乙女ゲームの世界で前世の記憶が戻ったけどもう本編が終わっているも同然だった悪役令嬢の話。
「 」
体がだるい。瞼が重い。思考がはっきりしない。誰かが何か言っているけれど今の私には理解できない。
「 」
また声が聞こえて、肩を叩かれた。
「朝ですよ」
ようやく何を言っているのか理解できた。どうやら私を起こそうとしているらしい。私としてもこの状態は嫌だから起こしてほしい。
「起きてください。あーさーでーすーよー!」
今度は体を揺すられた。それでも私は起きることができない。
「まさか昨日の頭痛が……?」
頭痛? とりあえず今は痛くないよ。
「ホークメス先生を呼んできます」
誰かが去っていって、しばらくしてから戻ってきた。話し声で人が増えているのがわかった。
「ウィンダーティスさーん」
新しく来た人に名前を呼ばれた。もう少し。もう少しで起きられる気がする。
「マリーヌ・ウィンダーティスさーん」
フルネームで呼ばれて、体のだるさ、瞼の重さがなくなった。頭のもやもやが消え去った。
目を開けると、寮の保健室の先生が私を見下ろしていた。
「……助かりました……」
私の言葉に先生は不思議そうな顔をした。
「私、目が覚めてはいたんですけど、だるくてだるくてどうしようもなかったんです。それが先生に名前を呼ばれて一気に良くなったんです」
「まあ、それは不思議……。でも良かったわ。もう頭痛はない?」
「はい」
私は昨日ずっと頭が痛かった。だから薬をもらって早めに寝た。そうしたら今朝なかなか起きられなかったというわけだ。
先生は私に今日は念のためにゆっくり休むように言うと、部屋を出ていった。
「朝食はどうしましょう? 持ってきましょうか?」
ベッドのそばにいた子に声をかけられた。彼女はレニア・ネイシェリス。私と彼女は同じ部屋で生活している。友達……だと思う。
「食堂に行くわ。もう悪いところはないもの」
着替えた私はレニアさんと共に寮の食堂に移動した。女子寮なので女子しかいない。私に気付いて何人かの生徒が近付いてくる。
今日は休日でここにいる人たちはほとんど全員私服だ。髪の色も様々なので、食堂内はカラフルだ。
私はほぼ無意識にとある人を探し、見つけた途端、いろいろなことを思い出した。そして、重大なあることに気が付いた。
「あ……!」
体から力が抜ける。手と足を床につく。
「どうしました?」
「どこかお悪いの?」
レニアさんや知人たちが心配してくれてるけど、今はそれどころじゃない。
「なんてこと……!」
ああなんてこと。なんてこった!
私、悪役令嬢に転生しちゃってたよ!
私がたった今思い出したのは前世の記憶。気付いたことは、今生きている世界が、前世で遊んだとある乙女ゲームにそっくりだということと、私がそのゲームの悪役の立場にいるということ。
私は、主人公をいじめるキャラ。貴族のお嬢様で、取り巻き付き。超ウザい。もう一人のウザいやつであるセンデートの方は人気投票で票貰ってたけどマリーヌは……私、前世で何か悪いことしたかな……。
「マリーヌさん」
名前を呼ばれて、回想の世界から現実に引き戻された。顔を上げると、レニアさんと目が合った。彼女は屈んでいて、本当に心配そうな表情で私を見ていた。
「部屋に戻りますか?」
「いいえ。大変なことを思い出してしまってショックを受けただけ」
心配してくれたことにお礼を言い、立ち上がって配膳口へ向かう。そこで朝食をもらって、ほぼ専用と化している席に座る。ゲームのことは考えない。考えたら手が止まって食事が進まない気がするから。
食事を終えて部屋に戻った私はベッドにうつ伏せになってみた。倒れ込むような形でやったのでレニアさんに余計な心配をさせてしまった。
思い出したこと、気が付いたことについて考える。
私が食堂で見つけたのはメルア・クイントという生徒だ。彼女がゲームの主人公に当たる。
彼女はとある事件により魔石というものを体内に取り込んでしまった。魔石は宿主に膨大な力を与えるもので、戦場では一人でも不利な戦況をひっくり返すことも可能になるという。そんな力を持った彼女を国や軍が放っておくはずがない。大人たちは彼女に良い教育を受けさせるためにこの学校に転入させた。
そんな彼女が気にくわなくていじめてきたのが私。しかも取り巻き同伴で。
魔石がある以外はただの田舎娘のくせして、学校の有名人とばかり仲良くしている(ように見える)彼女を生意気、身の程知らずだと思って嫌味を言いまくったり悪い噂を流してみたり。最近ではバケツで水をかけるとか物理的にどうにかしようとしていた。そう、しようとしていたのであって、実際にはできていない。あっさりかわされて、図書館の本が濡れたらどうしてくれる、と睨まれた。
ゲームではこれから行動がエスカレートしていき、誰かに見られて咎められた時に「気が付かなかったの、ごめんなさいね」とか何とか言って誤魔化すこともできないようなことをする。高い所から主人公を突き落とそうとするとか悪人に主人公を襲わせるとか。そういう悪事は失敗する上にバレて、マリーヌはお先真っ暗となる。
「思い出して良かったー……」
戻れないとしても踏み止まることはできる。と思いたい。
今っていつ頃なんだろう。六章のあたりかな……って、もしかして、もう終わった?
クイントさんの元に魔石はないと聞いているし、本人もそれを認めた。なぜ魔石がなくなったかは軍事機密らしく私は知らない。なくなったことを知ることができたのは、魔石の有無によってクイントさんの魔力に大きな違いが出て、隠しようがないからだろう。
魔石が主人公を離れるということは、何らかの形でゲームが終わる前触れと言っていい。クイントさんから魔石がなくなったのは、もう一ヶ月も前のことだ。ゲーム内の時間経過を細かく覚えているわけではないけど、一ヶ月あればストーリーは終了しているはず。
だとしたらどのエンディングを迎えたんだろう。この学校にいる四人の攻略対象たちは普通に生活しているので、彼らが関わるバッドエンドを迎えたということはなさそうだ。そもそもバッドエンドなんてものにあのクイントさんは到達しない気がする。クイントさんならストーリーのショートカットくらいやってのけてその上であっさりハッピーエンドを迎えても不思議じゃない。
ゲームの主人公とクイントさんは、見た目以外はだいぶ違う。特に違うのは戦闘における強さで、主人公があっさり負けるところでクイントさんは勝利を収めることが多々ある。彼女がこの学校に転入してきた翌日にあった武術の授業でもそうだったらしい。その授業はゲームでは主人公がそんなに強くないことを示す場面だった。魔石があってもうまく利用できなければ、本当に強い人には苦戦するのだとわかる。
主人公は武術の成績が学年で二番目に良い生徒と試合をして負け、それが原因でセンデートに絡まれるようになる。でもクイントさんは勝った。私は見たわけじゃないから詳しいことはわからないけど、勝って血を吐いたのは確からしい。勝ったからセンデートはクイントさんに文句を付けることも執拗に絡むこともなく、“ただの隣のクラスの人”となっているようだ。実際、私は二人が話しているところを見たことがない。ちなみに“武術の成績が学年で二番目にいい生徒”は攻略対象の一人だ。
魔石がなくなって弱くなるかと思えばそうでもなかった。ある状態に比べれば弱いのは確かだけど、それでも運動能力には優れている。バケツの水をよけるだけじゃなくて、武術の二位と良い勝負をするし、一昨日なんかバカみたいに強い学年一位にして学校一位にして攻略対象その一に勝ったし、先週は校舎の二階の窓から平然と飛び降りて何事もなかったかのように立ち去った。
クイントさんは恋愛アドベンチャーの主人公より恋愛はおまけなRPGの主人公憧れの先輩キャラとかその辺の方が合っているかもしれない。他の人はみんなゲームのとおりなのに、どうして彼女は……ああ、もしかして彼女も私と同じなのか。彼女にも、前世の記憶があるのかもしれない。私と違って早いうちに思い出し、自分の将来を考え、強くなることにしたのかもしれない。
クイントさんがハッピーエンドを迎えているということは、彼女には恋人がいる可能性が非常に高いということ。恋人に学校での嫌なことを話すのは自然なことで、実際、ゲーム中ではどのルートでも主人公の恋人はマリーヌの悪事を知っている。クイントさんの恋人なら当然彼女の味方ということで、つまり私のことを敵と認定する。
恋人が校内の四人の誰かである場合、私かなりやばい。彼らはどの人も学校の有名人兼人気者で他の生徒への影響力がすごい。私がまだ超やばいことをしていなくても、彼らの影響で多くの人の私への評価はすでに超低くなっていてもおかしくない。
恋人が校内にいなくても、恋人自体がいないとしても安心はできない。相談とか愚痴を言うことは恋人同士だからするものじゃない。お互い何とも思っていなくてもする時はする。相談に乗ってくれたから恋に落ちるルートもある。クイントさん、四人のうち同学年の二人と結構仲がいいから、恋人がいようがいなかろうがあの二人にとって私はすっかり良くないものになっているかもしれない。でも攻略対象たちはまだ私と会話してくれてるから、セーフ……いや、いろいろやっちゃった時点でセーフはない。救いようのないアウトでないだけで……救いようのないアウトだったらどうしよう。どうしようもない。
ともかく謝りにいかなきゃ。
私は体を起こした。
「ねえレニアさん。クイントさんは今、お部屋にいるかしら」
「え? さあ、どうでしょうか」
「とりあえず行ってくるわ。私、クイントさんにいろいろと謝らなければならないもの」
レニアさんは目を見開き、しかも「えっ」とまで言った。
「驚いて当然よね。とにかく、行ってくるわ」
「はあ……。体調は良いのですか?」
「大丈夫よ」
「そうですか。行ってらっしゃいませ」
残念なことにクイントさんは部屋にいなかった。部屋が近い生徒が言うには、朝食を済ませて早々に友人と一緒に出かけたらしい。たぶんしばらくは帰ってこない。
さて、どうしよう。私も出かけてみようか。……あ、そういえばホークメス先生に今日は念のため休むように言われているんだった。でも別に体調は悪くないし、学校の敷地内の散歩くらいならいいだろう。
私は、男女の寮の共有スペースである前庭へ向かった。
ただ花壇があるだけの場所だけど、花壇に咲く花は珍しいもので、条件が揃えば幻想的な光景が見られる。もちろん乙女ゲームだからそんな光景を背景に……ふふ、ふふふふふふ……。
「一人でいるなんて珍しいね」
うぎゃあ!
