開演
「きゃぁ――あ!」
事件の始まりは古式ゆかしく、うら若き女性の絹を裂くような悲鳴からであった。
建物全体が震えるようなその悲鳴は、一瞬で彼方から此方に走り抜けて行ったが、建物の中にいる全てのものをそこに集約させた。
舞台となったのは古めかしい洋館の一室、館の主が財産を持っていたのだろう部屋には日本ではあまり見かけない天蓋が付いたベッドが置かれ、その周りに白を基調とした調度品が品よくまとめられていた。
そこには三人の男女がいた。いや、違う、正解に言おう。
二人の男女と一つの人間がそこにいた。
部屋の前、ドアの向こうで男女が見たのは、中央に置かれたベッドの上に仰向けで横になった一人の女性である。
……ただし、眠っているのではない。
女性の顔には赤みはなく、むしろ、過剰と思えるほどに青白い。そこには全くの熱がなく、色がなく、音がなく、匂いがない。
ただ人が死んでいる。それだけが良くわかるように演出されていた。
女性の胸元に一本のナイフが見えた。
柔らかそうなふくらみの中央に突き立てられた一本のナイフ。真っ白な両手がそのナイフの柄をギュッと握りしめている。
これこそが彼女を殺した凶器だと印象付ける一本のナイフは深々と女性に突き刺さり決して抜くことはかなわない厳かな聖剣のように見えた。
青白い顔や手、ベッドの周りに置かれた真っ白な調度品と対比するように、熱の根源たる赤の血液は人一人が持つ量をはるかに超えて膨大に、あまりに多く流れ落ち、その本来は一番に目につくはずの白の色合いを無遠慮に染め上げていた。
これで実は生きているなんて言われれば、それはコメディーであり、ホラーな話であろう。
「お母さま! お母さま!」
眠る女性の部屋に、青年が叫びながら駆け込んでいった。
どうやら青年は彼女の息子らしい。真っ赤に染め上がったその部屋の中、足を踏み入れるのにさえ躊躇するような赤の暴力の中に、彼は自分の衣服が染まることをいとわず、そのまま飛び込んでいった。
彼は何度も母様、母様と叫んだ。
声を上げることで現実を否定し、近づくことで目の前の光景が嘘となればという必死の感情が込めらていた。
だが、それは叶わなかった。
彼がベッドの横、彼女のすぐそばまで駆け寄る間、女性は彼からの呼びかけに対して一切の反応を示さなかった。
ようやくたどり着いた彼が横になる母を前にして、小さく絞り出すように吐き出した言葉。
「母さん……、」
と最後に呟いても、それは変わらなかった。
その次の瞬間、全てを悟ったのか彼はいきなり引きずり込まれるように崩れ落ちた。
彼の足元は赤の大海、命の赤は悲劇の彼を憐れみ水底に案内しようと絡めついてくる。
小さくなっていく彼は嗚咽とも叫びとも聞き取れる声を上げ、ベッドの上に無言で眠る母に覆いかぶさるようにしてそれに抵抗した。
ここでもう一人の人物、先ほどの悲鳴を上げた人のほうに目を向ける。
彼女は若い女性であった。年のころはおよそ20代前半か、もしかしたら、10代なのかもしれない。髪の色は薄茶色、詳しい人に聞けば亜麻色という色合いで、顔は伏せているのでわからない。しかし、彼女を特徴づけている最大のものは何かといえば、その服装であろう。
彼女は黒色のワンピースにフリルがあしらわれた白いエプロン、俗にいうメイド服を着ていた。
メイド服を着た彼女は青年とは対照的に何もできなかった。一番初めの悲鳴をあげてから、ここまで悲鳴以外の声は一切上げず、へたり込んで一歩も動けるようには見えなかった。
ここで、更にバタバタと続く足音が聞こえた。
「朝っぱらから、どうし、た? お、おい、」
「スープがさめ、て……」
「こ、これは」
「ひぃ! いやぁぁぁあああ!」
人数は四人、男女二人づつ、四人全員がその赤く染まった部屋の前で、顔を青くして立ち止まった。
「お、奥様が、」
正面、惨状に目を向けるしかなかったメイドは後ろから現れた新たな人たちのおかげで自分の職分を思い出したのか、たどたどしくはあったが言葉で状況を伝えようと試みた。しかし、言葉にしなくても十分に一目で四人は光景を理解した。
「な、あ、姉貴、」
「お、奥様、」
「いやぁあああ! なに、何なの! 死体? 死んでるの? ねぇ? ねぇ! 」
「お、落ち着いてください。み、みなさま、」
ドアの外、それは一挙に騒がしくなった。
四人は驚き、疑問、恐怖、疑い、それぞれ様々な感情が動くままに発言して、それを収める方向に動く気配はない。
「誰か、警察を、早く警察を呼んでくれ! 」
そんな様子に対して部屋の中にいた青年が突然大きな声を上げた。
「頼む、早く、警察を、」
真っ赤に染まった服の青年はドアの向こうで騒ぐ人たちのほうを振り向いて、悲痛な面持ちで声を上げた。
「わ、分かった!」
「は、はい! わかりました」
「待って、私も、」
「は、はい。わかりました。い、今、すぐ、」
青年の悲痛な思いが込められた言葉は騒ぐ四人を黙らせた。
その言葉はまるで魔法のように彼らを再び動かした。
男二人は年齢を感じさせない動きで姿を消し、女性はそれの後に遅れないようについていく、入り口でへたり込んでいたメイドもどうやら腰は抜けていなかったようで青年の言葉に従い動き出した。
全員が警察を呼びにバタバタと音を立てて駆け出した。
その屋敷がどれほど広いのか、その足音は徐々に遠く、小さく消えていった。