豚と僕
僕はその時、圏央道で渋滞にハマっていた。それはまるで出口のないトンネルをずっと歩いているような、とても長い渋滞だった。もうどれくらいの時間が経ったのか、もう何本煙草を吸ったのか、色々なことがひどくボンヤリとしていた。けれども足だけが、頻繫的に行わなければいけないクラッチ操作をする足だけが、痛みにも似た気怠い疼きのようなものを僅かながらに発していた。僕は大型トラックで埼玉のある会社に積荷を降ろしに向かっている最中だった。
僕は新しい煙草にまた火を点けた。今日の昼食のことをキッパリと諦めてしまうと、不思議と空腹感は湧いても来なかった。でもその代わり、口の中はコーヒーと煙草の味でいっぱいだ。
煙草を二口吸い、灰皿の縁で煙草の先端の灰を尖らせるように整えてから(僕の癖だ)、僕はこの短時間のうちに習慣的にさえなってしまっていた右車線の隣の車をフッと見てみた。僕のトラックの横にはピカピカに磨き上げられた黒色のプリウスがずっと並走していて、それには二十代くらいの若いカップルが乗っていたのだ。これは大型トラックに乗ったことがある人じゃないとちょっとわからないと思うけど、大型トラックの高い運転席からは隣の乗用車の中が実によく見えるのだ。しかもこんな真昼間の中にあっては、何から何まで本当によく見えるのだ。何もやることがない渋滞の中、僕は暇つぶしのためにその二人の若いカップルを運転席からぼんやりと観察していたのだ。そしてまたその若いカップルは、暇つぶしにはもってこいのカップルでもあったのだ。
その若いカップルは周りの目なんてお構いなしにやりたい放題だった。もうそこは完全に二人だけの世界といった感じで、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい終始イチャイチャしていたのだ。二人には渋滞なんて全く関係がないようだった。手を繋ぎあったり、女が男の腕に絡みついたり、ミニスカートから覗く女の白い太ももを男がスリスリと撫でたり、人目もはばからず何度もキスしたりと、本当に見てるこっちが恥ずかしくなるくらいずっとイチャイチャしていて、僕はそのうちおっ始めるんじゃないかと気が気じゃなかった。いや、むしろやっちまえ!と内心思っていたようなところもあった。
さてさて今は何をしてるかな?と、そんな下心の気持ちで僕は右車線を見てみた。……高速道路というのは、例のその人目はばからずカップルと言い、物珍しいモノを時に提供してくれる場所なのかもしれない。僕の隣には『豚』がいたのだ。
そう。例の黒いプリウスではなくて、僕の右隣には豚がいたのだ。それは間違いなく正真正銘の本物の豚だった。「おっ、豚だ」と僕は思わず声に出して言っていた。例の黒いプリウスは、僕が目を離していた数分の内にスルスルと前に進んでいたらしく、今では僕のトラックより二台分くらい前に進んでいた。
豚は、僕の乗る大型トラックよりも少し小さい中型トラックの荷台にいた。それも一匹ではなくて、沢山いた。そのトラックの荷台は小さな檻みたいになっていて、その中に全部で十匹くらいの豚がいたのだ。どの豚も丸々と太って体も大きく、そんな豚たちが狭い檻の中を所狭しと動いていた。例の若いカップルのその後の様子を見れなくなってしまったのは少々残念だったけれど、こんなにもまじまじと豚を見れることはそうないし、暇つぶしにこれはこれでいいね、と僕は思った。
何かをムシャムシャと食べている豚。隣の豚とじゃれ合っている豚。ブヒブヒと頻りに鳴いている豚。右に行ったり左に行ったりと落ち着きのない豚。狭い檻の中でそれぞれの豚がそれぞれのことをしていた。窓を開けていても匂いは何も感じない。ただ豚の高い鳴き声と、動くたびにコツコツと床に当たる爪の乾いた音が聞こえてくるだけだ。僕は煙草を吸いながらそんな豚たちをしばらくぼんやりと眺めていた。そしてその中のある一匹の豚にふと気づいたのだ。
最初のうちは動く豚についつい気を取られて気付かなかったのだけれど、その中に一匹だけ、ちょうど檻の真ん中の位置に、他の豚とは違って全く微動だにしていない豚が一匹いたのだ。その豚は柵と柵の間からヒョコっと顔を突き出して僕のことを静かに見ていた。いつからそんな風に僕のことを見ていたのか、目が合って僕はちょっとびっくりした。でも僕がもっと驚いたのは、その豚の不思議な目の輝き方だった。
なんて不思議な輝き方をする目だろう、と僕は思った。でもどこか悲しい目だ…。
