第126話 リリとブライズ③
どれくらいそうしていただろうか。
頭が真っ白になって何も考えられなくなっていた俺は、背中をドアで擦り上げるようにゆっくりと立ち上がった。そうして幽鬼のような足取りで、部屋を歩き出す。
ベッドの向こう側には、リリが隠れた衝立がある。
俺はふらふらと衝立を回り込み――……へたり込んでいたリリを見下ろした。
「……」
リリは膝を折って座り、両目を押さえて静かに泣いていたんだ。
俺が近づいてきていたことには気づいていただろう。けれどももう、リリは自分を取り繕うこともしなかった。
拭えば済む程度の涙ではなくなっていたからだ。フロアのカーペットにはいくつもの染みができている。
「リリ……」
リリは耳まで真っ赤に染まっていた。顔を上げ、ぐちゃぐちゃの目元で照れくさそうに笑いながら俺を見上げる。
「ごめんなさい、エレミア。大人なのに恥ずかしいわね。せっかく気を遣って一度は外にいってくれたのに」
「あ、ああ、いや。……気づいてたのか」
泣き顔を見ないようにしていたことも、どうやら以前から気づかれていたようだ。俺は本当に愚か者だな。呆れるほどにだ。前世から何も変わっていない。
少し、触れてもいいだろうか。
俺はゆっくり手を伸ばす。不思議そうにその手を見ていたリリだったが、俺が彼女の髪に触れても、逃げたり拒絶を示すことはなかった。
さらさらと、長い髪が流れる。
ああ、懐かしい感触だ。覚えている。まだ思い出せる。
「エレミア……?」
……大きくなったなあ……。
喉元まで迫り上がる言葉は、しかし吐き出すわけにはいかない。
「すまない。無神経なことばかり聞いてしまった」
「……」
またぽろぽろと涙がこぼれだした。
どうすればいいんだ。
リリが苦い顔をして慌てて拭う。
「ああ、もう……っ、泣いてる人にそんなふうに優しくしてはだめ……」
「気にしなくていい。流せるだけ流してくれ。俺は、ああ、後ろを向いている」
手を離して背中を向け、その場に座る。
「ほら、これで顔は見えんぞ。あと俺は物覚えが悪く物忘れが激しい。たぶん今日のことも忘れてしまうだろうな」
「………………ふ、ふふ……」
「おい、笑ってないで泣けと言っているんだっ。すっきりするまで滝のように流せっ。絞れっ」
そう言いながら振り返りかけた俺を阻止するように、リリが背後から俺の頭に両腕を回してきた。そのまま大きな胸の中へと引き寄せられる。
「お……」
大きくてふわりと柔らかく、日射しのように暖かい胸だった。微かに果実のような匂いがしている。
……本当に大きくなったなあ……。
いや違うだろ馬鹿か俺は。このようなときくらい邪念を捨てろ。相手は弟子だぞ。
「エレミア、振り返ってはだめよ?」
「ああ」
耳元で囁かれると、吐息がこそばゆい。
「そのまま動かないでね」
「ああ。大丈夫だ。顔は見ない」
首筋にリリの顔があたった。頬は湿っている。微かな嗚咽も、しばらくは止みそうにはない。
俺は考える。ない頭で。
もう明かすべきなのだろうか。己がブライズであると。
ふたりにしかわからないことを話せば、あるいは信じてもらえるかもしれない。だがそれは信じてもらえなかった場合、あまりに悪辣過ぎる行為だ。
それに、明かしてどうなるというのか。確かに俺はかつてブライズではあったが、いまはもうすでにブライズではない。
四十路と十歳では年齢が違う。
大人と子供では肉体も違う。
平民と王族では立場も違う。
剣聖と生徒では天と地の差だ。
おまけに考え方まで変わってしまった。何もかもが違う。もはやエレミー・オウルディンガムは、ブライズのことをよく知るだけの別人だ。
少なくともリリがいまもその影を追いかけている、剣聖ブライズではないことだけは確かだ。
「……ッ」
悔しい。口惜しい。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ、俺は死んでしまったのだ。リリの言う通りだ。俺たちの〝形〟などどうでもよかった。
夫婦でなくてもいい。リリが幸福をつかめるならば他の誰かと所帯を持っても構わなかった。
親子でなくてもいい。リリが望むのならば自身と所帯を持つことも真剣に考えるべきだった。
師弟のままでもいい。これほどまでに寂しい思いをさせるくらいであれば共に生きるだけでよかったのに。
ああ、そうか。
いま初めて俺は、本当の意味でリリの気持ちを理解できたのだ。
だからこそ腹が立つ。己に。ブライズに。
なぜ俺は、リリの側にいて成長を見守ってやれなかったのだ。おまえは一体どのような死に方をしたのだ、と。
「エレミア……?」
鼻にかかった声でリリに問われた。
ふと気づくと、肩越しにリリが俺の顔を見ていたんだ。
俺は歯がみしながら涙をこぼしてしまっていた。このような子供の肉体では涙も満足に堪えることもできない。
「な、なんでもない!」
「…………もらい泣き?」
「……」
違う。リリの不遇に対してというよりも、俺は俺自身のふがいなさに泣いていた。
過去に何もしてやれなかったブライズにも、いままさに何もできないエレミーにも、とことんまで情けなくなった。
リリがそそくさと立ち上がる。そのまま無言でキッチンスペースの方へと歩いていった。今度は俺が気を遣われたのかと思ったが、どうやらそうではなかったようだ。
しばらくして戻ってきたリリの手には、湯気の立つカップがふたつあった。
俺は涙を拭い、のっそりと立ち上がって、いつもの食卓につく。
「ホットミルク。昼食はないけど温まれば落ち着くわ」
「すまない」
カップを受け取ると、じんわりと掌が温まった。いい匂いがする。
リリが向かいの席に座った。
「お互いに落ち着いたら、食堂にいきましょ」
「ああ。その頃には空いているといいな」
「そうね。――お腹はもう空いてる?」
「いや、あまり」
しんみりと。ほとんど同時にミルクに口をつける。
うんま。ミルクうっま。神は信じていないが神汁かもしれん。先ほどリリが言った通り、少し気分が落ち着いたようだ。
「エレミア」
「うん?」
「まだお腹が空いていないなら、もう少しだけブライズのことを話してもいいかしら。あなたは聞いてくれる?」
「……俺はいいんだが、いや、しかし……」
また泣かれてしまう。そしていまの俺にはその涙を止める術がない。
リリが肩肘を立てて顎をのせた。視線を逸らし、ため息をついてつぶやく。
「何だか話したくなったのよ。どうせもうエレミアには色々と恥ずかしいところを見られてしまったのだから、それならいっそ、あなたにすべてを吐き出したくなった」
「そうなのか……」
「ただの捌け口だけれど」
「構わない」
いまなら聞けるだろうか。
ブライズの死因を。
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