花壇の前に屈んで何年かぶりに乙女ゲーム的な萌えに浸っていたら、声をかけられて驚いた。悲鳴は出さずに済んだけど、肩がかなり、ビクッ、ってなったのが自分でわかった。
立って振り返ると、知り合いの三年生二人がいた。攻略対象その二と、その友達だ。
「あ、ああ。ヴァル先輩、ディーズ先輩。おはようございます」
私が挨拶をすると二人はそれぞれ挨拶を返してきた。
ヴァル先輩は、隣国のベステル王国から留学してきている生徒だ。金髪で青い瞳の彼は、フルネームをヴァルニード・ベステルといって、隣国の王子様。性格は“軽くていろんな女の子と仲良くするけど好きになったら一途”という感じで、実に乙女ゲーム的な人物だ。女子生徒からの人気がとても高いことは言うまでもない。
ディーズ先輩はヴァル先輩の護衛として一緒にこの国にやってきた。ヴァル先輩の友達でもある。茶髪の彼はヴァル先輩に比べれば見た目の華やかさには欠けるけど、それでもやっぱり乙女ゲームに出てくるキャラなので十分かっこいいと言える。彼も攻略してみたかった。
「こんな朝っぱらから黄昏てたのかな」
いえ、萌えてました。
私にしては珍しい姿勢でしかも一人だったから黄昏てるように思えたのかもしれない。
「ええ。衝撃を受けることがありまして」
「メルアちゃんが何かやった?」
「あの人は何もやってません」
「違うの? そろそろ君たちも諦める頃だと思ったんだけど」
さらっと日頃の行いに注意が入った。
「……そのことでしたらご心配なく。私はもうやめますから」
「え……それはいいことだけど」
ヴァル先輩が戸惑ったように言った。ディーズ先輩は何も言わないけど、彼も少しは驚いたようだ。
「今日は謝ろうと思ったのですが、あの人はご友人と出かけてしまいました」
「そ、そう」
「ええ」
「……」
「……」
沈黙の間、私はヴァル先輩に関することを次々と思い出した。彼はヒロインを後ろから抱き締めたり、ヒロインに自分は髪の毛を切ったほうがいいか聞いたり、モブ生徒に刺されたり、ヒロインに焼き餅焼かせたりする。
「……どうしてか、聞いてもいい?」
「先程も言いましたが、衝撃を受けることがあったのです。それが何かは言いません」
「そう……」
魔術というかなり不思議なものがある世界でも、ここでは生まれ変わりということは信じられていないに等しい。だから言う気にはなれない。
「……オレたちも出かけるところだったんだ。じゃあね」
「はい、お気をつけて」
先輩二人を見送った私は再び萌えに浸ろうとしたけれど少しの間しかできなかった。ゲームの内容と一緒に前世が持った感情を思い出したせいなのか、ゲームに限らない前世の記憶が頭の中を占めるようになった。初回限定版を買ったこと、大学進学にあたって初めて引っ越しをしたこと、お父さんの方のおばあちゃんの卵焼きは甘いけれどお母さんの方のおばあちゃんはしょっぱく作ること、友達が家族旅行のお土産にくれたお菓子の味、雨の日の下校中に車に水をかけられたこと、いつかに駅で見かけた不良集団、定期券の値段……。
前世でさえ忘れていたことも思い出しているのかもしれない。思い出すことばかりしていて今のことをあまり考えられない。もし話しかけられてもすぐには返答できない気がする。
きっとこれは外にいない方がいい。今日はもう部屋でおとなしくしていることにした。
翌日はすっと起きることができた。しかもいつもより早い時間だった。
今の時間ならクイントさんが寮の裏で一人で鍛錬をしているはずだ。
私はレニアさんを起こさないようにそっと動いて、置き手紙をして部屋を出た。
大量に思い出すことは昨日の夕方に止まっている。それに思い出したことを一晩でかなり忘れたように感じる。前世が忘れたどうでもいいことをもう一度忘れたのかもしれない。
クイントさんは思ったとおりの場所で思ったとおりのことをしていた。
名前を呼ぶと彼女は手を止めて私を見た。敵意は感じないけど警戒されているのはわかる。
まずは謝る。その後、彼女の機嫌が悪くないようなら質問させてもらおうと思う。
「今までごめんなさい!」
私はがばっと頭を下げた。
「どうしたの、急に」
クイントさんの感情のわからない声が聞こえた。誰かの声に似ているな、と私はぼんやり思った。
「その、人として大切なことを思い出して。今まで本当にごめんなさい」
「……そう。いいよ」
私はあっさりと許された。……え、これでいいわけ? あっさりしすぎじゃない?
「……いいの?」
ゆっくり、そーっと頭を上げて聞いてみた。クイントさんの顔には私が読み取れる感情はなかった。
「あなたは私に対して何ができた?」
「何ができたって……」
「何もできてない。その程度だった」
なんて辛辣な言葉。でも確かにそうだ。ひたすら私が愚かなだけだったわ。
「用はそれだけ?」
「ううん。もう一つあるの。あなた、転生者なの?」
「……どういう意味?」
クイントさんは怪訝そうな顔をして聞いてきた。演技だろうか。それとも、本当に意味がわからない?
「誰かの生まれ変わりかと聞いてるの?」
「そうだけど」
「私は、みんな誰かの生まれ変わりだって思ってる。人生第一号の人もいるかもしれないけど」
ええと、これは? 私の質問が悪かったかな、うん。
「そうじゃなくて……前世の記憶、ある?」
クイントさんの表情は変わらない。でも返事がやや遅かった。
「……そう聞くのは、あなたがそうだから?」
また質問に質問で返してきた。まずはこちらから告白した方がいいようだ。
「昨日、思い出しました」
「その記憶に、マリーヌ・ウィンダーティスはいる?」
わかった。
クイントさんは、あのゲームのことを知っている。
なぜなら、普通は転生後を知らないものだから。だけどクイントさんは前世の記憶に私の存在があるかと聞いてきた。それは、私が前世でマリーヌ・ウィンダーティスを知る機会があった、と何らかの理由で彼女が考えているからだ。
「いる。あなたもいる」
「そう」
クイントさんは呟き、目を閉じた。そして、
「私の前世は日本人だった」
しっかりとそう言った。
ああ、やっぱり。やっぱりそうなんだ。
「あなたも、みどつきのファンだったの?」
目を開けたクイントさんに質問してみると、彼女は、こてん、と首を傾げた。かわいい。仕草がかわいい。顔もいいから余計かわいい。私に対してこんな風にするのは初めてだ。
「……みどつき……? み、ど……みど、り、みどり……つき……緑……ああ、そういえばタイトル略すとそんなだったかな」
「うん」
「今まで全然思い出せなかった。――前世はそうだね、ファンだったよ」
クイントさんは小さな笑みを浮かべながら懐かしそうに言った。
「遊んだ乙女ゲームの中で一番好きだった。まあ五つしかやってないんだけど」
私はいくつだったっけ。
そう考えたら、パッケージが並べられた棚が頭に浮かんだ。十五作以上はやったのかな……? ええ? そんなにやった? 他のジャンルのも一緒に並べてたはずだから違うか。
クイントさんの表情が硬めのものに戻った。
「私からも質問がある」
「何?」
「あなたはマリーヌ? それとも、前の人?」
「……?」
何を言われたのかよくわからない。前の人って、何のこと?