ウルウルとした黒目ガチなその小さな目は、驚くくらい澄んでいて驚くほど透き通っていた。まるで作り物のガラス細工みたいだ。たぶんそれがどこかもの悲しさみたいなものを僕に伝えるのかもしれない。僕は高校の修学旅行で行った沖縄の海を思い出した。たしかこんな風に透き通っていて海底の魚や、珊瑚が見えたのだ。豚の目の中で液体がグルグルと動きながら不思議な図形を描いているのが僕の位置からでもわかった。豚は僕のことをたしかに見ているのだけれど、でもその澄んだ目は僕ではない遠くの違う何かを見ているようだった。
僕らはそれから見つめ合い続けた。豚は片時も離さず僕のことを見ていた。だから僕もずっと豚のことを見ていた。チョロチョロと進みながらそんな時間がしばらく続いた。
豚のその目をずっと見ていると、なんだか僕に対して何かを訴えているようなそんな気が僕にはしてきた。そうしてそんな目で見られることに、僕はひどく落ち着かない気持ちがしてきた。豚相手になんだか馬鹿みたいだけど、こんなにも悲しい目で見つめられたことは、たとえ人からでも僕はこれまでで一度もなかったのだ。一体豚が僕に何を訴えているのか? それは僕にはさっぱりわからなかった。
五分、十分、十五分…。そんな時間が永遠に感じられるくらいずっと続いた。車は止まったり動いたりを繰り返しながら相変わらずチョロチョロと進んでいた。天頂近く登った太陽は、気持ち良いくらいに陽射しをいっぱいに地上に降り注いでいた。僕らはまるで何かの理由で離れ離れになってしまうカップルみたいにずっと見つめ合い続けていた。豚は相変わらず片時も離さず僕のことを見ていた。僕は居た堪れなくなり途中何度か視線を逸らしたりしていたけど、それでも僕も豚のことを見ていた。僕がある事実にふと思い当たったのは、それからもうしばらく経ってからだった。それは、ふと僕の頭に浮かんできた。
『この豚たちはいずれ食べられてしまう豚たちなんだ』
どうしてそんな当たり前の事実に僕は気が付かなかったのか…、まるで動物園に輸送される動物でも見ているかのように、僕は全くの軽い気持ちで豚たちを見ていたのだ。でもその事実に思い当たると、その悲しい目をした豚の心情がありありと僕の胸を打った。
他の豚たちはともかく、いやむしろ他の豚たちは自分が豚であることすらきっと気付いていないはず。でもその一匹の悲しい目をした豚だけは、少なくとも自分が豚であること、そして豚である自分がこの後どうなっていくのかということをきっとわかっているんだと僕は思った。だからあんなにも悲しくて、悟り澄ましたような目をしているんだ…。
豚たちをもう一度改めてちゃんと見てみると、豚たちの体には赤と青のスプレーでそれぞれ何かの『印』が付けられていることに気づいた。それが一体どんな意味を指す印なのかはわからないけれど、何かしらの判別なり区別なりがなされてあることはたしかだった。つまりそれは、彼らは養豚で、ゆくゆくは食べられるということを静かに暗示していた。
一瞬時が止まったかのように、僕の体の中を何か冷たいものがスゥーっと流れた。
最近僕は、口にこそ出したことはないれど、生きることにほとほと参っていた時期でもあった。三十五年、この世界に生きて来たけれど、人間として生きていくことがこんなにも辛くて苦しいものなのかと、三十歳を越した辺りから日増しに僕は痛感していたのだ。仕事、人付き合い、お金、責任、重圧、妥協、夢…。その苦しさを一言で言い表すことはとてもできないけれど、とにかく生きづらい。
結婚して子供も生まれ、幸せなはずなのに、なぜだか苦しいことばかりが心の中に塵のように残るのだ。こんなことなら人間になんて生まれて来なきゃ良かったな、と思うことがしばしばあったのだ。まさか豚に生まれて来れば良かったとは思ったことはないけれど、犬や、猫や、鳥にでも生まれて、気楽に生きたかったな、とそんな空想に耽ることはあったのだ。
けれども今こうして、これから殺され食べられていく豚たちに接して、僕のそんな考えはいかに愚かで浅はかなものだったのかということが痛いくらいに僕の胸を刺した。生きなきゃ、と僕は思った。僕は悪い夢から覚めたような気がした。
他愛のない瞬間の他愛のない出来事ではあったけれど、僕はその日渋滞にあって良かったと思った。
僕らはそれからもしばらくはそんな他愛のない瞬間を共にしていた。僕には何もしてやることはできない。だったらせめてこの目に焼き付くぐらいその最後の勇姿を見てやろう。そんな気持ちで僕はその一匹の豚をそれからはしっかりと見ていた。
渋滞が終わり、豚が乗る中型トラックがスピードを上げて僕のトラックを追い抜いて行く時、チラッと中型トラックの後ろの背扉の文字が見えた。
『信州くりん豚』
後ろの背扉には、どこまでも陽気なポップな字体でそう書かれていた。たぶんそれがその豚たちの名前なんだろう。豚たちが見えなくなってしまってからも、僕の脳裏にはあの一匹の豚の悲しい二つの目がしばらく残像のように残っていた。
―おわり―