表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

雪と消える願いを夢む

 はらりと、本のページを捲る音が黄昏時の静かな部屋の中に溶けて消えた。今日も外は雪が降り止まなかった。雪は景色の色彩だけでなく、音をも覆い尽くしてしまいそうだ。

 菊緒はあやかしが来ていない時や、小夜が膝の上にいない時は、本を読んでいることが多いように思える。

 

 菊緒の背に寄りかかり、小振袖に袴姿の女学生風の少女があやとりをしていた。彼女の頭上では時折ぴるんと耳が動き、艶やかな毛並みのしっぽが畳で弧を描いている。小夜だ。

 小夜は猫又であり、猫か人の姿に自在に変わることができる。普段は猫の姿で、菊緒の膝で丸まっている。

 

 小夜は、他のあやかしより頻繁にここにいる。夜は来訪を控えさせるなど、菊緒を気遣って他のあやかしを取り仕切っている。白菊も様々なことを小夜から教わった。

 

「どうして私が菊緒のそばにいるか? それはそこの居心地が良いからよ。それに菊緒みたいに、あやかしが視える上でこういうふうに関わる人間は貴重なのよ」

 

 白菊が尋ねると、小夜はそう答えた。

 

「フーン」

「ふふ、貴方はまだ知らないわよね。だから覚えておいて。私は、貴方が夕景町こちらに来るのは反対よ」

 

 小夜は妖しげな微笑みを浮かべる。菊緒はちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。あやかしのことに関して、不必要に口を挟まないのは彼らしい。

 

「私の推測だけれど、貴方はまだ付喪神として完全に目覚めた訳じゃない。今常世に来たところで、苦労するだけだわ」

「オレだって、別に常世ソッチに行こうなんて思ってねェよ。それにオレは、菊緒のモンだからな」

「白菊」

 

 ぱたんと本を閉じて、菊緒が白菊の着物の胸元を掴んだ。狐面の奥の、見えないはずの白菊の目をまっすぐに見据える。

 

「ならばお前は、この先俺がいなくなったら……! ……っ、げほげほ!」

「オイ、菊緒!」

 

 突然咳き込んだ菊緒が、白菊の胸元に倒れかかる。慌てて支えるが、菊緒はぐったりとうずくまった。

 

「落ち着け、大したことは……な……げほ、ごほごほっ!」

「バカッ、喋るな! 小夜、どうしたら良いんだよ!」

「時間が経てば落ち着くわ。だから安静にさせるしか、私達には出来ない」

「でも、こんなに苦しそうだろ! なのに……ッ」

 

 白菊の腕の中で、菊緒は苦しげな咳を繰り返している。他の人間と比べて華奢な肩が、激しく上下していた。

 

 小夜は何度か、こうして発作を起こす菊緒を見たことがあるのだろう。しかし白菊は、軽いものならともかくこれほどの発作を初めて見た。

 小夜のようには、冷静でいられなかった。

 

「白菊……げほげほ、けほっ。すま、な……ごほ!」

 

 震える手が、白菊の着けている狐面に触れた。いつも通りの仕草だが、いつもと違い冷たさしか伝わってこない。

 反対の手は、きつく着物の胸元を掴んでいる。そんな状態なのに、菊緒は白菊を案じるのだ。

 

「謝ってんじゃねェよ。いいから、大人しくしてろ。頼むから」

「ああ……」

 

 辛うじて返答だけすると、菊緒は気を失うように目を閉じた。

 

 胸が熱かった。そこは、いつも菊緒の想いを感じる場所だ。白菊にとって付喪神としての核であるものが、いつもそこにある。

 そこに今、菊緒の感情が流れ込んでいる。様々なものがない交ぜになり、その強さを熱く感じていた。

 

「なんだよ、コレ……ッ」

「相当強く繋がっているみたいね、貴方達は。菊緒は私に任せて、貴方も休みなさい」

 

 静かに告げ、小夜は菊緒を抱き上げた。彼をそっと布団に横たわらせ、すぐ近くの狐面を指し示す。

 

