。
「ぬんっ!!」
だがアテュラは走りながら身を低くして突き出された槍の下を滑り、そのままベルナルドの両足の隙間をかいくぐった。そうして脇目も振らず、逃走している学生らを追う。
今度はベルナルドが叫んだ。
「イルガッ!」
「わかっているさ、ベル!」
アテュラの手が逃走する学生の背中に触れる寸前、イルガがひとり反転してアテュラの首へと刃を横薙ぎに振るった。
「だァァ!」
「……」
アテュラは指先でそれを下からコツンとすくい上げてかいくぐり、イルガをも置き去りにして、残るクラスメイトらをまた追った。どうやらひとりたりとも逃がす気はないらしい。
イルガが振り返って毒づく。
「なぜ止まらないっ!?」
俺とヴォイド、そしてオウジンが、驚愕に目を見開くイルガを追い越してその背を追った。だが到底間に合いそうにない。やつがクラスメイトの集団に追いつく方が早い。
セネカが叫んだ。
「逃げ切れない! 一から四班まで順次反転迎撃!」
モニカと残る一班が反転した。
セネカの指示が続く。
「五班はリオナを先頭にどうにか逃れて、このことをイトゥカ教官……に――」
だが言い終えるより早く、アテュラは彼女らの隙間をすり抜け反転中の二班四班を捉え――いや、光り輝く足ですべてを追い越して、最前列となっていた五班の前まで回り込んでしまっていた。
ふわりと、スカートが下りる。
「う……あ……」
先頭をリオナとともに走っていたレティスが青ざめた顔で呻き、アテュラから距離を取ろうとして尻餅をついた。
アテュラがゆっくりと振り返る。
そして、出遭ったときと同じように両足をそろえ、両手を腹にあて――。
「……わたしはアテュラ・アーレンスミス。どうか、人を呼ぶ前に話を聞いて……」
静かに頭を下げていた。
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。
 