「いつもと雰囲気違うし、話し方も違う。前世のこと思い出して態度が変わったというよりは、マリーヌと前世の人が入れ替わったように思える」
…………ああ、そういうこと。
そうか、そういうことか。
私は前世では日本人で、生まれ変わって、生まれ変わったから……何だろう。生まれ変わったから、何だっていうの。
そうだよ、そうよ、こんなの私じゃないわ。
……私じゃない? そんなことないよ。大事なことを思い出して、態度を改めようと思っただけよ。
おかしいわ、思考がまとまらない。自分が誰なのかあやふやだ。なんだか足下もしっかりしてないような気がしてきた。
「……具合悪い?」
目の前の美少女がそう聞いてきて、
「あなたは誰?」
無意識のうちに自分の口からそんな言葉が出ていた。
彼女は、また質問に質問で返してきた。
「私がメルアか前世の日本人かと聞いてるの?」
頷く私に、彼女ははっきりと答えた。
「前世のことは他人だと思ってる」
「でもあなたはメルアじゃない」
「私はメルアだよ。ゲームの主人公とは違うのは確かだけど」
「そう……」
彼女のことはわかった。いや、あんまりわかってないけど、わかった気がする。
そんなことより問題は私だ。
自分が誰なのかちゃんとわからないなんて。
「私って、誰なのかしら」
「部屋に戻ってから考えた方がいいんじゃない? 送るよ」
クイントさんが私の手を握った。こういうことをしてくるあたり“心優しい主人公”の面も彼女にはあるようだ。ひどい扱いをするならいざという時に助けてあげない、と言っていたのに。それとも今は“いざ”ではないのかしら。
「送ってくれなくて結構よ。一人で戻れるわ」
「そう。じゃあ私はまだここにいるから」
素振りを再開したクイントさんに私は背を向けた。
ふと気が付くと、私は寮の自室で勉強机にスケッチブックを広げていた。
どうして私、こんなことを。そもそもこのスケッチブックはどこから……ああそうだ、絵を描きたくなって買ってきたんだった。
クイントさんと別れた後、私は宣言したとおり一人で部屋に戻った。その時にはレニアさんが起きていて、クイントさんに謝れたのかと尋ねられた。私は謝ることに成功したことだけを伝えて、その後にいつものように二人で寮の食堂へ向かった。
食堂では昨日のように、というかいつものように寄ってくる人たちがいたけれど、体調が優れないからと言ってほとんど会話はしなかった。本当は体調は悪くなかった。頭の中がごちゃごちゃしていたから良いとは言い切れなかったけれど、問題はなかった。拒否したのは、あの人たちと話す気分になれなかったから。取り巻きはいらないと思った。この時は前世の気持ちが強かったのかもしれない。
学校の授業が始まる時間になっても自分についての認識があやふやだったけれど、授業を受けることに支障はなかった。自分のことについて考えていたら授業についていけなくなってしまうとふと思ったら、頭の中のごちゃごちゃしたものが隅に寄せられたように感じた。今も前も、授業に真面目に出席することは変わらないから、授業中は自分が誰かなんて関係なかった。とにかく私は授業に集中できていた。
昼休みには朝話さなかった人たちと、何でもないことを少し話した。将来のことを考えると、彼女たちとの付き合いを断ってしまうのは良くない。ただ、接し方を少し変えようと思った。昼休みから午後の授業が終わるまでは前世より現世が強かったんだと思う。
授業が全部終わった後は、よく思い出せない。ただ、何かがあって「絵を描きたい」と思った。
さて何の絵を描こうか。
そう思った途端、前世の記憶が頭の中をかけめぐった。そういえば二次元の男性を描くことが多かった。描いたものをネットで公開することも多かった。
とりあえず、現代――マリーヌ的には未来の異国――が舞台の作品に出てきた人を描いてみる。真面目で学ランをきっちり着てるいいやつだった。ヒロインを抱き締めるシーンは最高だった。
軽く丸を描いて十字に線を引いて、顔の形を描いて、それから髪の毛を……あら? 前髪ってどうなってたかな。目にかかってはいなかったはずだけれど……こう? なんか違う。この人は違う……この人じゃない誰かなら……。
ああ! そうだ、そうだ。思い出した。
授業が終わって廊下を歩いていたら、クイントさんが友人三人と一緒にいるのを見かけた。三人のうち一人は女子で、クイントさんの一番の友人であるテルロミルさん。あとの二人はどちらもゲームの攻略対象だった。
武術の授業の成績がそれぞれ一位と二位となっている攻略対象二人がヒロインに笑顔を向けているのを、いや、“ヒロインに向けられている攻略対象たちの笑顔”を見た私は「描きたい!」と強く強く思った。
すぐに家、じゃなかった寮に戻って描こうと思った。だけど自分の部屋に絵を描くためのものが無いことに気が付いてスケッチブックを買いに街に出た。
今なんとなく描いた前髪は、クイントさんと一緒にいた攻略対象のものに近い。だから授業後に何があったのか思い出せたのだと思う。
そういえば四人を見る直前に誰かに声をかけられたような気がする。無視するような形になってしまったかもしれない。気のせいだといいな。
予定を変更して、攻略対象その三を描くことにする。前世の記憶だけが頼りの人より、今の記憶も参考にできる人の方が描きやすい。
目と口と鼻を描いて、首もなんとなく描いて、陰影を足してみた。……うん、我ながらなかなかの出来。だけど何か足りない。ええと……わかった、耳だ。耳が見える髪型だ、あの人は。
耳を足した後、顔だけだとどうにもつまらないと思って全身に挑戦してみたら、全然うまくいかなくて途中で嫌になった。前世ではデッサン人形と睨めっこしてやっとそれなりに見えていたのだから、参考にできるものがない今は下手っぴなのは当然といえば当然だ。……いいえ、参考にできるものは存在する。
私は後ろを向いて、反対側の壁際に置かれた机で勉強中の彼女の名前を呼ぶ。
「レニアさん」
「はい?」
「絵のモデルになってくれない?」
「いいですけど……」
と言いつつ少し嫌そうだ。勉強をしたいのだろう。
「普通に勉強しててくれればいいわ」
「それで良いのですか?」
「ええ。隣で観察させてもらうから落ち着かないかもしれないけれど」
「そうですか。では、どうぞ」
レニアさんに許可をもらったので私は椅子を移動させた。
真剣な表情で問題を解くレニアさんを参考にして絵を描いていく。
はー、イケメン描くのもいいけど髪の毛長いかわいい子描くのも楽しいなー!
