雪に潜めるその色は
雪がちらついている。はらはら舞い降りて、何もかもを隠してしまうかのようだ。だがその雪は積もることはなく、地に落ちたそばから溶けている。
初めて目にしたのは、そんな風景だった。
とある一室から、同じようにそれを眺めているのは、黒猫を膝の上に乗せた和装の青年だ。時折背を撫でる青年の手つきが心地よいらしく、黒猫はゆったりしっぽを揺らす。
そんな猫の耳が片方、ふるんと動いた。それに気付いて、青年がこちらに目を向ける。
「いるのか、誰か」
疑問形ではない言い方だった。だからだろう、警戒を少し解いたのは。だが様子を窺うために沈黙を決め込む。
「小夜、わかるか?」
「ええ。この気配、付喪神ね」
先程まで機嫌良く喉を鳴らしていた猫が、青年の確認に人の言葉で答える。小夜と呼ばれたこの猫は、猫又なのだ。
彼の膝から降りた黒猫は、傍らの机にある狐面に鼻を近付けた。白い顔に、朱色の模様が入った狐面だ。
「ここね。ずいぶん未熟だから、気配はとても弱いけれど」
「そうか。……おい、お前。姿は現せるか」
どうやら青年は、人間ではない存在に慣れているらしい。ごく自然に、あやかしに呼び掛けた。
それに応えるようにして、付喪神は姿を現した。顔こそ狐面で隠されているが、年格好は目の前にいる青年に近い。姿を持っていなかったために、青年のものを写したのだ。
「名はあるか?」
突然現れたあやかしにも動じず、彼は淡々と問い掛ける。まるで普通の人間に相対しているかのように。そんなところに、興味を惹かれた。
「……ねェよ」
「そうか。では呼び名が必要だな」
「相変わらず、あやかしに優しいのね。菊緒」
小夜が青年――菊緒の元へ戻り、するりとすり寄る。金色の瞳が妖しげに輝いた。
「それほどでもない。お前、何か希望はあるか?」
「好きにしろよ」
「ふ。目覚めたばかりのくせに、それだけの口がきけるなら上等か」
「あら。私には、ただ何もわからない不安を隠しているようにしか見えないのだけれど」
「違いない」
図星をさされて目を背ける。微妙な角度の違いで、狐面は不満げな表情を見せた。面で顔が隠れていても、表情までは隠せないらしい。
しかし、からかう調子の風変わりな青年と猫又は、付喪神を馬鹿にすることはなかった。
「白菊、というのはどうだ? 冬の始めに目覚めたことを、覚えていられるように」
あやかしは人間とは違い、永い時を生きる。菊緒は、自然にあやかしに寄り添った考え方をしてみせた。
「その狐面の付喪神なのだろう。居場所がないのならば、俺の元にいると良い。なあ、白菊」
静かに雪の降る昼下がり。凛とした顔立ちの青年は、目覚めたばかりの付喪神に、いとも容易く手を伸べた。冷たい冬の空気の中、白菊はその手をとったのだった。
*
あれから一週間。初瀬 菊緒の元へは、多くのあやかしが訪れるらしい。小夜だけではなく、日常的に出入りしているモノもいる。
菊緒のそばにいると、興味を持たれて構われる。それもあってか、あやかしとしての暮らし方や人間のことも少しずつ覚えつつあった。
だからこそ一つ、引っ掛かりを覚えることがある。菊緒の近くに、人がいることが極端に少ないのだ。
いつもの問い掛けの延長で、白菊はそれを尋ねた。
「病を患っている者に近付きたがる者など、そういないだろう」
「フーン。そういうモンか?」
「そういうものだ」
幼子にするように、菊緒に頭を撫でられた。彼の手つきは優しく、そばは居心地が良い。そんな彼だからこそ、あやかしに慕われているのだろう。
菊緒の膝の中で猫が鳴く。冬の雪景色に映える黒い毛並みの美しい猫は、自分も撫でろと催促する。こうした独占欲を覗かせたり、時にはあやかしや人間のことを教えてくれたりと、小夜は気まぐれだ。
「初瀬君、お邪魔するよ」
障子越しに、縁側から声がした。どうやら客人のようだ。
「薄氷か。まあ上がれ」
今朝訪ねて来たのは、和装の烏天狗だった。彼はこの町にほど近い山にある、あやかしの町の元締めをしている。その関係で頻繁に町に来るが、ついでとばかりに菊緒の家も訪ねるのだった。
