ミッション・インポッシブル(2011/10)
本編「色恋に身を焦がす」から二週間後。
例のギターを部室に戻しにいくお話。
ある日の放課後。授業を終えた生徒たちが、我先にと帰路を急いでいく、とある高校の昇降口。
本田樹は、校舎内から死角となっている、昇降口の扉の陰で、ある人物が現れるのを待っていた。しばらくして目当ての人物が校舎から出てくるのを確認すると、本田は急いでその人物の後を追って腕を掴む。
「相澤、ちょっと付き合え」
相澤香楽は、本田に突然腕を掴まれたことに驚いた様子だったが、本田の不機嫌そうな顔と掴まれた腕を順番に見た後で、愉快そうな笑みを浮かべた。
「それって、男女の交際的な意味合いで?」
「ちげえよ馬鹿。マックでお前と話させろって意味だよ」
本田は、相澤の揶揄いを吐き捨てるように否定する。にやにやとした笑みを浮かべ続ける相澤に痺れを切らし、とりあえず移動するぞと、本田は相澤から手を離して一人で歩き始める。
相澤は、先を行く本田の背中をしばらく見つめていたが、本田が突然声を掛けてきたことに合点がいったのか、そのまま本田の後を追いかけ始めた。
***
本田たちの通う高校からしばらく歩いたところにあるファストフード店。四人用のテーブル席に、本田と相澤は向かい合って座っていた。相澤は、二人を挟むようにテーブルに置かれているフライドポテトを数本つまんでから、改めて口を開いた。
「で、話って?」
「この前のこと、覚えてるよな」
苛立ちを隠さないまま、本田は相澤に問いかける。
「そりゃあね。忘れたくても簡単に忘れられないでしょ。人様の告白の手伝いをするなんて経験、滅多にすることないんだし」
「しらばっくれるな。ギターだよ、ギター」
戯けた様子の相澤に、本田は珍しく声を荒げた。
遡ること二週間前。
本田は、自身が所属する軽音部の部室の鍵を閉め忘れたために、部室に部外者の侵入を許してしまい、挙句の果てに顧問が大事にしているビンテージギターを盗まれるというトラブルに見舞われていた。ある別の騒動に巻き込まれた際、本田は犯人の正体に気付いたのだが――その犯人こそ、今本田の目の前で、飄々とした顔でポテトを貪っている相澤香楽本人なのであった。
相澤は、自身の好奇心から軽音部の部室に侵入したものの、不注意でギターを壊してしまい、修理のためにギターをその場から持ち出していた。修理にかかると言っていた期間は一週間。だが、
「もう二週間だぞ。いつになったら返しにくるんだ、お前。部長と顧問を誤魔化し続けるのも無理があるんだよ」
「仕方ないでしょー。返しに行こうにも、普段人目が多すぎて部室に潜りこめないんだから」
「直接返しに行くって発想はないのかよ……」
「ある訳ないでしょ。ここにあと二年も通うのに、こんなところで汚点なんか作りたくないもの」
「じゃあ不法侵入なんてするなよ」
「いやあつい出来心で」
この野郎と、本田は内心怒りを覚えるが、口には出さずに息を吐いた。
「つまりお前は、ギターを盗んだことがばれないように返しに行くつもりなのか?」
「当然。ーーでも、上手く返せる自信がない」
そこで、と相澤はつまんだポテトを本田に向ける。
「協力しない?本田クン」
「……僕のメリットは?」
「ギターの盗難事態をそもそも起こっていないことにする。そうすれば、本田クンが部室に鍵をかけ忘れたという事実がこの先露呈したとしても、それ以上の責任を問われることはない」
相澤のその提案は、本田にとって魅力的なものだった。
そもそも相澤がギターを軽音部の部室から持ち出すことができたのは、本田が部室の鍵を閉め忘れたのが原因だ。ギターの盗難自体をなかったことにできるのであれば、本田が責任を問われることもない。そして、ギターを誰にもばれずに部室に返しに行くためには、部員の協力を得るのが必要不可欠であった。
……つまり、僕と相澤の利害は一致してる。
本田が、相澤の提案を断る理由はなかった。
「分かった。協力する」
「よし!」
相澤は、人目をはばかることなくガッツポーズをとった。
「で、具体的にどうするつもりだ?」
