雪と消える願いを夢む
はらりと、本のページを捲る音が黄昏時の静かな部屋の中に溶けて消えた。今日も外は雪が降り止まなかった。雪は景色の色彩だけでなく、音をも覆い尽くしてしまいそうだ。
菊緒はあやかしが来ていない時や、小夜が膝の上にいない時は、本を読んでいることが多いように思える。
菊緒の背に寄りかかり、小振袖に袴姿の女学生風の少女があやとりをしていた。彼女の頭上では時折ぴるんと耳が動き、艶やかな毛並みのしっぽが畳で弧を描いている。小夜だ。
小夜は猫又であり、猫か人の姿に自在に変わることができる。普段は猫の姿で、菊緒の膝で丸まっている。
小夜は、他のあやかしより頻繁にここにいる。夜は来訪を控えさせるなど、菊緒を気遣って他のあやかしを取り仕切っている。白菊も様々なことを小夜から教わった。
「どうして私が菊緒のそばにいるか? それはそこの居心地が良いからよ。それに菊緒みたいに、あやかしが視える上でこういうふうに関わる人間は貴重なのよ」
白菊が尋ねると、小夜はそう答えた。
「フーン」
「ふふ、貴方はまだ知らないわよね。だから覚えておいて。私は、貴方が夕景町に来るのは反対よ」
小夜は妖しげな微笑みを浮かべる。菊緒はちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。あやかしのことに関して、不必要に口を挟まないのは彼らしい。
「私の推測だけれど、貴方はまだ付喪神として完全に目覚めた訳じゃない。今常世に来たところで、苦労するだけだわ」
「オレだって、別に常世に行こうなんて思ってねェよ。それにオレは、菊緒のモンだからな」
「白菊」
ぱたんと本を閉じて、菊緒が白菊の着物の胸元を掴んだ。狐面の奥の、見えないはずの白菊の目をまっすぐに見据える。
「ならばお前は、この先俺がいなくなったら……! ……っ、げほげほ!」
「オイ、菊緒!」
突然咳き込んだ菊緒が、白菊の胸元に倒れかかる。慌てて支えるが、菊緒はぐったりとうずくまった。
「落ち着け、大したことは……な……げほ、ごほごほっ!」
「バカッ、喋るな! 小夜、どうしたら良いんだよ!」
「時間が経てば落ち着くわ。だから安静にさせるしか、私達には出来ない」
「でも、こんなに苦しそうだろ! なのに……ッ」
白菊の腕の中で、菊緒は苦しげな咳を繰り返している。他の人間と比べて華奢な肩が、激しく上下していた。
小夜は何度か、こうして発作を起こす菊緒を見たことがあるのだろう。しかし白菊は、軽いものならともかくこれほどの発作を初めて見た。
小夜のようには、冷静でいられなかった。
「白菊……げほげほ、けほっ。すま、な……ごほ!」
震える手が、白菊の着けている狐面に触れた。いつも通りの仕草だが、いつもと違い冷たさしか伝わってこない。
反対の手は、きつく着物の胸元を掴んでいる。そんな状態なのに、菊緒は白菊を案じるのだ。
「謝ってんじゃねェよ。いいから、大人しくしてろ。頼むから」
「ああ……」
辛うじて返答だけすると、菊緒は気を失うように目を閉じた。
胸が熱かった。そこは、いつも菊緒の想いを感じる場所だ。白菊にとって付喪神としての核であるものが、いつもそこにある。
そこに今、菊緒の感情が流れ込んでいる。様々なものがない交ぜになり、その強さを熱く感じていた。
「なんだよ、コレ……ッ」
「相当強く繋がっているみたいね、貴方達は。菊緒は私に任せて、貴方も休みなさい」
静かに告げ、小夜は菊緒を抱き上げた。彼をそっと布団に横たわらせ、すぐ近くの狐面を指し示す。