「あら薄氷、貴方も来たのね。雪はちゃんとはたき落としてちょうだいね。あと、寒いから早く閉めなさい」
「小夜……、冷たいのは空気だけにしてくれないかい。あ、初瀬君、これ手土産だから」
「ああ、ありがたく頂こう」
薄氷が差し出す手土産を受け取るのは白菊だ。確かに、菊緒はあまり動かない。いや、大人しくする他ないのだろう。膝に小夜が居座っていることもあるだろうが。
「それで、白菊君はまだしばらくはここにいるのかい? こちらの町にはいつ移っても良いし、僕のことも頼ってくれて構わないけれど」
「薄氷、悪いがそれは断らせてもらう。この面と白菊は、今は俺のものだからな」
「あ。オイ、菊緒……」
白菊は裾を掴まれ、本体である狐面は菊緒の胸元に抱え込まれた。彼は、面をいつも手の届く場所に置いている。よほど気に入っているらしい。
「初瀬君のものとあっては、僕も無遠慮に手出ししないから、安心してほしいな」
「おい、薄氷!」
さらに別の声が割り込んでくる。こちらは菊緒の暮らす家屋――ここは離れで、ごく近くには母屋があるのだ――の玄関からだ。
廊下から荒っぽい足音が響く。断りの言葉がない辺り、菊緒と親しい間柄の誰かなのだろう。すぱんと高い音をたてて、襖が開いた。
「俺は置いていくなと何度言った! まったく、自分ばかり先に向かって……。すまんな、菊緒。邪魔をする」
室内に入ってきた菊緒と同じ二十歳の青年は、宮守 鈴太郎。洋装姿も精悍な彼は、菊緒と幼馴染みなのだ。
「いいところに来たな、鈴太郎。最近は何があった? あやかしとの交渉人の仕事はどうだ?」
鈴太郎は、人とあやかしとが共存するこの地域における、人間側の代表のような立場だ。もっとも、あやかしが視えないほとんどの人間はそれを知らない。
白菊も知る数少ない人間であり、菊緒の親友だ。似たところのほとんどない彼らだが、互いに気は合うらしく鈴太郎もよくここに立ち寄る。
「わかった、話すから落ち着け」
「単に退屈していたからではないぞ。お前に、交渉人の役割を押し付けたのは俺だ。だから……!」
珍しく必死な様子で語尾を荒げた菊緒は立ち上がりかけ、ぐらりと体勢を崩す。鈴太郎が難なく受け止めたが、軽く呼吸を乱した菊緒は、それだけで力尽きたように座り込んだ。
「大丈夫か?」
「ああ……。ただの、立ち眩みだ」
「菊緒。俺は、押し付けられたなんて思っていない。確かに、お前の『一生に一度の頼み』は重いけどな。だから、あまり責任を背負い込んだりしなくていい」
「性格上、難しいな。気がかりなんだ」
それでも頑なな菊緒に、鈴太郎は解っているとばかりに苦笑を返した。
鈴太郎に、あやかしとの交渉人であることを頼み込んだのは菊緒だ。
時折騒ぎを起こすあやかしに対し、人間側の意見も取り入れるべきと提言したのは菊緒だったが、彼自身はその役割を担えなかった。代わりに白羽の矢が立ったのが鈴太郎で、彼の人望とあやかしへの理解を最も信頼していた菊緒が頭を下げたのだった。
無報酬の、誰にも認められない役割だ。その重荷を背負わせたことを、菊緒は気に病んでいるのだろう。
「なら、なんでオマエじゃなかったんだ?」
「ああ、俺は身体が弱いからな。交渉人は付き合いが大事だから、長く続けられた方が良い。鈴太郎ならば、それが出来る」
菊緒が傍らに置いた狐面に触れる。白菊が顔に着けているものとは別の、本体であるそれから伝わる感覚はこの姿で感じるものとはまた違う。
「ソレ、オマエは長く生きられねェってコトかよ?」
「そうなるな」
「……ッ、他人事みてえに言ってんじゃねェよ! バーカッ!」
捨て台詞を残し、本体の中へ篭る。外部からの声が聞こえるのが、居心地悪くも安堵する。菊緒の手が、宥めるように触れているのも。
「俺は、何か間違えたか?」
「言い方をな。俺たちならともかく、こいつは何も知らなかったんだろう? だったら、あれほど淡々と言われれば気に障る」
「そうなのか」
「元々、付喪神のような器物のあやかしは人に近いのよ。あの子が菊緒を好ましいと思い始めていたのなら、きっと嫌だったのね」
「そうか。……悪かったな、白菊。謝るから、機嫌を直してはくれないか」