描いて描いてときどき消して描いて、元に戻せないことをたまに不便に思いながらまた描いて……みんなに見せてもいいかなと思える絵が描けた。
レニアさんに見せてみる。
「どうかな」
「まあ……マリーヌさんにこんな特技が。服のしわまで描いてあって。髪の毛にボリュームがあって……」
レニアさんはスケッチブックを両手で持ってしげしげと絵を見ている。
「よく見る作風とはだいぶ違いますけれど、多くの人が『上手』と言うのではないですか」
いい評価をもらった。お世辞かもしれないけれど。
「そう? ありがとう。これ、自分でもうまくいったと思ったから嬉しいな。とっても久しぶりにこういう絵を描いたんだけど、楽しかったわ。レニアさんの髪は長くて波打っていて描き甲斐があるわ」
「ふふ。マリーヌさん、生き生きしてますね。――あら、そろそろ夕食の時間ですね。行きましょう」
「ええ」
「食事を始める前に言っておきます」
いつもの席に着いたいつもの人たちが、何事だ、と私に注目した。
「今後、クイントさんにあれこれするのはやめます」
私の宣言への反応はどれも同じようなものだった。
「え」
「はい?」
「えっ」
「はあ」
「は?」
レニアさん以外のお嬢様たちの呆気にとられた顔が見放題だ。レニアさんは特に反応せずに私の前の席で黙々と食事を進めている。マリーヌと一緒に食事をとったり雑談したりするけれど、レニアさんは取り巻きの一人として数えられる人ではない。彼女は、私のクイントさんへの考えはもう知っているし、クイントさんをどうこうすることには興味がないから、周りと全然違う行動に出るのは当然のことだった。
なぜですか、と質問が来たから私は答える。
「私たちはやりすぎました。これ以上は危険です。見咎められて、停学、退学で済めばまだいい方と言えるような事態になりかねません。それに、そろそろあの人が反撃してきてもおかしくありません。おとなしい人ではありますが、気弱ではないことは皆さんも知っていますね」
「……少し言いにくいですが、月の剣のような人だと……」
私の隣の隣の前に座る人がぼそぼそ言った。
“月の剣”というのはある有名な剣のことで、前世でいた世界の草薙剣とかエクスカリバーみたいに、神話とか伝説を知らなくても名前は聞いたことがあるという人が多くいそうな剣だ。びっくりするぐらい鋭くて切れ味が良くて丈夫でついでに美しいとされている。ゲームに出てきた。形は西洋の剣だけど日本刀のような印象のある剣だった。主人公と攻略対象一と三と七はあれを持つとかなり強い。七なんか無双した。二と六もいい感じになりそうだけど彼らは持たなかった。四と五は戦力アップはできてもあんまり活かせないと思う。
月の剣発言に近くの二人が頷いた。表には出さなくても心の中で同意した人もいるだろう。
「良い例えだと思います」
未来で、剣の擬人化ものが世に出た場合、女性の月の剣はクイントさんみたいなキャラになっているかもしれない。
「ならば反撃された時にどうなるかは、詳しくは想像できなくても、わかりますね」
「再起不能も十分あり得そうですね……」
レニアさんの右にいる人が難しい顔をして答えると、その隣の人が深刻な表情で頷いた。それから小声で言った。
「正直、最近は彼女の交友関係や身分を気にするより、彼女の平常でない顔が見たいがために意地になってやっているところはありました」
正直な発言に、自分もそうだと言う人が複数いた。
「……そういうわけですので、私は、過ちと負けを認めました。クイントさんには今朝謝罪しました。皆さんにも謝らなければなりません。巻き込んでごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」
私は頭を下げた。
今後は舐められるかしら、とぼんやり思ったけど、お先真っ暗に比べたらどうでもよかったので食事を始めたらすぐに忘れた。
朝になっても私の中身の問題は何も解決しなかった。
二十三年と十七年というそこそこある記憶がごちゃごちゃとあるのだから、一日で自然と解決するはずなんてないか。
もしかしてずっとこのままなんだろうかともちょろっと思った。いじめっ子でウザいマリーヌでなくなるのなら、それもいいかもしれない。
深く考えてみるのは後にして、レニアさんと部屋を出て食堂へ向かう。
階段で一階まで下がって、廊下を少し進んだところで呼ばれたから足を止めて振り返った。あら? 私に用がありそうな人はいないわ。
どうしたのかとレニアさんに聞かれた。
「今、呼ばれたような気がして」
「私には聞こえませんでした。マリーヌさん、噂されることも多いでしょうから、声をかけられたように聞こえることもあるのではないですか?」
「そうね、そういうこともあるでしょうね」
本当に呼ばれていれば、近寄ってくるなり手を振るなりする人がいるはずだし。
食堂に入ると今日もまた寄ってくる人たちがいた。すぐに明らかに変わるものはないようだった。彼女たちとの会話の内容は、天気とかの誰が話しても同じようなことを言うものにしておいた。
昨日と同じように一日を過ごし、寮に戻った時に庭の花壇を見たら描きたくなった。
寮の部屋でお絵描き道具を手に取って、早歩きで前庭に戻った。着ているものが汚れることには構わないで地面に座って花壇と向き合う。
花壇に植えてあるものはまだ花が咲いていない。見頃は年末、この辺りの初雪よりやや遅いくらいの時期だ。ゲームのとおりなら今年はちょっと早めに咲く。
花がなくても今の私には描きたいと思えるものだった。今日だけと言わず、描き続けて観察記録みたいにしてもいいなと思った。
植物を描く練習をしたくもあった。これは植物に限らず風景ほぼ全部に当てはまることだけれど、前世ではペイントソフトに搭載のブラシや配布されている素材に頼ることがほとんどだった。今はそういうことができないのでよくよく練習してしっかり描けるようにしなければいけない。そうじゃないと人の絵を描いて物足りなくなった時につまらないままになってしまう。
……こうして考えるのはマリーヌでない気がする。いいえ、そんなことはない。マリーヌだってお母様の影響で花は好き。上手に描けるようになれば嬉しい。
――不安なんでしょう?
不安……でいいのかな。この気持ち。試験前とかに感じるものとは違うもやもや感なんだけど……まあ不安と言えば不安か。
――自分が誰なのかわからない。
そりゃ不安にもなるってものよ。お先真っ暗でなければずいぶんいいのは確かだけれど、自分のことがはっきりしないまま過ごしていく未来なんて想像が難しすぎるもの。
「ほんと、誰なのかしら、私」
……って、あれ? 今の、頭に疑問が浮かんで独り言を言ったのとは違う気がする。私は誰に答えたの?
――あなたはわたくしのかわいいマリーヌではないの?
え、お母様? ここにいるの? どこ?
「お母さ……」
呼びかけようとしてやめた。今のは私のお母さんの声じゃない。……は? そんなことはないって、何考えてんの私。私のお母様の声でしょうに。
……ああ、こうして自分の母が誰かも定まらないのを理解すると、本当に自分があやふやなのだとよーくわかるね。
――私は誰?
――私は何者?
――私はこれからどうしたらいい?
――ところで私、本当にギリギリで踏み留まれたの?
――私たちと彼女以外の人だって知ってるじゃない。もうこれってアウトなんじゃないの?
――私がもうマリーヌじゃないとしてもこの体は間違いなくマリーヌが今まで使ってきたもの。この体でいる限りもうだめってことじゃない? この体でなくなるには、もう
何かがするりと私の中に入ってきた。
立ち上がる。魔術で、右の手の上に魔力の塊と言えるものを出してみる。黒い。
「あっ……」
誰かの声が聞こえてそちらを見ると、女子生徒が目を見開いていた。
ちょうどいい。
「きゃあああ!」
悲鳴を上げながらもその女子生徒は魔術による障壁でこちらの攻撃を防いだ。ちょっと意外だった。
周囲の生徒たちがこちらを見るのに構わず、同じように三度攻撃してみたらどれも防がれた。半泣きだというのになかなかやる。ああイライラする。防いだこともあの顔も甲高い悲鳴もとことんこちらを不愉快にさせる。
次は威力を強めて黒い球を飛ばそうとしてみたら、背中に衝撃を受けて前に倒れた。何なんだ。立ち上がりつつ振り返ると、厳しい顔をした男子生徒がいた。
赤い髪に青い瞳。良く言えば活発、悪く言えば運動バカな印象を受ける少年。彼は攻略対象その一、カデル・バティア。魔術はだめなくせに戦闘では強い。本当に強い。でも。
「当てる甲斐がありそう」
「あ? 強気だな、お前」
さっき何をされたかわからないけど、全然痛くなかった。
黒い球をいくつも用意して次々と飛ばす。カデルはそれを簡単そうによけ、蹴りを放ってきた。回避が遅れて体が少し浮いたけどどうってことなかった。距離を取る。
カデルがさらに表情を険しくして剣を抜いた。校舎に剣は持っていかないから、寮の部屋にいて騒ぎに気付いて剣を持って飛び出してきたのだろう。そういう邪魔なやつだ。
飛ばすものを今度は細長くする。槍とでも表現しようか。こっちの方が速く飛びそうな気がした。
カデルは黒い槍をかわし、時には剣を振って消し去った。ただの剣なのによくやる。脳筋め。
近付いてきたカデルに剣で右肩を叩かれた。痛かったからびっくりして、魔術を中断してしまった。うっかり指をどこかにぶつけてしまったのと似たような痛さだった。ムカつく。
「む」
思った程のダメージを与えられなかったとわかったのかカデルが一旦下がった。彼が表情だけでなく雰囲気まで鋭くしたから、こちらももっと力を出すことにした。
カデルは普段からよく鍛えてあるから強かった。槍から弾丸にしようともこちらの攻撃は彼にはちっとも当たらず、何度か殴られたし蹴られた。地面に倒れることもあった。でもそんなに痛くなかったから苦もなく立てたし元気だった。
「だー! もう! しぶといっ!」
頭にガツンとやられた。今のは特別痛かった。本当に、ただの剣でよくここまで。ああ忌々しい。
「まだ起きてくるのかよー!」
嫌そうにそう叫んだカデルに、
「カデルくん、“光”がなきゃだめだよ!」
離れた位置から戦い方を教えてあげる人がいた。クイントさんの親友であるテルロミルさんだ。余計なことを……!