「単純よ。人目につかないよう、軽音部の部室に入ってギターを置いてくる。ただそれをするにあたって問題なのは、私が学校にギターを持ち込む姿を誰かに見られることと、部室にどう入るのかってこと。後者は君の協力があればクリア出来るとして、一番の問題は……」
「ギターをどうやって持ち込むか、か」
「帰宅部の私が、ある日いきなり学校にギター持っていくのは流石に目立つでしょ?でも君なら、部活でギターを持ち歩くこともあるから違和感ないと思うんだけど」
名案だとばかりに相澤は口角を上げるが、本田は首を横に振る。
「いや、無理だ。僕が使ってるの、ギグバックだから。お前が持ってったギターって、確かハードケースだろ。僕が持っていっても変に思われるだけだ」
「……ごめん。素人の私にも分かるように言って。ギグとかハードって何?」
本田の話を理解できていない様子の相澤に、本田は目をきょとんとさせるが、ギターをやっている訳ではない相澤がケース云々について知っている訳がないかと思い直し、説明のために口を開く。
「ギターケースは何種類かあって、用途によって使い分けることがあるんだ。ギグバックは、全面がクッションで囲まれてて、安全性がそこそこある持ち運びがしやすいケース。それに比べて、ハードケースは硬い樹脂でできてて、持ち運びに向かない、ほぼ保管するためのケース。ギター込みで、五キロくらいの重さがあるって聞いたことあるな」
「ああ……。どうりで持ち帰るのが大変だった訳だ……」
「この二つは見た目からして違うから、普段ギグバックを使ってる僕が、一日だけハードケースで部室に行ったら、逆に他の部員から怪しまれると思う」
相澤は苦い顔で席にもたれかかり、うんうんと唸りだした。
その様子を見て、本田はハアと息をつく。
「それにお前、平日にギター持ってきて、いつ返しに行くつもりなんだ?」
「え?それはもちろん部活が始まる前に…………」
言っていて気付いたのだろう。相澤は、あ、と小さく声をこぼした。
「僕ら特進クラスは?」
「……一般クラスより一時間授業が多い」
「そういうこと。他の部員が来る前にギターを返しに行くなんて、元から無理な話なんだよ」
本田たちが通っている高校は、普通科と総合学科の二つの学科があり、そのうち普通科は普通進学クラスと特別進学クラスの二つに分かれている。
本田と相澤が所属している特別進学クラスでは、平日すべての曜日において、普通進学クラスより一時限分多く授業を受けているため、部活動への参加もその分遅れることになる。平日に、普通進学クラスや総合学科の生徒より先に部室に忍びこむというのは、土台不可能な話なのだった。
相澤はテーブルに顔を突っ伏すと、ぼそぼそと喋り始めた。
「馬鹿だ私……。なんでそんな簡単なこと見落としてたの……。馬鹿……ほんと馬鹿。ついに岡本クンのような馬鹿になってしまった……」
「風評被害がひどい」
「平日が駄目ならいつ返しに行くのよ……」
「それはまあ、土日に行くしかないだろうな」
「まさかの休日出勤……いや出校かあ」
「土曜日は活動日で部員の誰かしらはいるから、やるなら日曜だな。次の日曜はどうだ?」
「私は別にいいけど……。活動日でもないのに、鍵って借りれるもんなの?」
「部室で練習することを事前に伝えておけば、貸してもらえるから大丈夫だ」
「分かった。じゃあ、鍵は君に任せる。……当日日和ったりなんてしないでよ?」
「そっちこそ、やっぱりやめたはなしだからな」
話は終わりだ、と本田は席を立ちあがる。相澤はポテトを口にくわえながら、本田が店から出るまで見送ると、
「ハア――――」
と、盛大に溜息を吐きながらテーブルに突っ伏した。
***
作戦決行当日の朝。
「よっし」
相澤はローファーを履くと、右手のギターケースを持ち直す。
相澤の父親は、仕事で海外を飛び回っているため普段から家におらず、母親も自身の事務所で仕事をしているため、相澤が日曜日に制服姿でいることに異論を唱える者は、今一人もいない。
……最初の関門は無事突破。あとは学校に着くまでの間、知り合いに会わないことを祈るだけだ。
「じゃ、行きますか」
玄関のドアを開け、外へと一歩を踏み出す。