菊緒の体温はいつも低めだ。それなのに、触れられた箇所から暖かさが伝わってくる。だが、そこですんなり出ていくには、意地を張り過ぎていた。
皆が帰ってようやく姿を現した白菊に、菊緒は嬉しそうに顔を綻ばせた。それにつられるように、白菊も狐面の奥から笑顔を返したのだった。
*
今日は、夕刻のほんの短い時間だけ菊緒を訪ねる者がいた。
もうすっかり陽の暮れた冬の夕暮れ。わずかな光を、雪の白さが反射してほの明るい。
控えめな音で玄関の扉が叩かれる。あやかしは玄関を使わない。鈴太郎はもっとはっきりした音をたてる。
この時間、生活する時間が違うのを気遣ってかあやかしは来ない。菊緒の他に誰もいない中、警戒を滲ませながら白菊は扉を開けた。
「えーっと、もしかして菊緒の友達が誰かいるのかな。ごめんね、僕は視えないんだ」
白菊から微妙にずれた場所を見て、その人は困ったように笑った。
「寒いから、中に入ったらどうだ。兄さん」
「ああ、うん。じゃあお邪魔するよ、菊緒」
この離れはほとんどの部屋が使われておらず、冷えきった空気が漂っている。菊緒のいる一室だけがいつも暖かい。
「また新しいお友達が出来たんだね。今度はどんなあやかしなの?」
「付喪神だ、あの狐面の。白菊、と呼んでいる」
「名付けはまた菊緒なんだね。あの黒猫の子もそうなんだっけ」
菊緒の兄だというその人は、菊緒がするあやかしの話を否定しない。それは珍しいことなのだと、小夜たちから聞いて白菊も知っている。
「よろしくね、白菊君。僕は菊緒みたいに視れないけど、声と気配ならわかるから」
「……ああ、ヨロシク」
視えない割にだいたいの場所が合っているのは、そんな理由かららしい。
顔も表情も菊緒と似ていない彼は、雰囲気だけはそっくりに白菊に笑顔を向けた。
「狐面、今年の秋のお祭りの時に買った物だね。珍しく菊緒が食い下がって、初めて行って」
「ああ。何もかも見たことがないものばかりで、とても楽しかった。形に残る物をと、この狐面を選んだら兄さんが買ってくれたんだったな」
愛おしそうに、菊緒が狐面を撫でる。丁寧な手つきで輪郭をなぞるように触れられたそこは、いつもと違う感覚がした。
「だから、白菊。俺は、お前が大切なんだ」
「……ああ。忘れねェよ、ずっと」
付喪神を形作るのは、何よりも持ち主の想いだ。そこに込められた願いによって目覚めた白菊には、それがよく解る。
持ち主である菊緒が触れるたび、そこから伝わってくる感情が白菊の胸を満たすのだ。
「兄さん。俺がいなくなったら、白菊を頼む」
「わかったよ、約束する」
「いつも聞いてもらうばかりで悪いな」
「構わないよ、僕は菊緒の兄なんだから。君は昔からずっといい子だった。そのくらいのわがまま、可愛いものだよ」
頭を撫でる仕草が、菊緒とよく似ていた。見た目は似ていなくとも、この二人は確かに兄弟なのだと感じさせる。
「さて、あんまり長居しちゃ悪いね。僕はもう帰るよ」
「ああ。じゃあな、兄さん」
「うん。白菊君、途中まででいいから送ってくれるかな」
名指しされ、立ち去る菊緒の兄に白菊はついていく。廊下に出た途端、空気は冷たく冴え渡っていた。
「白菊君。菊緒のこと、よろしく頼むよ」
「ソレは、どういう意味で言ってんだ?」
「どちらも。病気のことで何かあれば、僕に報せてほしい。でもあやかしのことは、僕じゃ何も出来ないから。守ってほしいんだよ」
出会って数時間と経たない白菊に、彼がそう頼む理由とは何か。これまで共に過ごしてきた菊緒ならともかく、彼にそう言わせる理由が何なのかわからなかった。
それを察したように、菊緒の兄は続きを紡いだ。菊緒とよく似た、凜とした表情で。
「僕が兄だからね、弟を守りたいんだよ。それが僕にとって兄としての責任で、当然のことだから」
「なら、なんでオレなんだ?」
「僕は菊緒のそばにはいられない。けれど君なら……菊緒にとって、特別な日の思い出の象徴である狐面の付喪神の君なら、信じても良いかなって思ったんだ」
玄関の扉の向こうで、彼は微笑む。雪の止んだ空は夕日に赤く燃え上がり、積もった雪さえもが橙に染まっていた。