「無理!」
「カデルくん優しいから大丈夫!」
「いやいやいやオレの魔術の成績知ってるだろ!? メルアー!」
カデルがヒーローとしてはやや情けない声を出して友人の名前を呼んだ。返事はすぐにあった。
「一旦下がって頑張って“光”出して! 私が優勢でも何があっても止めないで! わかった!?」
「わかった!」
カデルが大きく跳んで後退して、剣に少しずつ、本当に少しずつ淡い光をまとわせていく。代わりに前に出てきたクイントさんはというと、こちらの攻撃をよけたり剣で斬って散らしたりして着実に近付いてくる。彼女の剣は青白い光に包まれている。
当たらない。このままでは逆にこちらが一発くらいそうだ。避けよう。まあもしくらったとしてもあの“光”では大ダメージとはならないだろうし、反撃は容易だろう。
クイントさんが地面を強く蹴って――私は後ろからやられた。体から力が抜けていく。
目が覚めたら私はずいぶんと殺風景で妙な所にいた。
体を起こしたら「おはよう」と、静かな声が聞こえた。
私が寝かされていたのは固いベッドで、置いてあるのはこれとランプくらい。床も天井も壁も石がむき出し。扉の代わりに鉄の柵。
ここは牢屋だ。毛布がわりと綺麗で暖かいのが救い。
妙な、と表現したのは牢屋の内側にうっすらと緑っぽい膜がかかっているように見えるからだ。っていうか実際に何かある。
柵の向こうにはクイントさんがいる。彼女が何を考えているかは今日もわからないけれど、怒ってはいないと思っても良さそう。
「ここは……」
「大教会の地下だよ」
「……そう……ここが噂の……」
“闇”というものに憑かれた人を浄化して反省させる場所。だから緑っぽいものは、浄化のための結界なんだろう。
「噂の、か。今はマリーヌなのかな」
「え?……ああ、そういえば……」
ゲームに出てくるわ、ここ。
「少し、違うように思えるけど」
鮮明に憶えているわけではないけど、ゲームで主人公視点で見たものと何かが違う。広さかな? それとも絵で見たのと自分の目で直接見た違いかしら。
「私とあの人が入ったのは特別用だから」
「そうなのね。ところで、あなたはどうしてここにいるの?」
「付き添い。ここに閉じこめられるのって結構つらいからね。そばに知ってる人がいればいくらかましかと思って。それが私ってのもどうかと思うけど」
「ありがとう。嬉しい。あなたがいい。事情を知ってるあなたが」
どうしてこうなってしまったのか話すべきか黙っているべきか考えなくて済むから。
「そう。どういたしまして。――起きたって司教さんたちに伝えてくる。すぐ戻るから」
クイントさんは走っていった。
ここには私の他には誰もいないんだろうか。いないか。“闇”に憑かれることは珍しいことだし。
クイントさんは宣言したとおりにすぐに戻ってきた。司教二人と一緒だった。
司教の若い方が私を牢屋の出入り口まで呼び寄せるとじいっと見つめてきた。そして優しく言った。
「“闇”は無くなったようですね。ですがまた憑かれてしまいそうです」
「そうですか……そうでしょうね。暴れただけではどうしようもないことを抱えてしまいました」
「その自覚があるのは良いことです。とりあえずご飯にしましょうね」
食事をもらった後、私は同じ司教に自分の話をすることになった。そうしないと、ここにまた戻ってきてしまうから。
司教様と二人きりになって、床に座って牢屋と結界越しに彼と向き合う。
自分が誰か定まっていないのに思っていることを整理するのは難しい。だから思いついたまま喋る。
「私は、自分が誰だかわからないのです」
「? なくしてしまった記憶があるのですか?」
「記憶がありすぎるのです。いわゆる前世の記憶というものです。信じられないでしょうね。信じなくてもいいです。私が記憶をねつ造したと思っていてもいいです。とにかく私の中には十七年と少しの分と、二十三年分くらいの記憶があります。一昨日……いえ、日付変わったのでその前ですか、急に二十三年分の方の記憶が溢れかえったのです。その結果、私の、マリーヌ・ウィンダーティスの言動と周囲への態度は変わりました。そうしたらある人に言われました。記憶が戻って変わったというより前世のものになったように思える、と。
正直言って、マリーヌの性格は全然良くありません。高飛車でいじめっ子で、それも主犯格のいじめっ子で、嫌われるものです。ですけど前世のことを思い出したので自分は悪いことをしたと思って謝らないといけないと考えるようになりました。でも本当は反省していなくて、前世が今の自分だめでしょ、と考えているのではないかと思うのです。
そしてですね、母の名前はミザリーナというのですが、それを違うと考える自分がいます。この髪の色はお母様譲りです。前世は金髪ではなく黒髪でした。前世の母も黒でした。それなのにこの髪を見ていてさえあの人は母親でないなんて考えるのです。でもすぐに何を言っているのかと自分に突っ込みが入ります。その突っ込みは正しいと感じますし、間違っているとも感じます。そういう感じで、私は自分が誰なのかわからないんです。
時間が経てばごちゃごちゃすることもなくなるかと思いましたけどまだだめです」
司教様は私が話すのをやめた後もしばらくは黙っていた。真剣な表情で、私の言ったことをまとめて、何を言うべきか考えているようだった。
「あなたは知人にマリーヌさんではないと思われたのですよね」
「はい」
「けれどあなたは自分をマリーヌさんだと思った。そうしたらすぐにその考えを否定する自分がいた。そうですね?」
「はい」
「自分が定まらなくて、不安になったから憑かれてしまったのですか?」
「付け入る隙になったと思います。直接の原因はちょっと違います。さっき言ったとおり、マリーヌはいじめっ子でした。気にくわない人を物理的にどうにかしようとしました。それを学校の先生は知らないかもしれませんけど、生徒の間では結構知られているのではないかと……いえ、知られています。何をどうやったかは知らなくても、少なくとも嫌がらせをしていることは知れ渡っているはずです。だからもう、マリーヌが反省しても、前世がマリーヌが反省したことにしても手遅れなんじゃないかと思いました。中身が何でもこの体で生きている限り私に明るい将来は無いと思いました。それで、もう、死んで全くの別人としてやり直すしかないという声が聞こえ……いえ、そういう考えが浮かんだ時に憑かれました」
そういえば、学校と寮の廊下で呼ばれたような気がしたけど、もしかしてあれって“闇”が喋ってたのかな。
「自分が誰かはっきりわかっていても、先への不安で憑かれていたかもしれないということですね」
「はい」
またしばらくの沈黙があった。ただ黙っていると私について考えてさらにごちゃごちゃしていくから、床や司教さんの服を見つめて、これをカラーの絵にする時はどうやって塗るのがいいかを考えるようにした。
「あなたは」
司教様が喋ったから私は顔を上げた。彼は相変わらず真剣だった。“闇”に憑かれる人を減らそうと頑張っているのだとなんとなくわかった。
「どちらかわかればそれでいいのですか?」
「はい。このもやもやから脱却できるのなら、どちらでもいい、です……?」
本当に? え、あれ? 何でこんな疑問が?