「貴方は付喪神で、菊緒によって目覚めた。だから、彼の想いに呼応しているのかしら。ここにいれば落ち着くでしょうから、今は戻りなさい」

「悪ィ。じゃあ菊緒のこと、頼んだ」

 

 後のことを小夜に任せ、白菊は本体である狐面に戻った。



             *


 

 冬の夜は、雪の白に明るさを錯覚する。澄み切った夜空で星が瞬く音さえも、雪が吸い込んでしまいそうな夜だ。

 

 白菊が狐面の外に姿を現した時、小夜は布団の中に潜り込んで丸まっていた。眠っているのだろう。菊緒の横で小さな膨らみが、かすかに上下している。

 あやかしにとっては夜である時間に、ずっと菊緒に付きっきりだったからだろう。

 

 菊緒も未だ目を覚まさない。時折止まりかける呼吸に、辛そうに眉根を寄せる。

 と、その瞳がゆっくりと開いた。そうして、傍らに座る白菊に目を向ける。

 

「白菊……」

「おう。大丈夫か? オマエ」

「すまない。心配をかけたな」

 

 菊緒は、大丈夫だとは答えなかった。嘘はつかない彼らしい。

 

「やっと、解ったよ。オマエ『生きたい』んだな」

 

 あの時、白菊を目覚めさせた菊緒の想いが強く呼応したのだった。これまでにない程の強さは、狐面に込められた彼の願いそのものだった。

 初めて行った祭りの日の、特別な思い出の象徴であると共に、希望だったのだ。

 

「そうか、お前には解るのか。……そうだ。あの日祭りに行ったように、普通の人間のように、生きていたいんだ。俺は……」

 

 生まれつき病弱だった菊緒の、それが精一杯の願いなのだ。

 

「仕事に就いて、働いて。休みの日には、お前たちと過ごしたり、鈴太郎の手伝いをしたり。そういうふうに、生きてみたかった……っ」

 

 透き通った雫がこぼれる。かすかに煌めく涙は、これまで白菊が見た何よりも綺麗だった。綺麗で、それよりも苦しい程に悲しいのは、菊緒の感情が解るからだ。

 

「嫌だ、死にたくない。お前たちのことをどれだけ信頼していても、遺して逝きたくない。後の世界で、俺も生きたい……!」

 

 遺される者たちのことを想う時、菊緒はいつも真剣だった。だが達観したつもりでも、諦めきれなかったのだ。

 

「菊緒……」

「嫌だ、俺は嫌だ。生きたいよ、白菊……っ」

 

 上半身を起こし、彼は倒れかかるようにして白菊に抱きついた。そうして声を上げて泣く姿は、幼い子供のようだった。

 震える肩を、白菊も抱きしめ返す。白菊には、何の力もない。すがられても、何も出来ない。

 それでも、これまで誰にも言えなかった菊緒の本音を、受け止められる。その願いを知っている白菊だけが。

 

「う……。げほげほっ」

「オイ、大丈夫か!?」

 

 強く、白菊の背中に爪が立てられる。今まで、短い時間で何度も発作が起こることはなかった。

 

「げほげほ。うぅ……ごほ!」

 

 口元と胸をきつく押さえ、菊緒がくずおれた。

 

「しっかりしろ、菊緒!」

「し、ら……ぎく。……っぐ。ごほごほ、ごぼっ」

 

 ぼたりと、重たい水音がした。口を押さえる菊緒の指の間から、赤い血が滴っている。ままならない呼吸に、菊緒の顔が苦痛に歪んだ。

 

「菊緒……ッ!」

 

 初めて、菊緒が長く生きられないと言ったことを実感した。

 

「ごふ、げほげぼ! かは……っ!」

 

 一際激しい咳と共に、菊緒は大量の血を吐いた。荒い呼吸に、儚い身体は壊れてしまいそうに軋んだ。

 

「何してるの白菊! 早くお兄さんを呼びなさい!」

「ッ!」

 

 いつの間にか菊緒の背をさする小夜の鋭い声に、白菊は反射的に駆け出す。 

 

