第106話 かつて最期に見た光景
――入った!
柄を握る手応えが変化した。こつ、と刃が骨にあたる。同時に俺は竜の腕を蹴って脇差しを引き抜きながら離脱していた。
地面に足をつけて後方に滑って振り返り、目を見開く。
やつが力を失い垂れ下がった右の豪腕に意識を取られた瞬間を狙って、オウジンは崩された石柱を足場に、すでに宙を舞っていた。
「シ――ッ」
音もなく刀が振り下ろされる。鋭く、速く。
ひゅ――。
着地と同時にオウジンは滑りながら、俺の隣で足を止める。
――ギィイアアアアアァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!?
竜が咆吼する。いいや、違う。悲鳴だ。悲鳴を上げた。苦悶するように長い首を振って、バランスを失いよろめきながら。
右腕は力なく垂れ下がり、左腕は――どさりと、フロアに落ちる。
斬った。斬りやがった。やはりこいつはとんでもないやつだ。ブレス時以外は指示すら与えていなかったのに、竜にできたわずかな隙を見逃さなかった。
学生にできる行動ではない。最高だ。
「――?」
だが、何か。何か様子がおかしい。手応えがなかったのだろうか。
オウジンは眉を寄せて首を傾げている。
その違和感に、俺も気づいた。
「――!」
血が、血が出ていないぞ……? どういうことだ!?
俺が肘あたりを斬った右腕からは血液の代わりに黒い体液が出ているが、オウジンが付け根から斬った左腕からは何も出てはいない。
さらに――。
オウジンが喉を詰まらせながらつぶやいた。
「……エレミア、あれは竜にとっては、普通のことか……?」
オウジンが斬り落とした竜の左腕が。
うぞうぞと、落ちた左腕が動いていた。まるで独立した生物であるかのように。切り離された肉体が動いている。目も口もないのに。
ぞわっと、鳥肌が立った。
おぞましい。俺はこのとき初めて、生命に対してそう感じていた。
「……馬鹿を言え……そんな生物がいてたまるか……」
「なら、あれはなんだ?」
竜はひとしきり悲鳴を上げた後、自らの長い首を折り曲げるようにして、垂れ下がるだけとなった右腕へと喰らいついた。
「――っ!?」
そうして力任せに引き千切り、骨ごとかみ砕く。歪に並んだ牙の隙間から黒い油のような体液が弾けて飛散し、周囲を穢した。
イルガが喉から声を絞り出す。
「じ、自分の……腕を……?」
「……」
わけがわからない。何なのだ、こいつは。
あの腕は独立した生物だったとでも言うつもりか。いや、もはやそうであるとしか考えられない。共生していたのだ。あの腕と竜は。
「――く! 確かめるぞ、エレミア!」
オウジンが走った。唖然としてその光景を見ていた俺も慌てて続く。
いま、ここで、仕留めなければ。そんな気がした。あれが何かはわからない。だが、いまは逃してはならない機会だ。
「おお!」
オウジンは駆け抜け様に、豪腕を失った竜の右脚付け根へと岩斬りを繰り出した。俺は半歩遅れて左脚の足首だ。
手応えは硬い。先ほどと同じだ。竜鱗に阻まれ肉まで届いていない。だが、オウジンの斬った方は届いたようだ。やつは右脚の付け根から血液をわずかに流した。赤い血だ。
「黒い血が流れているわけではないのか!?」
「気をつけろ、オウジン!」
竜が怒り狂い、後退するオウジンを追って走る。先ほどまでの動きとはまるで違う。前傾姿勢を取り足音を響かせ、涎を垂らしながら牙を剥いてオウジンへと喰らいつく――寸前、俺は側方から滑り込みながらその喉を浅く斬り裂いた。
「こっちだ、薄鈍!」
脇差しの刃では血管や内臓はおろか、肉にすら届かない。だが、怒り狂う竜の瞳が今度は俺へと向けられる。
「オウジン、一旦離脱しろ! 作戦通りもう一度俺が引き付けて、おまえが斬――!?」
竜の踏みつけを転がりながら避けてオウジンに視線を向けたとき、俺は驚愕に目を見開いていた。
腕だ。先ほどオウジンが斬り落とした竜の左腕が、こちらに視線を向けながら走っていたオウジンの背後から、覆い被さるように飛びかかってきていた。
「オウジン!!」
「え……!?」
おそらく俺と同様に、オウジンもそんな可能性は考えてもなかったのだろう。上空から迫った中指の爪をかろうじて刃の腹で防ぎ、そのまま押し倒されてしまった。
ゴッ、と頭を打つ鈍い音が響く。
「ぐっ」
「オウジン!」
信じられない。あんなもの、誰が予想できたというのだ。取れた腕が独自に攻撃してくるだなどと。
四本の爪をダンジョンの床に突き刺して拘束し、残る中指の爪がじわじわとオウジンの喉元へと迫っていく。受け止めた刀身が徐々に曲がり始めた。
無理だ。刀の薄い刃では。
「く……ぅぅ……ッ!!」
「待っていろ! すぐに――ッ」
そちらに視線を取られた瞬間、俺は竜の突進を躱し損ね、肩口に竜鱗をぶつけられていた。とてつもない衝撃が全身を貫く。
俺は抗いようもない力の奔流に吹っ飛ばされ、薄汚い地面に落ち、跳ね上がって叩きつけられ、さらに何度も転がった。
ぐわあ……と視界が歪み、意識が急速に遠のいていく。
闇に呑まれる寸前、俺は幻聴を聞いた。
――立て、己を鼓舞しろ! 必ず帰ると約束したばかりだろうッ!!
頭に浮かんだ叫び声は、エレミーの声ではなかった。思考ですらなかった。古く、旧い、記憶。俺は赤く染まった空を見上げて吼えていた。
これはブライズの記憶か……?
帰る……? どこへ……? 約束……? 誰とだ……?
全身を走る痛みは、エレミーのものか、あるいはブライズのものか。
空が赤い理由は夕刻だからではない。朝焼けでもなく、それは炎ですらなかった。血だ。
――果たせもしない約束に、何の意味があったの?
弱く震えるリリの声が混じった。まだ幼さの残っていた頃の声だ。
エレミーではなくブライズが聞いていた声。視界は真っ赤な空のまま。明滅する。心臓の音がうるさい。
「……リリ……。……心配するな……。……どこ……に……いて……も……捜す……から……」
自然と、口から声が漏れた。エレミーの声だ。
ああ、そうか。だから俺は扉を開けた。
そうだ。帰ってきたぞ。俺は。ずいぶんと時間がかかったが、約束を果たすために帰ってきた。
ぼんやりと浮かぶふたつの景色が重なる。
エレミーの見るおぞましい竜と、ブライズが最期に見た真っ赤な空。やがて空は消え、異形の竜だけが残った。
「――ッ」
意識を呼び覚ませ。
竜が口を開いている。立たねば。大丈夫だ。まだやれる。俺は帰る。
出迎えてくれるリリの姿が脳裏に浮かんだ。今度は大人のリリだ。
「おお……っ」
身を起こして脇差しを杖のように地面に突き立てるも、膝が震えて伸びない。己の荒い呼吸と脈動だけがやけにうるさい。
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