今この時をもって、『相澤と本田にとって遂行不可能な任務』が幕を開けた。
***
慣れない荷物の重みにやっとのことで学校へと辿り着いた相澤を出迎えたのは、校舎の入り口前で、手持ち無沙汰にしている本田だった。本田は自身のギターケースを背負いなおすと、少し苛立ちげに相澤に言葉をぶつけてくる。
「――やっと来たか。遅かったな」
「一コ離れた駅から歩いて学校まで来たんだから、多少遅くなるのは目をつぶって欲しいんだけど。……ていうか、何で本田クンもギター持ってるの? 必要なくない?」
「練習するって体で来てるんだから、持ってないとおかしいだろうが。誰にも見られてないな?」
「当然」
「じゃ、行くぞ」
本田を先頭に、二人は校舎の中へと入っていく。
「この校舎、授業でも入ったことないんだけどさ。軽音部は普段ここで練習してるんだよね?」
「そうだな。三階の第二音楽室が活動場所になってる。鍵は事前に借りてあるから、さっさと行ってさっさと帰るぞ」
階段を上りながら、本田は右手にある鍵を、後ろの相澤に見せるようにちゃらちゃらと振る。
「活動日でもないのに鍵貸してもらえるなんて、ウチの学校もだいぶ緩いね」
「普通はしないだろうな。軽音部なんかは特に。……まあ、顧問に直談判してなんとか貸してもらったんだよ。部活では、一応練習熱心な生徒で通ってるからな」
「え」
「……何だよ、そのリアクション」
「いや、君がそんなに真面目に部活やってるとは思ってなかったから」
「…………お前、僕が内申のために部活入ってると思ってないか?」
「さすがにそれは思ってないけど。そもそも特進には推薦枠ないんだし、どれだけ内申稼いだって使うところがないじゃん」
むしろ、と相澤が続けようとした言葉を、遮る声があった。それは、二人が三階に着いた時。先頭を歩く本田が、第二音楽室から見て姿が確認できるようになったタイミングだった。
「ーーやっと来たか、本田」
本田にとってあまりにも聞き覚えのある声に、彼は思わず立ち止まる。声の人物に気付かれないよう、とっさに止まれのハンドサインを後ろの相澤に出せたのが、せめてものファインプレーといえた。
本田がゆっくりと声の聞こえた方ーー第二音楽室の方へと顔を向ける。そこには、
「……何でいるんですか、部長」
軽音部部長、奏井のどかの姿があった。
***
「顧問から、今日お前が部室で練習するって聞いたから。様子を見に来た」
「見に来たって……いつもは来ないじゃないですか」
……よりによって、今日この日に来るかよ。
本田は内心で舌打ちをするが、顔はいつも通り素っ気無いままだ。
「今までも、何回か見に来てはいたよ。お前が気付いてないだけで」
「は」
「お前一人の時に、何か問題起こされたら堪らないから。当然だろう」
「……まあ、そうですね」
まさに今日、ついこの前起こした問題をもみ消しに来ているため、その罪悪感から本田は奏井から目をそらす。
「それで? 今までこそこそしてたのに、何で今日顔を見せたんです? 一緒に練習でもするつもりですか?」
「ーーいや、このまま帰る。もともと、学校には別の用事で来ただけだし。ここに寄ったのは、序でだから」
そう言って、奏井は第二音楽室から立ち去ろうとする。
……あ、やば。
このままだと相澤と奏井が鉢合わせすると思い、本田は後ろを振り返るが――既に相澤の姿はどこにもなく、無人の光景がそこには広がっていた。本田は思わず安堵の息を吐き、奏井が立ち去るのを横目で見ていると、
「ーー本田」
立ち止まった奏井が、本田に問いを投げかけてきた。
「お前、音楽好きか?」
「……どうしたんですか急に」
「……あー…。違うな、音楽じゃなくて。ーー軽音部、好きか? なくなるのは嫌か?」
奏井が言わんとしていることをそれとなく理解して、本田は頷く。
「少なくとも、嫌いではありませんよ。……家だと練習できないんで、ここがなくなると困るし」
「……そうか」
奏井は噛みしめるようにそう言うと、再び足を動かし始める。
「もう行くよ。練習の邪魔して悪かったな」
階段を降りていく奏井の後ろ姿を、本田は無言で見送る。奏井の姿が見えなくなったところで、
「本田クン」