 母屋への短い雪道を素足で駆け抜け、中へと入る。真夜中だったらしく、誰も起きていない。おかげで白菊の、けして静かではない足音が騒ぎ立てられることもなかった。

 片っ端から確かめ、ようやく菊緒の兄の部屋を探し当てる。

 

「オイ! アニキ、起きろ!」

「その声、白菊君?」

「そうだよッ。菊緒が発作起こしてるんだ、オレらじゃもうどうしようもねェんだよ! 早く来い!」

「わかった、すぐに行くよ!」

 

 なりふり構わず窓から飛び出し、菊緒の部屋の縁側へ戻る。他のあやかしのように力を持っていないことを、もどかしく感じた。

 状況は変わるどころか、悪化していた。

 菊緒はあの後さらに血を吐いたらしく、彼の口元だけでなく小夜の着物まで赤く汚れている。

 

「小夜、菊緒はッ!?」

「まだ、治まらないの」

 

 冷静な小夜らしくなく、黒い猫耳がくたりと下がっていた。金色の瞳も、珍しく潤んでいる。

 積み上げた布団にもたれかかり、菊緒は苦しげに息を継ぎながら咳き込んでいた。

 

 玄関の扉を、荒く開く音が響いた。先程の白菊に劣らず慌てた足音は、勢いよく襖を開けて入ってきた菊緒の兄だ。

 

「白菊君! あ、黒猫さんもついててくれたんだ。……菊緒」

 

 静かに呼び掛けながら、彼は菊緒の胸を撫でる。浅く速く上下するそこを、そっと労る。

 

「お医者さんに連絡がついたから。すぐに来るよ。だから君たちは、ちょっと隠れててもらえるかな」

「兄、さ……。白……菊は」

 

 朦朧とする瞳の菊緒は、意識を失いかけている。辛うじて紡がれた言葉も、咳にかき消された。だが彷徨うように、片手が狐面へと伸ばされる。

 それだけの仕草で、理解したとばかりに兄が頷く。届かなかった距離の分、面を菊緒の手に置いた。

 

「わかった。この面は近くに置いておくから」

 

 ふ、と吐息だけで微笑んで、菊緒は気を失った。



             *



 菊緒がひどい発作を起こしてから、数日が過ぎた。雪は深く降り積もって、まわりからこの離れを閉ざす。

 あやかしたちも、以前程は訪ねて来ない。小夜が控えるよう強く止めたからだ。

 だが、さらに動けなくなった菊緒は不満げだ。外の話を聞くのを何よりの楽しみにしていた分、物足りなさを感じているのだろう。

 

 玄関の扉が開く音がした。わかりやすく、菊緒が目を輝かせる。あれ以来、白菊に対して表情も素直になった。

 やって来たのは小夜と鈴太郎だった。変わった組み合わせのふたりだ。

 今日の小夜は女学生風の人の姿で、色とりどりの花が咲き乱れる振袖が愛らしい。いつもは洋装の鈴太郎も、和服姿だった。

 

「少し遅れたが、あけましておめでとう。菊緒」

「初詣は難しいでしょうけれど、夕景町の方で祭りがあるの。誘いに来たわよ」

「本当か。それならば行くぞ。すぐに支度をしよう」

 

 菊緒は鈴太郎に支えられ、ふらりと立ち上がる。ゆっくりとだが、慣れた手順で外出用の着物に着替えた。

 

「って、待てよ。オマエこの前も倒れたばっかだろ。それに、なんでオマエも止めねェんだよッ」

 

 事の早さに呆気に取られていたが、菊緒と鈴太郎に食って掛かる。二人の幼馴染みは、こんな時にだけそっくりな表情で白菊を見遣る。

 

「小夜に言い負かされた。だがまあ、たまには悪くない」

「なんかあったらどうすんだよッ」

「あのな、お前。俺が何年、菊緒と幼馴染みやってきたと思う。はしゃいだこいつがぶっ倒れるのを介抱するなんて、もう慣れっこなんだよ」

 

 鈴太郎の妙な説得力に、引き下がらざるを得なかった。駄目元だが、矛先を菊緒に向けてみる。

 