「貴方は付喪神で、菊緒によって目覚めた。だから、彼の想いに呼応しているのかしら。ここにいれば落ち着くでしょうから、今は戻りなさい」
「悪ィ。じゃあ菊緒のこと、頼んだ」
後のことを小夜に任せ、白菊は本体である狐面に戻った。
*
冬の夜は、雪の白に明るさを錯覚する。澄み切った夜空で星が瞬く音さえも、雪が吸い込んでしまいそうな夜だ。
白菊が狐面の外に姿を現した時、小夜は布団の中に潜り込んで丸まっていた。眠っているのだろう。菊緒の横で小さな膨らみが、かすかに上下している。
あやかしにとっては夜である時間に、ずっと菊緒に付きっきりだったからだろう。
菊緒も未だ目を覚まさない。時折止まりかける呼吸に、辛そうに眉根を寄せる。
と、その瞳がゆっくりと開いた。そうして、傍らに座る白菊に目を向ける。
「白菊……」
「おう。大丈夫か? オマエ」
「すまない。心配をかけたな」
菊緒は、大丈夫だとは答えなかった。嘘はつかない彼らしい。
「やっと、解ったよ。オマエ『生きたい』んだな」
あの時、白菊を目覚めさせた菊緒の想いが強く呼応したのだった。これまでにない程の強さは、狐面に込められた彼の願いそのものだった。
初めて行った祭りの日の、特別な思い出の象徴であると共に、希望だったのだ。
「そうか、お前には解るのか。……そうだ。あの日祭りに行ったように、普通の人間のように、生きていたいんだ。俺は……」
生まれつき病弱だった菊緒の、それが精一杯の願いなのだ。
「仕事に就いて、働いて。休みの日には、お前たちと過ごしたり、鈴太郎の手伝いをしたり。そういうふうに、生きてみたかった……っ」
透き通った雫がこぼれる。かすかに煌めく涙は、これまで白菊が見た何よりも綺麗だった。綺麗で、それよりも苦しい程に悲しいのは、菊緒の感情が解るからだ。
「嫌だ、死にたくない。お前たちのことをどれだけ信頼していても、遺して逝きたくない。後の世界で、俺も生きたい……!」
遺される者たちのことを想う時、菊緒はいつも真剣だった。だが達観したつもりでも、諦めきれなかったのだ。
「菊緒……」
「嫌だ、俺は嫌だ。生きたいよ、白菊……っ」
上半身を起こし、彼は倒れかかるようにして白菊に抱きついた。そうして声を上げて泣く姿は、幼い子供のようだった。
震える肩を、白菊も抱きしめ返す。白菊には、何の力もない。すがられても、何も出来ない。
それでも、これまで誰にも言えなかった菊緒の本音を、受け止められる。その願いを知っている白菊だけが。
「う……。げほげほっ」
「オイ、大丈夫か!?」
強く、白菊の背中に爪が立てられる。今まで、短い時間で何度も発作が起こることはなかった。
「げほげほ。うぅ……ごほ!」
口元と胸をきつく押さえ、菊緒がくずおれた。
「しっかりしろ、菊緒!」
「し、ら……ぎく。……っぐ。ごほごほ、ごぼっ」
ぼたりと、重たい水音がした。口を押さえる菊緒の指の間から、赤い血が滴っている。ままならない呼吸に、菊緒の顔が苦痛に歪んだ。
「菊緒……ッ!」
初めて、菊緒が長く生きられないと言ったことを実感した。
「ごふ、げほげぼ! かは……っ!」
一際激しい咳と共に、菊緒は大量の血を吐いた。荒い呼吸に、儚い身体は壊れてしまいそうに軋んだ。
「何してるの白菊! 早くお兄さんを呼びなさい!」
「ッ!」
いつの間にか菊緒の背をさする小夜の鋭い声に、白菊は反射的に駆け出す。
