星
───たいそう楽しげに雑音を掻き鳴らす自動車の音。どこか間が抜けて聞こえるセミの輪唱。
もうこんな時間か。私は魂まで漏れてしまいそうなほどの溜息をついてから、ゆっくりと瞼を開け、何度か瞬きをしてから、重い体を持ち上げる。今日も生きている。そして何事もなく今日が始まる。始まってしまう。そう考えただけで虫唾が走る。
いつも通りに顔を洗って半分寝ている自分を叩き起し、昨日コンビニで買ってきたパンを口に放り込む。そのまま制服を着て、軽く歯磨きをしてから、重い、重いドアを開ける。
味気のない街並みを足で掻き回し、嫌に荘厳な門を潜り抜け、今後のためになると自分に言い聞かせるのも馬鹿らしくなるような話を耳に通す。ペンを指先でくるくると回しながら、これからこんな日々がどれだけ続くのだろうだとか、そんなどうしようもないことばかりを考えた。
一日の終わりを知らせるチャイムが鳴り、教室から人がぞろぞろと出ていく中に紛れて校舎を出る。視界の片隅に広がっている蒼黒く淀んだ空からは、気怠そうに雨が降っている。
車が水をはねる音、傘にぶつかる雨の音、水で覆われたアスファルトを踏む音。その全てが煩わしくて、邪魔だった。
──私は、昔から群れることが好きではなかった。ひとりは嫌いじゃなかったし、むしろ静かでよかった。ただ、どうしても群れで行動しなければならないことはあった。その度に私は何か問題を起こしては叱責されていた。
高校に入ってからも相変わらず、ひとりで活動する時間が多い。それでも、何かを変えたいと思って吹奏楽部に入った。もちろん長くは続かなかったし、思い出なんてできなかった。
友達なんかも面倒くさいし、恋人なんてもっと面倒くさい。青春ってモノは、思ったよりもつまらなかった。高校生活は楽しいだなんて誰が言い出したんだろうか。
そんなことを考えながら朝も通った道をなぞって行くと、白くて簡素なドアが目の前に現れる。紙のように軽いそれを開けば、見慣れた部屋が広がっている。私は着替えもせずにベッドに倒れ込む。...お弁当を洗って、晩御飯を食べて、お風呂に入って.........やらないといけないことは山ほどある。やらなければ困るのは明日の私だということは分かりきったことなのに、私は深い眠りに身を委ねる。
──。おい、君だ。君。そこで突っ伏してる君。私の声が聞こえるかね。...あー、聞こえてないならそれはそれで良いのだが...もし万が一聞こえていたなら、明日...今日か。........とにかく!起きてすべきことを終えたら君の家から1番近い山の上に来なさい。いいね?
───妙な夢を見た。はっきりしないものが語りかけてくるような感じで、今まで見た事ないような夢。...なんと言っていたか。山の上...とか言っていたが、どこの山なのだろうか。近くの山と言っても、そもそもそう言えばこの辺りのことをよく知らなかったな、と思いながら私はいつも通り学校へ赴く。
一日の授業の終わりを知らせるチャイムで我に返る。今日は少しだけ、早く終わったような気がした。
そういえば、家の近くの山の上だったか。あんな夢を信じるのは馬鹿らしいとは思ったが、どうせしたいことなんてものはない。折角ならお伽噺を聞いてやろうかと、私は地図アプリに頼りながら家から約10キロ離れた山に向かった。
山の麓に着く頃には日は沈みかけていて、空は大禍時と言うにはあまりにも綺麗な色で染まっていた。
確かあの声は上と言っていたからきっと頂上に行けば何かがあるのだろう。この時の私は、久しぶりに好奇心を覚えていた。
幸いにも山の標高はそこまで高くなく、頂上に行くまで大して時間はかからなかった。
───やっぱり、誰も、特に何か変わったものも無い。
期待した私が馬鹿だった。あんなことでほんの少しでも、今の生活に変化が訪れるだなんて。そんなメルヘンな話があってたまるものか。そう自分に言い聞かせてもぼろぼろと溢れてくる涙を飲み込むためにふと顔を上げた時だった。
「───あ」
すっかり暗くなった空には、今まで見たことのない数の星が瞬いていた。目に焼き付いているアスファルトとはかけ離れた輝きに見惚れていると、何処からか声が聞こえてきた。
「いい顔をするじゃないか、お嬢さん」
驚いて辺りを見回すと、すぐ横に象の鼻を短くしたような顔の生き物が立っていた。立っていたのだ。人間のように二本の足で。それ以前に、この生き物は言葉を発している。しかも日本語を。
動揺した私が誰、と聞く前にその生き物は答えた。
「はっはっは。驚くのも無理はない。『人間じゃない生物が二足歩行しているなんてありえない』、と言うのだろう?全くその通りだとも」
私は声が出せなかった。それでも生き物は続けた。
「お前は誰だ、って顔をしているね。全くだ。君とは夢で出会ったきりだものね。私は....君たちが『獏』と呼んでいるものだ。夢を食べると言われてるね。事実がどうであれ」
その生き物...獏は、少しおどけた感じでそう言った。
「わた──」
私が喋ろうとすると、獏は大きな前足で私の口を塞ぎ、こう言った。
「喋らなくていい、これは泡沫の夢なのだから、もう少し私に喋らせておくれ。いいかい──」
獏は頭上に広がる空を指さして言った。
「あの一つ一つの輝きに意味がある。それは人間たちにとっても同じだ。そして、その中の一つに君がいる。君の選択は間違っちゃいない。ただしそれは君自身が本当に望んだ選択なら、の話だ。君が本当に進みたい道なんてものはそう易々と見つけられるわけじゃない。でも、一生懸命ハッピーエンドに進もうとしているなら、君の選択は絶対に正しい。他人にどうこう口出しする権利はないし、君が不安になる必要はない。ただ、これだけは覚えておいて欲しい。あの空に浮かぶ星の数ほどの出会いが君の人生には待ち受けている。だから、どうか今に絶望しないでおくれ。未来は星の数だけある。私は君たちの幸せな夢が見たいんだ」
大きく息を吐いた獏は、どこからか1冊のノートを引っ張り出してきた。
「辛くても誰にも言えない、悲しくて悲しくてたまらないけど吐き出せないなんてときはこのノートに君の感情を書き起こすんだ。思うままに、君の気持ちを全部ぶつけてやってくれ。そのノートこそが、君の一番の理解者になってくれるさ」
と言って私の口から前足を離した獏は、次に瞬きをした時には消えていた。1冊の古びたノートを残して。
あの日の出来事はうっすらと覚えている程度だけれど、あの時に貰ったノートは私の宝物になっている。
『未来は、星の数だけある。』
その言葉だけは、私の頭に残り続けている。そして、私にもひとつの夢ができた。
いつか私の何かが、別の誰かの星になれますように。
拙いところなど多々あると思いますが、アドバイスなど是非よろしくお願い致します。