「どうやって行くつもりだよ。オマエ、もう自力じゃそんな歩けねェのに……」

「そうだな。だから背負ってくれ」

「ハア!?」

「な、頼む白菊。一生に一度の頼みだ。俺は、お前とも祭りに行きたい」

 

 上目遣いで、袖を控えめに握られる。

 確かに、菊緒の『一生に一度の頼み』は重い。これを逃せば、次の機会などないのではないかと思わせる雰囲気を、彼は纏っている。

 

「……この、バカ」

「ああ。俺は、お前との思い出まで欲しくなったんだ。なあ、お前はどうだ? 白菊」

 

 菊緒にとって、特別なものである祭りの思い出を、白菊とも残したいと望んでくれた。

 そもそも寿命の違う人とあやかし。残されるのは、いつもあやかしの方だ。しかも菊緒は、普通の人間よりずっと短い命だ。せめて思い出だけでも欲しいのは、白菊の方だった。

 そして白菊は、菊緒の願いから目覚めた付喪神。それを叶えられない以上、頼みくらいは聞いてやりたい。

 

 答えの代わりに手を伸ばす。これ以上ないほど嬉しそうに、菊緒が微笑んだ。その柔らかな微笑みに思わず見とれる。

 同時に優しいものが流れ込んで、胸が暖かくなった。


「話は着いたわね? さあ、行くわよ」

「小夜、少し待ってくれ」

 

 小夜を止め、菊緒は狐面に手を伸ばす。それを斜めに着けると、満足げに一つ頷いた。

 そんな菊緒は、背負った白菊の耳元で「お揃いだ」と囁いたのだった。

 

「行きましょう。祭りの時間だわ」

 

 黒い毛並みのしなやかなしっぽを揺らし、小夜が先導する。庭へ出る縁側から降りて、雪に埋もれかけた木の一本に触れた。

 この木は常世と繋がっている。あやかしたちが頻繁に訪れるため、菊緒が許可して通り道を作ったのだった。

 

 横を通り過ぎると、目の前の空間がぐにゃりと歪む。一瞬だけのそれが終わると、一行は別の場所に立っていた。

 いくつかの小さな家が立ち並ぶそこは、常世の夕景町。菊緒や鈴太郎の暮らす朝日町のすぐ近くにある、あやかしたちの住む町だ。

 大通りに入れば、薄く雪化粧をした町に縁日で見る店が並んでいる。朝陽町の祭りとはまた違った囃子は、どこか神秘的な音で響いていた。

 

「やあ、いらっしゃい。宮守君に、初瀬君は久しぶりだね」

 

 迎えてくれたのは薄氷だ。この町の諸々を取り仕切っている彼は、忙しい様子ながらも楽しそうだ。

 

「すまないね、手が回らなくて。案内は小夜に任せているから、よろしくお願いするよ。楽しんでいってくれたら嬉しいな」

「貴方の手柄みたいな言い方はやめてちょうだい。発案は私でしょう。薄氷なんか放っておきましょう」

「今日も冷たいねぇ。僕も交ざってもいいじゃないか」

「ならば、手が空いた時でいいから来てくれ。薄氷」

「ありがとう、初瀬君。それじゃあ、失礼するよ」

 

 道が混雑しているため、薄氷は翼をはためかせてどこかへと去った。

 

「小夜、あちらにあるのは何の店だ?」

「りんご飴を売ってるのよ。食べてみる?」

「ちょっと待て。交渉人として聞き捨てならないぞ。常世の食べ物は……」

「今日のはどれも大丈夫よ。きちんと確かめてるわ」

「助かる。白菊、りんご飴を買うぞ」

「ハイハイ、わかったよ」

 

 背中の菊緒が指差す店へ歩く。初めて来るのに、妙に懐かしい雰囲気なのは、白菊自身祭りに縁があるからだろう。

 片手で白菊に掴まりつつ、もう片方の手でりんご飴を食べる菊緒の視線は落ち着かない。

 

「射的か。鈴太郎、やってみてくれ」

「何か欲しい景品でもあるのか?」

「いや。どういうものなのか、一度近くで見たいだけだ」

「俺はなかなか得意だぞ。菊緒、見てて驚くなよ」

 