母屋への短い雪道を素足で駆け抜け、中へと入る。真夜中だったらしく、誰も起きていない。おかげで白菊の、けして静かではない足音が騒ぎ立てられることもなかった。
片っ端から確かめ、ようやく菊緒の兄の部屋を探し当てる。
「オイ! アニキ、起きろ!」
「その声、白菊君?」
「そうだよッ。菊緒が発作起こしてるんだ、オレらじゃもうどうしようもねェんだよ! 早く来い!」
「わかった、すぐに行くよ!」
なりふり構わず窓から飛び出し、菊緒の部屋の縁側へ戻る。他のあやかしのように力を持っていないことを、もどかしく感じた。
状況は変わるどころか、悪化していた。
菊緒はあの後さらに血を吐いたらしく、彼の口元だけでなく小夜の着物まで赤く汚れている。
「小夜、菊緒はッ!?」
「まだ、治まらないの」
冷静な小夜らしくなく、黒い猫耳がくたりと下がっていた。金色の瞳も、珍しく潤んでいる。
積み上げた布団にもたれかかり、菊緒は苦しげに息を継ぎながら咳き込んでいた。
玄関の扉を、荒く開く音が響いた。先程の白菊に劣らず慌てた足音は、勢いよく襖を開けて入ってきた菊緒の兄だ。
「白菊君! あ、黒猫さんもついててくれたんだ。……菊緒」
静かに呼び掛けながら、彼は菊緒の胸を撫でる。浅く速く上下するそこを、そっと労る。
「お医者さんに連絡がついたから。すぐに来るよ。だから君たちは、ちょっと隠れててもらえるかな」
「兄、さ……。白……菊は」
朦朧とする瞳の菊緒は、意識を失いかけている。辛うじて紡がれた言葉も、咳にかき消された。だが彷徨うように、片手が狐面へと伸ばされる。
それだけの仕草で、理解したとばかりに兄が頷く。届かなかった距離の分、面を菊緒の手に置いた。
「わかった。この面は近くに置いておくから」
ふ、と吐息だけで微笑んで、菊緒は気を失った。
*
菊緒がひどい発作を起こしてから、数日が過ぎた。雪は深く降り積もって、まわりからこの離れを閉ざす。
あやかしたちも、以前程は訪ねて来ない。小夜が控えるよう強く止めたからだ。
だが、さらに動けなくなった菊緒は不満げだ。外の話を聞くのを何よりの楽しみにしていた分、物足りなさを感じているのだろう。
玄関の扉が開く音がした。わかりやすく、菊緒が目を輝かせる。あれ以来、白菊に対して表情も素直になった。
やって来たのは小夜と鈴太郎だった。変わった組み合わせのふたりだ。
今日の小夜は女学生風の人の姿で、色とりどりの花が咲き乱れる振袖が愛らしい。いつもは洋装の鈴太郎も、和服姿だった。
「少し遅れたが、あけましておめでとう。菊緒」
「初詣は難しいでしょうけれど、夕景町の方で祭りがあるの。誘いに来たわよ」
「本当か。それならば行くぞ。すぐに支度をしよう」
菊緒は鈴太郎に支えられ、ふらりと立ち上がる。ゆっくりとだが、慣れた手順で外出用の着物に着替えた。
「って、待てよ。オマエこの前も倒れたばっかだろ。それに、なんでオマエも止めねェんだよッ」
事の早さに呆気に取られていたが、菊緒と鈴太郎に食って掛かる。二人の幼馴染みは、こんな時にだけそっくりな表情で白菊を見遣る。
「小夜に言い負かされた。だがまあ、たまには悪くない」
「なんかあったらどうすんだよッ」
「あのな、お前。俺が何年、菊緒と幼馴染みやってきたと思う。はしゃいだこいつがぶっ倒れるのを介抱するなんて、もう慣れっこなんだよ」
鈴太郎の妙な説得力に、引き下がらざるを得なかった。駄目元だが、矛先を菊緒に向けてみる。
「どうやって行くつもりだよ。オマエ、もう自力じゃそんな歩けねェのに……」