「うお」
今までどこに消えていたのか、相澤が本田の後ろから声を掛けてきた。
「今の、軽音部の部長さん?」
「そうだよ。……悪い。僕のミスだ。部室に誰も来ていないか、先に確認しておけばよかった」
「ん―…、まあ、何の警戒もなしに本田クンの後着いてった私も悪かったし。誤魔化せたんならそれでオッケーでしょ」
早く済ませちゃおう、と相澤の促しに応じて、本田は第二音楽室と準備室の鍵を開ける。
楽器や楽譜などで溢れている準備室に二人して入ると、
「このへんだっけ?」
「いや、このあたり……」
などと言葉を交わしながら、問題のギターを元の場所へと戻す。
作戦は無事終了。後は帰るだけだが、相澤は準備室から出ようとせず、本田に疑問をぶつけてくる。
「ねえ、軽音部ってさ、何か訳ありだったりする?」
「……何でそう思う」
「君も部長さんも、軽音部として問題を起こされることをかなり警戒してるみたいだったから。何か事情があるのかな――と」
本田は楽譜を探す手を止めると、しばしの無言の後、短く息を吐いた。
「お前、今年の文化祭回ったか?」
「……まあ、人並みに回ったと思うけど」
「じゃあ、軽音部の出し物が一つもなかったことに気付いたか?」
「え?」
相澤は記憶を遡っているのか、考える素振りをみせるが、自信なさげに言葉を絞り出してくる。
「言われてみると……、なかった、ような……?」
「ないんだよ、実際。軽音部として出し物を出すことも、……演奏することも許可が下りなかった」
本田は言葉を続ける。
「僕らの一つ前と二つ前の先輩がやらかしてな。廃部寸前だったんだ。今の部長と副部長が頑張って、なんとか普段の活動はできるようになったけど、軽音部の名前で発表の場に立つことは禁止されたまま。――開店休業とは、まさにこのことだな」
自嘲的な笑みを浮かべる本田を見て、相澤は押し黙る。彼女のその様子を見て、本田はクソと内心で悪態を付く。
……なに感情的になってるんだ、自分。
これは軽音部の問題で、部外者の相澤に当たるようなことではない。実際、箝口令も敷かれているため、事情を説明することすらいけないことなのだ。分かってはいる。本田も分かってはいるのだ。だが、
……我慢するにも限度があるよな。
他の部員も表立って文句は言わないが、内心では思っているはずなのだ。本田たちの今の状況は、
「理不尽だよね、それって」
まるで本田の心を読んだかのような相澤の言葉に、本田は驚きの目を彼女に向ける。
相澤は、いつものような飄々とした笑みではなく、真剣な顔つきで本田に語りかけてくる。
「本田君ってさあ、なんで軽音部なんかに入ってるの?」
「………………それは、」
「特進ってさ。授業が一時間多いから、部活に入るやつ少ないじゃない。なのに、本田君は敢えて大変な方を選んだ。その上、そこは訳ありの部活ときたもんだ。普通なら、面倒事に巻き込まれる前に辞めるだろうに――何で、まだいるの? 何で、日曜に学校来てまで熱心に練習してんの?」
本田は答えない。
「――部活にそこまで精一杯の癖に、何で、クソみたいに理不尽な状況を打破しようとしない訳?」
相澤の言葉に、何かを言い返しそうになって、本田はそれを飲み込む。
部外者が何を偉そうにとか、知ったような口を利くなよとか思うことは色々あるが、本田はわななく唇をなんとか抑え、相澤に敵意の目を向ける。
「うるせえよ、快楽主義者」
「快楽主義者」という言葉に、相澤は少し目を見開いた。
「そうやってけしかけて、僕に何か行動を起こさせるつもりなのかもしれないけどな。僕はそんな手には乗らねえぞ」
本田の拒絶の言葉に、相澤は何かを言おうと口を開き、しかしすぐにそれを閉じてしまう。
「……いいよ、そう思うなら、それで」
目を伏せながら相澤はそう言うと、鞄を肩にかけなおし、準備室の扉へと歩いていく。
気まずい沈黙が場を包む中、相澤は準備室から出ると、いつもの笑みを浮かべながら振り返った。
「じゃ、私はこれで。今度、これのお疲れさま会でもやりましょ」
それじゃあねーと、相澤は準備室の扉を閉めて、姿を消す。
本田は、目の前の棚に頭を押し付けると、クソと小さく呟いた。