 祭りの雰囲気に浮かれてか、菊緒の柄にもないはしゃぎようがうつってか。鈴太郎も付き合いが良い。普段はどちらかと言えば、菊緒の無茶は止める方なのだが。

 

「ねえ、菊緒。あの風車、どれが一番いいと思う?」

「あれだ。あの、赤に金の花柄の風車が良い。今日の小夜に、よく似合う」

「ありがとう。なんだか逢引き(デート)みたいで、とっても楽しいわね」

「そうか? そうだな。手も繋げなくて、悪いが」

 

 小夜もいつになく楽しそうだった。艶やかな毛並みのしっぽは、ゆったり機嫌良く揺れる。耳はくりんと動いて、体勢が変わっても菊緒の方へと向けられる。

 

「おや、初瀬君たち。たこ焼きなんてどうだい?」

「あら薄氷。それは猫舌の私への、嫌がらせと取っていいのかしら?」

「おっと、そんなつもりはないよ」

 

 半ばじゃれるような言い合いをするふたりは、結局のところ仲は良いのだろう。それを知っているから、菊緒と鈴太郎も放っておく。

 

「ほら、菊緒。熱いから気をつけろ」

「……ん。白菊も食べるか?」

「ああ。って、オレも鈴太郎に食べさせてもらうのかよ……」

「菊緒を背負ってるんだ、諦めろ」

 

 やはり短い間で、薄氷はまた別の場所へと向かった。菊緒たちは引き続き祭りを回る。

 

「こちらの祭りでは、面は売っていないんだな」

「ええ。普段から使うモノも多いから、わざわざ祭りでは買わないのよ」

「オマエには、オレがあるだろ」

「そうだな。俺にとって白菊は、代えがきかない大事な存在だ。もちろん、鈴太郎や小夜たちも」

 

 斜めに着けた狐面に触れ、菊緒は鈴太郎や小夜を順に見遣る。

 

「長い付き合いだが、改めて言われると照れるな」

「嬉しいことを言ってくれるわね、菊緒」

 

 一際大きく、太鼓の音が町に響いた。祭りが終わる合図だ。しかし余韻はそこかしこに残り、冬の空気に漂っていた。

 

 そのまま帰るのが惜しく、一行は小夜の家に立ち寄ることになった。こじんまりとした佇まいは、あの離れを思い出させる。

 

「帰るのは、休んでからでもいいでしょう。菊緒、楽しかったかしら?」

「ああ、楽しかったよ。良い思い出になった」

「それなら良かったわ」

 

 黒猫に姿を変えた小夜は、縁側に腰掛ける菊緒にすりすりと頭をこすりつける。抱き上げると、ぺろりと菊緒の頬を舐めた。

 いつものように膝で丸まる小夜を、菊緒も優しく撫でた。しかしふとその手が止まり、胸元を強く掴む。

 

「う……っ。……小夜」

「気分が悪いの? あのふたり、呼んでくるわね」

 

 以前より早足で、小夜はふたりを連れて戻った。

 

「発作じゃなさそうだが、顔色が悪いな。帰るか。ほら白菊、背負え」

「言われなくてもわかってるっての」


 来た時同様に小夜に道を繋げてもらい、常世を後にした。戻ると、常世より冷たい風が吹き抜けた。

 その風に、菊緒が軽く咳き込む。咳は激しさを増し、しばらくも経たないうちに白菊の背は血で濡れた。

 

「……菊緒?」

「気を失ってる。……やっぱり、今日が最後だった……」

「オイ? 今何て言った? オマエ」

「なんでもない……。菊緒の兄さん、呼ばないとな」

 

 白菊が口を挟む間もなく、事は進んだ。

 夜更けに帰ってきたのは鈴太郎一人で、菊緒の入院が決まったことだけを告げた。

 

「お前に、来ないでほしいって伝えてくれだと」

「なら、そうするよ。アイツのことだから、またいらねェ気回したんだろ」

「もっと怒るか拗ねるかすると思っていたが」

「そこまでガキじゃねェよ。それにアイツ、狐面オレを持っていったろ。……だから、いいんだよ」

 