「そうだな。だから背負ってくれ」
「ハア!?」
「な、頼む白菊。一生に一度の頼みだ。俺は、お前とも祭りに行きたい」
上目遣いで、袖を控えめに握られる。
確かに、菊緒の『一生に一度の頼み』は重い。これを逃せば、次の機会などないのではないかと思わせる雰囲気を、彼は纏っている。
「……この、バカ」
「ああ。俺は、お前との思い出まで欲しくなったんだ。なあ、お前はどうだ? 白菊」
菊緒にとって、特別なものである祭りの思い出を、白菊とも残したいと望んでくれた。
そもそも寿命の違う人とあやかし。残されるのは、いつもあやかしの方だ。しかも菊緒は、普通の人間よりずっと短い命だ。せめて思い出だけでも欲しいのは、白菊の方だった。
そして白菊は、菊緒の願いから目覚めた付喪神。それを叶えられない以上、頼みくらいは聞いてやりたい。
答えの代わりに手を伸ばす。これ以上ないほど嬉しそうに、菊緒が微笑んだ。その柔らかな微笑みに思わず見とれる。
同時に優しいものが流れ込んで、胸が暖かくなった。
「話は着いたわね? さあ、行くわよ」
「小夜、少し待ってくれ」
小夜を止め、菊緒は狐面に手を伸ばす。それを斜めに着けると、満足げに一つ頷いた。
そんな菊緒は、背負った白菊の耳元で「お揃いだ」と囁いたのだった。
「行きましょう。祭りの時間だわ」
黒い毛並みのしなやかなしっぽを揺らし、小夜が先導する。庭へ出る縁側から降りて、雪に埋もれかけた木の一本に触れた。
この木は常世と繋がっている。あやかしたちが頻繁に訪れるため、菊緒が許可して通り道を作ったのだった。
横を通り過ぎると、目の前の空間がぐにゃりと歪む。一瞬だけのそれが終わると、一行は別の場所に立っていた。
いくつかの小さな家が立ち並ぶそこは、常世の夕景町。菊緒や鈴太郎の暮らす朝日町のすぐ近くにある、あやかしたちの住む町だ。
大通りに入れば、薄く雪化粧をした町に縁日で見る店が並んでいる。朝陽町の祭りとはまた違った囃子は、どこか神秘的な音で響いていた。
「やあ、いらっしゃい。宮守君に、初瀬君は久しぶりだね」
迎えてくれたのは薄氷だ。この町の諸々を取り仕切っている彼は、忙しい様子ながらも楽しそうだ。
「すまないね、手が回らなくて。案内は小夜に任せているから、よろしくお願いするよ。楽しんでいってくれたら嬉しいな」
「貴方の手柄みたいな言い方はやめてちょうだい。発案は私でしょう。薄氷なんか放っておきましょう」
「今日も冷たいねぇ。僕も交ざってもいいじゃないか」
「ならば、手が空いた時でいいから来てくれ。薄氷」
「ありがとう、初瀬君。それじゃあ、失礼するよ」
道が混雑しているため、薄氷は翼をはためかせてどこかへと去った。
「小夜、あちらにあるのは何の店だ?」
「りんご飴を売ってるのよ。食べてみる?」
「ちょっと待て。交渉人として聞き捨てならないぞ。常世の食べ物は……」
「今日のはどれも大丈夫よ。きちんと確かめてるわ」
「助かる。白菊、りんご飴を買うぞ」
「ハイハイ、わかったよ」
背中の菊緒が指差す店へ歩く。初めて来るのに、妙に懐かしい雰囲気なのは、白菊自身祭りに縁があるからだろう。
片手で白菊に掴まりつつ、もう片方の手でりんご飴を食べる菊緒の視線は落ち着かない。
「射的か。鈴太郎、やってみてくれ」
「何か欲しい景品でもあるのか?」
「いや。どういうものなのか、一度近くで見たいだけだ」
「俺はなかなか得意だぞ。菊緒、見てて驚くなよ」
