第八話 黒ギャル危機一髪
「親父殿、堪忍袋の緒が切れたぜ!」
「儂もとっくに切れとるわい!」
黒小人族の大親方ゴリドとその娘であるキーリは、坑道を我が物顔で占拠する怪物を睨みつけながら、自らを縛る荒縄を引き千切った。
怪物の名は"岩喰い大長虫"。
この北嶺鉱山に一月ほど前から棲みついた、厄介極まりない地虫だ。
虫と呼ばれてはいるが、その手足のない長い体は黒小人の数十倍に達する。
びっしりと牙の並んだ巨大な口で地中を掘り進みながら、鉱物を酸性の胃液で溶かして喰らう習性があり、一度居付けばその山の岩石を全て食い尽くして穴開きチーズのような姿に変えるとも言われている。
山に暮らし鉱石を加工して糧に変える黒小人族にとって、天敵とも呼べる存在であった。
もっとも負けん気の強い黒小人たちも、黙ってやられっぱなしになっていた訳ではない。
鍛冶師の誇りをかけて打ち据えた武器を手に果敢に挑んではいたのだが、長虫の丈夫な皮には歯が立たず何度も敗走の憂き目に遭っていた。
岩喰い大長虫の外皮は、喰らった鉱石の一部が皮膚と同化するので、年を経るごとに硬さを増していく。
鉱山に現れた長虫は、全身を黒鋼に覆われた古強者であった。
黒小人たちが懸命に鍛えた赤鉄や青銅の武具では、長虫の外皮を貫くどころか掠り傷さえ負わせられぬ始末。
研鑽してきた鍛冶の技を否定されることは、職人にとって耐えがたい屈辱だった。
しかし昨日から突如、長虫が狂った様に暴れだし、ついに居住区近くまで迫ってきた今、もはや矜持をどうこう言える段階はとうに過ぎ去っていた。
追い詰められた黒小人族は、大親方ゴリド率いる山方衆たちで決死の策に挑む。
刃が通らぬ長虫だが、実は水や火にはかなり弱い。
だが黒鋼の皮を溶かすほどの火力となると、火吹き山の主に御出でを願うか溶岩溜りにでも突き落すしかない。
つまりは両方とも不可能ということである。
残された選択肢は、水攻めであった。
幸いにもこのニ日ほど、山の天気は大いに荒れていた。
季節外れの大雨は、普段なら唾を吐き捨てられる嫌われ者だが、今回は願ったりの来客だ。
山肌に繋がる坑道に設けた雨止めの土嚢を取り除き、中へたっぷりの雨水を引き入れる。
土嚢を積み上げて誘導した流れを坑道の数ヶ所で押し止め、機を見て一気に中央の縦坑に流し込む作戦である。
縦坑の下段の坑道は長虫を誘い出す一本を除いて、あとは全て埋め立て済みだ。
すでに上段や中段の横坑には大量の水が堰き止めてあり、あとは憎き宿敵を罠に引き込むだけとなっていた。
さらに縦坑の底部には長虫を引き寄せるために、奴の好物の群青石が積み上げである。
鬼人族に卸す約束の品であるが、鉱山全体の命運がかかっている状況で、そんなことも言ってられない。
万全の罠を前に固唾を呑みながら、怪物を現れるのを待ち受けていたキーリたちであったが――。
「儂の秘蔵の火酒の樽がぁぁぁあああ!」
「楽しみにしてた黒森産の蜂蜜酒がぁぁぁあああ!」
なぜか縦坑に通じる坑道の途中で、長虫がいきなり向きを変えたのだ。
怪物が突っ込んだ小さな扉の先は、黒小人族の隠し酒蔵であった。
命よりも大事な酒樽が粉砕されたことに、黒小人たちの怒髪は天を衝く。
怒りに身を任せたゴリドと娘のキーリは、命綱を自ら手放し縦坑の底へ飛び降りた。
「野郎、ぶっ殺す!!」
「親方、死ぬ気か!」
「姉御、無茶だ!」
制止の声を振り切った親子は、たった二人で怪物へ挑みかかった。
身の丈を超す黒鋼の大金槌を振り回したゴリドの一撃が、長虫の腹に叩き込まれ甲高い音を立てる。
キーリは愛用の大弩を構えながら、声を張り上げた。
「こっち向きやがれ、長物!」
黒曜石の鏃がついた太矢が、長虫の横腹に猛然と撃ち込まれる。
しかし捨て身の攻撃は硬い黒鋼の外皮に弾かれて、火花を散らすだけに止まった。