 あの狐面は、同行した鈴太郎が持っていってくれた。

 

「自分から避けておいて、狐面があるのを見て嬉しそうにしてたがな。それで、お前はこれからどうするんだ?」 

「さァな。とりあえずはココにいるけどな」

「そうか。俺は毎日見舞いに行くから、帰りにここに寄らせてもらうぞ。お前のことを、頼まれているしな」



             *


 

 それから、どのくらい経ったのか。菊緒がいないだけで、日々は淡々と過ぎた。

 一月も経っていないある日。いつも暗くなる頃訪ねて来ていた鈴太郎が、夜明けにやって来た。

 

「白菊。菊緒が……」

「そうだな。もう、ココにもいねェ」

 

 離れていても感じられた、菊緒の願いももうない。見ると、指先がうっすら透けていた。菊緒の願いこそが付喪神としての核であったため、それがなくなれば白菊は存在していられない。

 不意に、鈴太郎が白菊の肩にぼすんと顔を埋めた。

 

「鈴太郎?」

「悪いが、少し貸してくれ……」

「まあ、オマエは菊緒の親友だからな。少しくらいならな」

「……っ、言うな。そういうこと」

 

 肩が熱く濡れる。初めて知った温度だ。菊緒がいなくなっても、新しく知ることはあるのだ。それが新鮮にも、寂しくも思える。

 その熱さは菊緒のものとは違うのに、その涙に誘われる。

 

「……? お前も、泣いてるのか」

「うるせェ。オマエだって……」

「いいんだよ。悲しんでやらないと、あいつも安心して逝けないだろう?」

「アイツ、オレのこと、置いて逝きやがってさ。オレは最期まで、そばにいたかった……ッ」

「まわりのこと想い過ぎて、逆に考えてなかったよな。あれは」

「菊緒の、そんなトコが好きだったよ。オレ……」

 

 泣き崩れる白菊を、今度は鈴太郎が抱きしめる。菊緒と同じ暖かさだった。

 

「これからどうするんだ? 白菊」

 

 ようやくふたりとも落ち着いた頃。白菊は狐面で隠されているが、鈴太郎は一目で泣いたのがわかる顔だ。そんな彼が、先日と同じ問い掛けをする。

 あの時とは違う。このままでは、白菊には時間がない。

 

「わかんねェ。消えねェだろうけど、またしばらく眠るんじゃねェの?」

 

 本来付喪神は、長い時を経た道具に魂が宿ったあやかしだ。菊緒の願いがなくなった今、元に戻る可能性が最も高い。

 

「そうか。前にも言った通り、お前のことは頼まれている。狐面の方も、菊緒の兄さんが保管してくれるらしい」

「ホント、アイツは」

「そうだな。俺以外にも、お前を頼んでいたみたいだ。大切な、あやかしの親友だからと」

 

 菊緒は、色々と白菊のために遺していったらしい。何もかもが、抱えきれないほど大切で愛おしい。

 

「交渉人として、気にかけてやる。これも、あいつが遺したものの一つだ。これからも、背負っていってやるさ」

「鈴太郎らしいよ。……じゃあな、また」

「ああ。また、いつか」

 

 夕暮れ時には、小夜も訪ねて来た。彼女もまた、普通の猫のふりをして入院中の菊緒と会っていたようだ。

 

「居心地の良い場所がなくなったわ。残念ね」

 

 少し強がってのことだろう。猫の姿のままなのは、人型ではより感情が耳やしっぽに表れるからだ。

 

「元々、早い目覚めだったのよ。だから貴方のその選択、間違っていないと思うわ」

 

 猫の姿では、あまり表情がわからない。ただ、しっぽが忙しなくぱたぱた床を叩いていた。

 

「また起きたら、構ってあげてもいいわよ。菊緒に、頼まれたもの」

「小夜。ありがとうな」

「どういたしまして。……おやすみなさい、白菊」

 

 白菊が目覚めるのは、それから数十年後のことだ。

 その日の雪は深く降り積もり、願いも思い出も、すべてを包み込むように眠りに落としたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