「えっと、あの、混ざっているからしっかり定めたい、というのが正しい、ような」
「では言いましょう。あなたはマリーヌさんではありません」
……え? どうしてこの人こんなにはっきり言えるの? マリーヌがどういう人間か知っている家族やレニアさんならともかく。
「あなたのお名前は?」
「杏奈です」
びっくりした。自分の名前を尋ねられて、何も引っかかることなくするりと前世での名前が出てきた。どうして、私はマリーヌなのに。
「何で、私が杏奈だと言えるんですか?」
「それはですね、マリーヌさんの知人の言葉が正しいと思った私の勘です。私の勘はよく当たります」
「えっ」
よく当たるからってそんなもので言い切らないでほしい。
「それと、あなたが、自分はマリーヌではないと思っているような話し方をしたからです」
え、そうだったかな。
「私にはそう聞こえました。反省した人にしてはずいぶん淡々と自分の性格の話をしていましたよ。どちらかわからないから客観的に話しているのではなく、よく知る他人のこととして話していました」
「そうですか……それは、気付きませんでし、た……」
この人は、たぶんたくさんの人の相談に乗っている。つまりその分の人が話すのを聞いている。だから、私が他人のこととしてマリーヌの話をしていたというこの人の判断は、きっと正しい。
「どうですか、すっきりしましたか?」
「いえ、それが、全然……」
「まだ否定する自分がいる?」
「はい……」
……あ。ああ、否定する自分がいる……。
「はい、そうです、そうなんです。杏奈がそれを否定しています。マリーヌもですけど」
「なぜアンナさんが?」
「それは……だめなことだと思ってるからです。もう死んでるんですよ。早死にとはいえとうに退場した大人が、いくら悪ガキでも更生の余地ある十七の少女の思考を潰して成り代わるとかどんな厄介な亡霊ですか!」
気が付いたら叫んでいた。喋った内容は間違いなく杏奈の考えだった。
……杏奈ではだめだとわかっているのに、マリーヌが奥に引っ込んでいる。自分のものより多い記憶に押されたマリーヌをちゃんと表に出す方法はどうやるものかよくわからないけれど、せめて私がマリーヌであることを心がけることは難しいことじゃない。それなのに、どっちだろうなんて考えてることにして杏奈がマリーヌの体を動かしていたのは……。
司教さんは私をしっかり見て、優しい声と表情で言う。
「アンナさんは、自分が死んでしまったことをよくよくわかっているのですね。記憶は二十三年分でしたか。それしか生きられなかったのですね。だから、生きたかったのですね」
「はい。生きたかったんです。通り魔に刺されて、ああもう休めるなんて思ってあっさり死んで幽霊になって祟ってやるとも考えないで生まれ変わりましたけど、仕事で疲れて頭がどうにかなってただけで、もっともっと生きたかったんです!」
悔しくて悔しくて涙が出てきた。
ああ、ごめんねマリーヌ。私は自分の体じゃもう泣けないの。私の体はもう無いの。どうなったか見た記憶ないけど、ほぼ百パーセントもう骨になって骨壺に入れられてて、おじいちゃんおばあちゃんと一緒のお墓の中なんだよ。でも泣きたいの。だから、あなたの体使わせてね。自分勝手でごめんね。
仕方ないわ、忘れていたとは言っても続きだもの。
私はしばらくの間泣いた。遮るものがあってもすぐそばで他人が見ているのに思いっきり泣いた。
大泣きして、ちょっとすっきりしたけど、何も解決していない。他人の体で知り合いがいなくても生きることを諦められないし、おとなしく退場しなきゃとも思う。それを司教さんに相談したら、
「決めにくいのでしたら、私が決めましょう」
と言われた。人を導くのが仕事だろうけど、他人の人生の決定までするとか何それとびっくりした。でも今は頼ってみたくなった。一人で考えていてもどうにも進展しないから、誰かいい人に従うのがいいと思った。マリーヌが司教の言葉に耳を傾けるのも、死んだ人間が聞いたかどうかも憶えていない僧侶の言葉の代わりに司教の言うこと聞くのも、別に変じゃないでしょ。
「お願いします」
「まずは質問します。決めたら、自分の意志で退場したり居続けたりできるものなのですか? 急に記憶が溢れかえったということは、そうしようと思って思い出したのではないのでは?」
……あれ、どうなんだろ。そういえばさっき、マリーヌをちゃんと表に出す方法がわからないって思ったけど……うん、たぶん正しいんだろうな。
「はい……。どうして記憶が戻ったかわかりません。それに、どうしたら私が引っ込めるのかもわかりません。私は杏奈ですけど、混ざってて混乱するのは嘘ってわけじゃないんです。マリーヌは、自分のものより多い記憶に押されてて、だから、混ぜて、一部は表に出すようにしておかないと、ずっと出てこなくなりそうで……」
だめじゃん。選択肢があるようで無いじゃん……。
「混ぜることはできるのですね」
「あ……そうみたいです」
「マリーヌさんは反省しているか、今ならわかりますか?」
「わかります。反省はちょっと足りないです。でももう同じことはしません。前世の経験から、このままではどうなるかわかったので」
「周囲への態度を改めますか?」
「改める努力はしますが嫌味は言いたいです」
反省が足りないと判断したのはこの部分だ。誰かが何かやらかしたらぜひ言いたいと考えるなんてウザいやつ。ぽんぽん口に出して反感買ってたらゲームとはまた違うひどい目に遭うでしょうが。身分が高くたってだめな時はだめだって知ってるのにもう!
「では……」
今後どうするべきか司教さんがはっきり言葉にしてくれるのがわかったから、私は背筋を伸ばしてちゃんと聞こうと思った。
司教さんの顔が少し怖くなった。
「まずは当たり前のことから。マリーヌさん、しっかり反省して態度を改めなさい。せっかく思い出した杏奈さんの性格を見習いなさい」
反省しろときつめに言われてそっぽを向きたくなった。それは許されないので、おとなしく「はい」と答えた。マリーヌは杏奈にきっぱり拒否されると負けてしまう。
「よろしい」と言うと司教様は最初に見た普通の真面目っぽい顔に戻った。
「アンナさんは、反省して変わったマリーヌさんになりきるのが良いでしょう。望む形でとはいきませんがまた生きていけますし、マリーヌさんは自分と全然違う考え方の人に体を操られるのに比べれば自分も望むことを実行する人ならまだましでしょう。亡霊はいてはいけないのでアンナさんはおとなしくマリーヌさんになっていなければいけませんし、マリーヌさんに体の主導権が戻らないのはいじめっ子だった罰です。ああそうだ、今のように混ざるようにしておいて、マリーヌさんがうっかり消える事態にはしてはいけません。急に思い出したのなら、急に忘れることも、アンナさんが唐突に引っ込むことも考えておくべきでしょう。その時に、マリーヌさんが訳のわからない状態に放り出されるようではいけませんから」
「それは……現状維持ということですね」
「違います。マリーヌさんはもっと反省しなければなりませんし、アンナさんはアンナさんらしい行動を控えなければなりません。あなたはずっと、反省したマリーヌさんでいるのです」
なるほど。
「私は絵を描くのが好きですが、マリーヌがお絵描き嫌いなら描いちゃだめ、ですね」
「そうです」
やりにくそうだと思う。でも、ルールを守っていれば私はまた生きていいのだと聖職者に言われて、それなら不自由でもいいと思った。マリーヌが杏奈に消されなくて安心した。
「私、私たち、司教様のおっしゃるとおりにしてみます」
私がそう言うと、司教さんはまたじいっと私を見た。そしてにっこり笑った。
「お昼前には地上に戻れますよ」
私は牢屋で数時間一人で過ごした。司教さんとの会話を思い返してみたり軽く眠ってみたりしたけれど、決まったことを変えたいと思うことはなかった。クイントさんに指摘されてからのもやもやがなくなって、牢屋にいるのに気分が良かった。
午前中に牢屋から出されて、司教二人の後について階段を上がると、マリーヌの、私の両親がいた。
両親は私を見てほっとしたようだった。それはほんの少しの間のことで、すぐに私にお説教を始めた。ストレスが溜まったからといって事件事故を起こしてはいけないように、“闇”に憑かれることもいけないことだと考える人が多い。両親もそうだった。マリーヌも。私が名前も知らない女子生徒を襲ってしまったように、“闇”に憑かれると周囲の人は怖い思いをする。教会のおかげで社会的に犯罪者扱いされないだけで、悪い人に括られることが多い。ゲームの展開によっては憑かれる人が続出して世間の認識が変わることもある。