祭りの雰囲気に浮かれてか、菊緒の柄にもないはしゃぎようがうつってか。鈴太郎も付き合いが良い。普段はどちらかと言えば、菊緒の無茶は止める方なのだが。
「ねえ、菊緒。あの風車、どれが一番いいと思う?」
「あれだ。あの、赤に金の花柄の風車が良い。今日の小夜に、よく似合う」
「ありがとう。なんだか逢引きみたいで、とっても楽しいわね」
「そうか? そうだな。手も繋げなくて、悪いが」
小夜もいつになく楽しそうだった。艶やかな毛並みのしっぽは、ゆったり機嫌良く揺れる。耳はくりんと動いて、体勢が変わっても菊緒の方へと向けられる。
「おや、初瀬君たち。たこ焼きなんてどうだい?」
「あら薄氷。それは猫舌の私への、嫌がらせと取っていいのかしら?」
「おっと、そんなつもりはないよ」
半ばじゃれるような言い合いをするふたりは、結局のところ仲は良いのだろう。それを知っているから、菊緒と鈴太郎も放っておく。
「ほら、菊緒。熱いから気をつけろ」
「……ん。白菊も食べるか?」
「ああ。って、オレも鈴太郎に食べさせてもらうのかよ……」
「菊緒を背負ってるんだ、諦めろ」
やはり短い間で、薄氷はまた別の場所へと向かった。菊緒たちは引き続き祭りを回る。
「こちらの祭りでは、面は売っていないんだな」
「ええ。普段から使うモノも多いから、わざわざ祭りでは買わないのよ」
「オマエには、オレがあるだろ」
「そうだな。俺にとって白菊は、代えがきかない大事な存在だ。もちろん、鈴太郎や小夜たちも」
斜めに着けた狐面に触れ、菊緒は鈴太郎や小夜を順に見遣る。
「長い付き合いだが、改めて言われると照れるな」
「嬉しいことを言ってくれるわね、菊緒」
一際大きく、太鼓の音が町に響いた。祭りが終わる合図だ。しかし余韻はそこかしこに残り、冬の空気に漂っていた。
そのまま帰るのが惜しく、一行は小夜の家に立ち寄ることになった。こじんまりとした佇まいは、あの離れを思い出させる。
「帰るのは、休んでからでもいいでしょう。菊緒、楽しかったかしら?」
「ああ、楽しかったよ。良い思い出になった」
「それなら良かったわ」
黒猫に姿を変えた小夜は、縁側に腰掛ける菊緒にすりすりと頭をこすりつける。抱き上げると、ぺろりと菊緒の頬を舐めた。
いつものように膝で丸まる小夜を、菊緒も優しく撫でた。しかしふとその手が止まり、胸元を強く掴む。
「う……っ。……小夜」
「気分が悪いの? あのふたり、呼んでくるわね」
以前より早足で、小夜はふたりを連れて戻った。
「発作じゃなさそうだが、顔色が悪いな。帰るか。ほら白菊、背負え」
「言われなくてもわかってるっての」
来た時同様に小夜に道を繋げてもらい、常世を後にした。戻ると、常世より冷たい風が吹き抜けた。
その風に、菊緒が軽く咳き込む。咳は激しさを増し、しばらくも経たないうちに白菊の背は血で濡れた。
「……菊緒?」
「気を失ってる。……やっぱり、今日が最後だった……」
「オイ? 今何て言った? オマエ」
「なんでもない……。菊緒の兄さん、呼ばないとな」
白菊が口を挟む間もなく、事は進んだ。
夜更けに帰ってきたのは鈴太郎一人で、菊緒の入院が決まったことだけを告げた。
「お前に、来ないでほしいって伝えてくれだと」
「なら、そうするよ。アイツのことだから、またいらねェ気回したんだろ」
「もっと怒るか拗ねるかすると思っていたが」
「そこまでガキじゃねェよ。それにアイツ、狐面を持っていったろ。……だから、いいんだよ」
あの狐面は、同行した鈴太郎が持っていってくれた。