脇腹の小さな刺激に気づいたのか、酒樽を貪っていた長虫のおぞましい頭部が親子たちへ向き直る。
ぽっかりと空いた口腔の不気味さに生唾を飲み込みながら、キーリは止めの挑発とばかりにその口内へ矢を撃ち込んだ。
「ついて来い! この木偶の坊!」
即座に身を翻し、少女は懸命に縦坑目掛けて走り始めた。
のたうつように体をくねらせて、長虫が後を追いかける。
思惑通りに事が運び、キーリは口の端を少しだけ持ち上げた。
だが残念なことに、黒小人の足はそれほど長くはない。
すぐに追いつかれそうになったキーリだが、ぎりぎりの位置で横っ飛びに避ける。
見事に躱せたはずが、あと一歩のところで長虫の口から伸びた牙の先端が服の襟に引っ掛かった。
飢えた犬が咥えた骨のように、少女は宙空を派手に引きずり回されて悲鳴を上げた。
長虫のほうは少女に気付く素振りも見せず、大暴れしながら縦坑の底へと雪崩れ込む。
身をよじる長虫が頭を振り回し過ぎたせいで、キーリを束縛していた衣服が限界を迎え千切れ飛んだ。
運に恵まれた黒い肌の少女は勢いのまま空を飛び、落ちて来たところを上の段に控えていた仲間たちに受け止められる。
娘の無事を見届けた親方は、縦坑の底に走り込むと同時に、仕掛けてあったつっかえ棒を大金槌で振りぬいた。
土砂が一気に崩れ落ち、唯一残っていた横坑が塞がれる。
穴底でのたうちまわる長虫に対峙したゴリドは、腰を落とし大きく息を吸い込んだ。
そして大上段に持ち上げた大金槌で、暴れ回る長虫の尾先に烈震の一撃を叩き付ける。
金槌は地を激しく波立たせ、見事に長虫の尾を大地に喰い込ませた。
大金槌に上に跨った髭の親父は、大声で仲間たちに檄を飛ばす。
「堤を切れぇぇええ!」
それは怪物との道連れを覚悟した男の叫びであった。
「親方ぁぁあああ!!」
一族の長の雄々しい生き様に、山方衆は涙を堪えながら声を張り上げた。
「見届けたぞ、親父殿。あとはオレに任せて、一足先に地の底で待ってな」
重々しくキーリが別れの言葉を呟き、土嚢を一息で崩せる仕掛けの荒縄に短剣を当てる。
大きく振りかぶり、水流を穴底へ注ぎ込もうとしたその時――。
いきなり長虫の腹が真っ二つに裂けた。
同時に大量の炎が、その裂け目から溢れ出す。
眉を焦がすほどの火は、もがく長虫の巨体をあっという間に包み込んだ。
いきなりの展開に言葉を失っていた黒小人たちだが、煙と火の狭間に屹立する何かに気付く。
宿敵の岩喰い大長虫を内側から引き裂いて現れたそれは、全身に炎を纏う人の形をしていた。
轟々と燃え盛る火と共に現れた存在は、黒小人の三倍を超える背丈があった。
陽炎が揺らめくその全身はどこも分厚く、重量が存在感となって溢れ出している。
不意に化け物は、首を巡らして縦坑を見上げた。
火の粉を放ちながら赫々と燃える頭部に、二つの眩い光が覗く。
数人の黒小人は、それが化け物の眼だと気付き静かに失禁した。
しばらく天を見据えていた化け物だが、唐突に奈落に通じるような大口を開いた。
次の瞬間、凄まじい咆哮が縦坑を突き抜ける。
ビリビリと空気を震わせるその叫びに、黒小人の一人が思わず声を漏らした。
「…………"焔の悪鬼"だ…………」
それは邪悪過ぎたために、遥か古代に地の底に封じられた魔神の名であった。
突然の悪鬼の登場に、動揺した一人が思わず仕掛けの縄を切り落とす。
土嚢が崩れ、溜め込んでいた水が縦坑に音を立てて流れ込む。
それが切っ掛けになったのか、緊張のタガが外れ虚ろな目になった黒小人たちは、次々と堤を切っていく。
溢れ出した奔流が穴底に注ぎ込まれ、瞬く間に渦が生まれる。
キーリは呆然としたまま、父親と悪鬼と長虫の死骸がくるくると回転しながら、濁流に消えていく様を見送った。