お説教から解放された後、学校の先生と一緒に帰ることになった。突飛なことを言い出した相手でも優しい司教さんによくお礼を言ってから教会の外へ出た。……あ、優しい人がもう一人いることを忘れてた。
「先生。目が覚めた時にクイントさんがいたんですけど、今はどこに?」
「学校です。授業に出ないわけにはいきませんからね」
「そうですか」
普通に授業に出なきゃいけないのに、親しくもない私に付き合うなんて。性格があれでもしれっとああいうことするのは、乙女ゲーヒロインとしか言えない気がする。
学校に戻った私は一日の最後の授業だけ出た。授業の前と後には生徒たちが私のことを話しているのが聞こえてきたし、珍しいものや嫌なものとして見られているのがよくわかった。
放課後は先生に連れられて、襲った女子生徒に謝罪にいった。彼女は一年生だった。昨日は半泣きだった彼女だけれど、私を怖いと思っている様子はなかった。攻撃を全部防いだことが自信になっているのかもしれなかった。
謝罪を受け入れてもらった後、私は周囲の視線から逃げたくて早歩きで寮に戻った。部屋に入るとレニアさんが先に帰っていた。
「あら、マリーヌさん。お帰りなさいませ」
レニアさんは普通に私を見ていつもの調子でそう言うと何事もなかったかのように読書に戻った。ここのところ私が変だと知っていた彼女なりの気遣いだと思った。
夕食時の食堂は、一部が微妙な空気だった。もちろん私がいつも座る席の周辺がそうなっていた。いつもと同じにしようとする人、私との付き合い方を考え中っぽい人、あからさまに見下してくる人と、大まかに分けて三種類の人がいた。
嫌味を言われてスルーしようとしたら、いやここは言い返すべきという考えが浮かんだ。態度を改めたマリーヌはこの程度で言い返さないの。っていうか何言われてもしばらくは言い返す権利はないの。
ひそひそ話と視線と嫌味に耐えているうちに土曜日になった。
私は朝食の後、いつもクイントさんが鍛錬をしている場所に彼女を呼び出した。話をしたかったし、絵のモデルになってもらいたかった。
絵を描くことはマリーヌ的にいいことだったから続けることにしていた。
一部のお嬢様たちとの付き合いをやめたマリーヌは暇な時間が増えたので趣味として絵を描き始めた。いまいち描き方がわからないのでちょうど思い出したばかりの前世の記憶を利用する。だからちょっと変わった作風になる。そういうことにした。
杏奈的には幸せなことに、マリーヌは世が世なら杏奈のようなオタクになる人だった。だけど杏奈が楽しんだ作品を一つ一つ思い出してみたら、多くの作品で杏奈とマリーヌは好きなキャラが違っていてちょっと悲しかった。杏奈は推しとか婿とか嫁とか言ってきたキャラを描きたくても後回しにしなきゃいけないし、マリーヌは彼女の好きなキャラに杏奈が興味を持たなかったせいで細かいところがなかなか思い出せなくて嘆いた。
好きが一致した数少ないキャラたちに思いを馳せていたら、クイントさんが姿を現した。あ、ゲームで見たことある私服着てる。今日の彼女は前よりも柔らかいように感じた。
「ああクイントさん、来てくれてありがとう。あなたといろいろ話したかったの。今日は何か予定はあるかしら」
「何もないよ」
「話すついでに絵のモデルになってくれると嬉しいのだけれど」
「絵?」
「趣味として始めたの」
「へえ。いいよ」
つい最近まで迷惑をかけられていた相手にクイントさんはあっさり頷いた。
私はクイントさんに向かいに座ってもらった。手を動かしながら話す。
「あのね、あなたの言ったとおりだったの。私はマリーヌじゃなかった。司教様に記憶のことを打ち明けて、マリーヌになりきって生きていくことに決めたわ。あ、今までの悪役じゃなくて反省したマリーヌだからね」
「そりゃずいぶんときつそうな生き方だね」
「反省して変わったマリーヌだから、それほどきつくはないのよ。不自由ではあるけれど、私もマリーヌもそうするって決めたの。もしかしたらいつか変わるかもしれないけどね。急に頭良くなってそれと同じ速さで悪くなった人とねずみみたいに、急に思い出したら急に忘れるものかもしれないから」
三角座りのクイントさんは小枝を手に取ると地面の蟻にちょっかいを出し始めた。あのヒロインなら見るだけにしそう。
「ふうん。マリーヌとして考えることがあるの」
「ええ。あなたは違うのよね。言い切ったものね。ねえ、あなたはどうしてメルアだと言い切れるの? あの子はあなたみたいに転入してきた時から堅さを感じる子じゃないし、違うって自分でも言ったでしょう」
「一度に思い出す量が少なかったのと、記憶に感情があんまりついてこなかったから、かな。あの主人公に、小さい頃から私の前世が主人公の大長編映画を何回かに分けて、ちょこちょこと見せ続けるとこうなるの。ifルートとでも言おうかな。とにかく、私はあの子に成り代わったものじゃないんだよ」
うんと長くてしかも感情も丸わかりのものを短時間に叩きつけられたマリーヌとは全然違う状況だったわけか。
「そういうことだったのね。ところで『映画』っていうの、誰かが言ってた気がするんだけど……」
「うん。ちょうどいいと思って使わせてもらった」
自分の今を伝えて、クイントさんの中身について納得した私は話題を変えた。
「私が憑かれた時のことなんだけど。クイントさんが突っ込んできたと思ったら後ろからやられたんだけど、合ってる?」
「合ってる。リゼイルがやった。私とカデルであなたの気を引いたわけ。それが一番早いから」
うわー……敬愛する自国の王子に後ろから殴られるとかすんごい犯罪者になった気分だわ。やっちまった……。
私が落ち込んだのを見てクイントさんが言う。
「王子が直々に止めてくれるなんて幸せ者とか言ってる人がいるけど、そうは思えないか」
「あー……そういう考え方もあるか……。正面からだったらそう思えたかも……。あ、そういえばクイントさんも場合によってはあの方に止めてもらえるよね」
正面から、親愛の言葉と抱擁付きで。
「そうだね」
「ね、実際にああいうことになるのかなって、考える?」
クイントさんは何とも言えない表情をしたかと思うと頬をほんのり赤くした。うーん、美少女だわ。悔しいけど男たちが落ちるのも理解できるわ。
顔のわりには重々しくクイントさんは話す。
「自分の生死が関わってくるから、何度か考えたよ。仲良くなって、いざという時に止めて、生かしてくれたらいいなって」
やっぱり、そうか。
「私、記憶が戻ってからすぐにクイントさんのことを考えたわ。何で全然違うんだろうって。特に強さのこと。あなた、死なないように努力したんでしょう」
「うん。私は、何を選ぶと生きて、何を選ぶと死ぬのかほとんど思い出せてないんだ。私のことも、他の人のこともね。で、強くなれば何があっても大丈夫なんじゃないかって思って、父さんにたくさん鍛えてもらうことにした」
「その成果、しっかり出たのよね」
約一ヶ月前、クイントさんは一時的に行方不明になった。遠足のような学校行事の途中で姿を消した。
いなくなる前にクイントさんは黒ずくめと戦闘していたらしい。その黒ずくめには心当たりがある。ゲームで重要なキャラである暗殺者だ。名前はウェル。
主人公の敵の中で、個人としては最強。魔石の力を最大限に利用する終盤の主人公と渡り合える、超強いやつ。主人公や主人公の知り合いが死ぬ原因の一つ。暗殺者のくせして正面からの戦いも得意とか超厄介。
そんなやつとクイントさんは戦闘した。戦闘を選んだ。それは、ゲームのとおりなら、間違った選択だ。物語を先に進めたいと思うなら、バッドエンドなんか見たくないと思うなら、逃げるのが正解だ。
だけどクイントさんはかなり強い。逃げなかったのに殺されずに済んだのだと思う。そしてたぶん、その時に魔石が彼女から離れた。
「森で選択間違えたでしょ」
「うん。ウェルにナイフ投げられてちょっと怪我したら、駄目な方だって思い出したよ。まったく、遅いよね」
「生き延びて、何が起きたか聞いていいかしら」
「ん、そうだな……謎のルートに入った?」
クイントさんが言うにはこうだ。
あの日、クイントさんは現れた不審者と戦うことにした。戦っていたら同級生たちが来て、不審者は自分が不利になったと判断したらしく撤退しようとした。逃がすかと思ってクイントさんが追ったところ、不審者が魔術を使って自爆のようなことをした。それで吹っ飛ばされたクイントさんは谷底に落ちて気絶した。
目が覚めた時は辺りに誰もいなかった。しばらくはその場にいたが天気が悪くなってきた。どこか雨宿りできる場所がないかと辺りを探索していたら洞窟を見つけた。なんとそこは古代の遺跡への入り口で、うっかり仕掛けを作動させてしまい、遺跡から出られなくなった。出る方法を探してうろうろしていると、魔石が壊れて中に封印されていた人が出てきた。封印されていた人は結構協力的で、彼のおかげで遺跡から出ることができた。そこで軍の捜索隊に発見された。