「自分から避けておいて、狐面があるのを見て嬉しそうにしてたがな。それで、お前はこれからどうするんだ?」
「さァな。とりあえずはココにいるけどな」
「そうか。俺は毎日見舞いに行くから、帰りにここに寄らせてもらうぞ。お前のことを、頼まれているしな」
*
それから、どのくらい経ったのか。菊緒がいないだけで、日々は淡々と過ぎた。
一月も経っていないある日。いつも暗くなる頃訪ねて来ていた鈴太郎が、夜明けにやって来た。
「白菊。菊緒が……」
「そうだな。もう、ココにもいねェ」
離れていても感じられた、菊緒の願いももうない。見ると、指先がうっすら透けていた。菊緒の願いこそが付喪神としての核であったため、それがなくなれば白菊は存在していられない。
不意に、鈴太郎が白菊の肩にぼすんと顔を埋めた。
「鈴太郎?」
「悪いが、少し貸してくれ……」
「まあ、オマエは菊緒の親友だからな。少しくらいならな」
「……っ、言うな。そういうこと」
肩が熱く濡れる。初めて知った温度だ。菊緒がいなくなっても、新しく知ることはあるのだ。それが新鮮にも、寂しくも思える。
その熱さは菊緒のものとは違うのに、その涙に誘われる。
「……? お前も、泣いてるのか」
「うるせェ。オマエだって……」
「いいんだよ。悲しんでやらないと、あいつも安心して逝けないだろう?」
「アイツ、オレのこと、置いて逝きやがってさ。オレは最期まで、そばにいたかった……ッ」
「まわりのこと想い過ぎて、逆に考えてなかったよな。あれは」
「菊緒の、そんなトコが好きだったよ。オレ……」
泣き崩れる白菊を、今度は鈴太郎が抱きしめる。菊緒と同じ暖かさだった。
「これからどうするんだ? 白菊」
ようやくふたりとも落ち着いた頃。白菊は狐面で隠されているが、鈴太郎は一目で泣いたのがわかる顔だ。そんな彼が、先日と同じ問い掛けをする。
あの時とは違う。このままでは、白菊には時間がない。
「わかんねェ。消えねェだろうけど、またしばらく眠るんじゃねェの?」
本来付喪神は、長い時を経た道具に魂が宿ったあやかしだ。菊緒の願いがなくなった今、元に戻る可能性が最も高い。
「そうか。前にも言った通り、お前のことは頼まれている。狐面の方も、菊緒の兄さんが保管してくれるらしい」
「ホント、アイツは」
「そうだな。俺以外にも、お前を頼んでいたみたいだ。大切な、あやかしの親友だからと」
菊緒は、色々と白菊のために遺していったらしい。何もかもが、抱えきれないほど大切で愛おしい。
「交渉人として、気にかけてやる。これも、あいつが遺したものの一つだ。これからも、背負っていってやるさ」
「鈴太郎らしいよ。……じゃあな、また」
「ああ。また、いつか」
夕暮れ時には、小夜も訪ねて来た。彼女もまた、普通の猫のふりをして入院中の菊緒と会っていたようだ。
「居心地の良い場所がなくなったわ。残念ね」
少し強がってのことだろう。猫の姿のままなのは、人型ではより感情が耳やしっぽに表れるからだ。
「元々、早い目覚めだったのよ。だから貴方のその選択、間違っていないと思うわ」
猫の姿では、あまり表情がわからない。ただ、しっぽが忙しなくぱたぱた床を叩いていた。
「また起きたら、構ってあげてもいいわよ。菊緒に、頼まれたもの」
「小夜。ありがとうな」
「どういたしまして。……おやすみなさい、白菊」
白菊が目覚めるのは、それから数十年後のことだ。
その日の雪は深く降り積もり、願いも思い出も、すべてを包み込むように眠りに落としたのだった。