「……っていうのが軍に話したことで」
「えっ?」
びっくりした。クイントさんが急に日本語で話し始めたから。
「本当は目が覚めてからもウェルがいたんだ」
「嘘ついたの?」
私も日本語にしてみた。不思議だ。初めて喋る言語なのにすんなり出てきた。
「あの人、頭ぶって記憶が飛んだ」
「何それ!?」
またびっくりした。私の手が止まったのはしょうがないことだと思う。
「私は、お互いに知らない人ってことにした。だから、そこでさようならってのも不自然かと思って洞窟で一緒に雨宿りしてる時、あの人が遺跡の仕掛けに触っちゃった」
捜索が難航したのはウェルのせいだった、ということらしい。
「記憶がないのが不安だったみたいで、おとなしく私の後ろについてきたのがなんか面白かった。だから遺跡を出られた時に逃がした」
「そ、それでウェルがどうなったかわかる?」
「父さんの元仕事仲間の所に行かせたんだ。そこに行って、自然と記憶が戻ったらしいんだけど、それでも暗殺者やめて傭兵するって」
「なんつー……なんて展開なの……移植されてストーリー追加されてもたぶんそんなことにはならないわ……」
二次創作でならありそうだけど。
「そうかなあ。記憶喪失になってどうのこうのってよくあるパターンじゃない?」
「うん、記憶喪失はあると思うよ? でもね、『面白かったから逃がした』はヒロインのすることじゃないよね。『かわいそうだから』ならわかるけど。しかも結局は人殺しありの道でしょ?」
「こそこそするよりいいでしょ。嫌なら別の道を選べるようになるし」
「まあ、本人がそれでいいって言ってるならいいけれど……。ところで魔石の人はどうなったの?」
「あの人のルートのエンディングと大体同じ。洞窟出た後に、私を捜しに来た人たちに紹介して、その後は偉い人たちに主人公の真似して『お願い』って言って封印と死亡の回避に成功したよ」
クイントさんはどこか誇らしげに言った。魔石の問題をゲームよりずっと早く片付けられたからだろう。
「あの人とくっついたのね」
「くっついてない」
クイントさんの顔はどうともなっていない。ただ事実を言っただけにしか見えない。
「説得したわけじゃないの?」
「したよ。魔石から出てきたから、普通に生きてみようぜって話したらあっさり頷いたんだよ。言い方悪いけどチョロかった」
ははーん。クイントさんは何とも思ってないけど、あいつは落ちてると見た。あの引き籠もり、ヒロインが勇気出して積極的に行くと弱いからなー。
「まあ私が主人公みたいに落ち込んでなかったからね。回復がかなり早かったみたいで、意地張らなかったっぽい」
つまりそれだけ早くに落ちたか。さすが全ルートで落ちてるとファンに言われるだけあるわね。
でもなー、この人のことだから、彼も恋になってない可能性ある。
「あのルートを目指したわけじゃないの?」
「恋愛以外のところで目指したよ。どうせゲームと同じになるならあの人を外に出そうって思ってた。前世が一番好きなルートだったし」
「ふうん。あの人が好きってわけじゃないんだ」
「会えば何かあるかと思ったけど誰にも何も感じなかった」
恋愛無しのハッピーエンドかー……クイントさんらしいかも。
この後も私はクイントさんに、あれはどうなったのとか、あの人はどうしているのかとか聞いた。
話しながらまた手を動かして絵を完成させた。全身と、胸から上の二枚。
「ヒロインっていうか、クイントさんだわ、これ。名前変更できないわ」
アップの方を見せると、クイントさんは近寄ってきて「おお」と感心したように言った。
「またこんな絵が見られるとは……。なんかちょっと目つきが厳しいけど」
「表情描く時は記憶を頼りに描いたんだけど、あの子ってなかなか画面に出てこないじゃない? 他と比べて曖昧だからクイントさんに寄ったみたい」
主人公が端に表示されるものもあったけれど、あのゲームは違った。
「私って厳しい?」
「正直言って怖い。乙女ゲーより恋愛はおまけジャンルの人っぽい。シミュレーションはシミュレーションでも恋愛じゃなくて戦略ってつくやつとかさ」
「怖いのは微妙だけど、戦略ってのは嬉しいな。目指すのはそれだからね。一騎当千とかかっこいいよね」
「それ乙女のヒロインじゃなくてヒーローがやるやつ」
「別に私、乙女ゲームの主人公やりたいわけじゃないし」
ごく一部の人に刺されそうな台詞だ。いや彼女なら刺されない。相手の武器を奪い、剣を突きつけながら「代わるか? お前にやれるのか?」みたいなことを言う。
「それにもう本編終わったようなものだし、大きく路線外れたっていいでしょ。最初から外しまくってるけど、これでもあの人たちと仲良くなれるように考えてはきたの。父さんの口調を真似しないとかね」
「まだよ。FDが待ってるじゃない」
「FD?」
クイントさんの顔が堅いものになった。
「本当にあったか」
「憶えてない?」
クイントさんは少し考える様子を見せた後、首を横に振った。
「……違う。知らない。死んだから」
「あら……」
こういう時、何と言うのがいいんだろう。お気の毒とか残念とか簡単に言うべきじゃない気がする。死んだ人間の記憶があってここにいるのはお互い様だけどそれでもなんだか言いにくい。
「それ、私は危ない目に遭う? 選択肢で間違えたら死ぬ?」
「え? ああ、うん。あ、死ぬことはないわよ。んー……レージスとウェルの共通ルートで裏社会のやつに襲われるのが一番危ないかな?」
「ウェルのルートなんてあるの?」
「うん。生きてたウェルが会いにくるの。あのルートだけあとちょっとで十八歳未満お断りなシーンがあったよ。その後暗転することもあって……ふふっ、タイムラインに動揺してる人がいたし、検索したら動揺した人がいっぱいいたわ」
「襲われるのってどうして? いつどういう状況で襲われるの?」
十八歳以上の話には特に反応がなかった。ちょっとつまらない。
「冬の終わり頃、テルロミルさんとお出かけしていろんなお店見ながら歩いて、そのうち路地裏に入るの。で、怪しい取り引きしてるとこ見ちゃって、始末されそうになるわ」
「怪我の程度は?」
「しばらくの間、剣が使いにくくなるわ。ああ、テルロミルさんだけど主人公のお陰で無傷だから。それに二人は自力で逃げられる。クイントさんなら撃退、いえ、取っ捕まえてその後に襲われることもなくせそうね」
「まだ襲ってきたらどうなる?」
「レージスかウェルが助けてくれるよ」
「そう……」
クイントさんの表情は堅いままだ。
「さっきも言ったけど、選択間違えて死ぬことは無いよ」
「油断はしない。ウェルは大きく変わったから期待できないし」
ああそうか。死んだと思われてひっそり気ままにフラフラして王都に現れる人じゃなくなったんだ。
「人気のない所には近付かないようにするよ。教えてくれてありがとう」
「うっかりウェルルートに入らないように、別の誰かとくっつくって案は? FDは誰ともくっついてない前提で始まるのよ。くっついてしまえば危険が少なくなるかも。友人とのお出かけがデートに変わったりしてさ」
「悪くないけど、気が向いたところで落とせるとは思えない。あなたが言ったように、私はあの主人公と違う。ゲームの記憶が全部ちゃんとあったとしても役に立たない」
あんな笑顔向けられておいて何言ってるんだろう……。この鈍さ、別のゲームの主人公か。序盤の立ち絵じゃ見れない笑顔だったのに。
それを言おうとしてやめた。反省が足りない悪役令嬢が、面白くなりそうなことを思いついたから。
「そう。じゃあ今までみたいに鍛える方向でいくのね」
「うん。何があろうと強ければいいんだ」
キリリとした顔で言い切ったクイントさんは、どこかのギャルゲの凛々しいヒロインのようで、強いことが何の役にも立たない事態が起きるとは少しも思ってなさそうだった。それに、前世の映画を長期に渡って見てプレイヤー的な考え方が染み着いていて、攻略される側になることを想像していないのがよくわかった。
杏奈は男女の恋愛を見るのが好きだった。そんな杏奈につい最近マリーヌが多大な影響を受けた。
私、クイントさんが慌てるところが見たい。それが私の手によるものでなくてもいいわ。私が何かしなくても、このままいけば彼らが手を出してくれそう。彼女はあんな感じだけど、頬を染めていたから恋愛に全然興味が無いわけじゃないわ。男性に何かいいことされたらきっとあっさり平常ではなくなるわ。だから私が慌てるクイントさんを見るチャンスはきっと来る。私と一緒に意地になってた子たちにも興味ありそうな人がいるね。誘ってみんなで見物といきましょう。




