第六話 迷える薄幸の美少女
絶望は少女を酷く打ちのめしはしたが、その全てを奪い去るところまでは行かなかった。
荒削りな風が棲みついてる北外れの峠は、岩と砂しか留まることが許されていない。
気まぐれな雨の先触れがたまに居座ることもあるが、それは本当に稀なことであった。
ただ困ったことに、彼らは来てほしくない時を敢えて選んで訪ねてくる嫌われ者の訪問客でもあった。
全てが乳白色に染まった世界を見渡して、少女は天を仰いだあとに小さく呼気を整えた。
峠の道は今この時、霧で完全に覆われてしまっていた。
手に持った杖を上下に揺らし、杖の頭部に付けられた鈴を大きく響かせる。
細かく別れた雫の壁に、石を転がしたような太い鈴の音は吸い込まれるように消え失せた。
少女の顔に少しだけ陰が落ちる。
だが立ち止まっていても、何も解決はしない。
傍らに寄り添う頼もしい相棒の犬の背を優しくなでたあと、少女は濃霧の中を慎重に歩き始めた。
大きな石がそこかしこに転がっている地面は、急ぎ足を容易く認めてはくれない。
さらに霧のせいで自分の足元さえ定かではない今の有り様では、余計に歩速が落ちるのは仕方がない事であった。
獣皮をなめした丈夫なブーツを履いているとは言え、地虫の穴にでも嵌れば簡単に足を挫く羽目になる。
そうなれば群れからはぐれたヤギよりも先に、それを探す少女の命が尽きてしまうだろう。
いつもより歩幅を小さくして、少女は一歩一歩注意を払いながら踏み出していく。
先を歩く犬は時折鼻を引くつかせ、辺りを警戒してくれていた。
白い尾が小刻みに揺れているのは、犬も緊張しているのか。
本来、家畜の群れを率いるのはもっと裾野のほうであり、少女と犬がここまで上がって来たのは初めてのことであった。
北嶺の山裾で家畜の放牧を営む鬼人族にとって、北外れの峠は大きな難所と言われていた。
吹き下ろす風は強く、たまにそれが止むと今度は酷い霧が発生する。
危険な地虫や甲虫が這いずり回り、北大峨に巣を持つ飛竜がそれを狙ってたまに降りてくることさえ有る。
それらに加えて近頃、どこからか来た大蠍も居ついたようで、大人たちは皆一様に重苦しい顔をしていた。
今日もその大人の一人に怒鳴られたことを思い出し、少女は小さく顔を歪めた。
まだ一人前に働ける歳には程遠い少女であったが、鬼人族の余裕のない暮らしぶりでは、そんな甘えたことも言ってられない。
だがやはり、日が明け切らぬうちからの家畜の世話は、年端もいかない少女にはかなりの重荷であった。
ふらついて水桶をひっくり返した事はなんとか許されたが、預かっているヤギを一匹失ったとあれば取り繕える余地はもうない。
けれども彼女は、年老い祖父母と病身の母親、まだ満足に喋ることもできない妹たちを養って行かねばならない。
彼女の父は半年前に小鬼の隊商についていったきり、行方が判らなくなっていた。
揺らぎそうになった心を、待っている家族を思い出してなんとか繋ぎ止めた少女は、顎を持ち上げてしっかりと前を見据えた。
大丈夫、ヤギを見つけて帰れば良いだけの話。
それに辛い道のりも、楽しい事を考えていればあっと言う間に過ぎ去るはず。
少女は近々行われる祖霊祭に思いを巡らせた。
祭りで振舞われるであろう角鶏のスープを思い出し、少女のお腹が窮屈な音を立てる。
朝方に食べた薄い乳粥は、当の昔に胃の腑から消え失せていた。
角鶏のスープは彼女の母親の得意料理であり、心の臓を患う前は良く作ってくれたものだった。
父母が元気であった頃の懐かしい思い出が蘇り、少女の足取りは途端に重みを増した。
さらに今季の祭りは衣装に使う青布が手に入らないので取り止めになるかもと、大人たちが喋っていたのを思い出し少女の歩みは一層鈍くなる。
大蠍のせいで峠を通れず小鬼の行商人が行き来できないために、黒小人族が掘り出す染料の鉱石が手に入らないからだとか。
もう何もかも上手くいかない気持ちになった少女であったが、相棒の小さな鳴き声に急いで頭を上げた。
尻尾を激しく振り立てた犬が、険しい傾斜を駆け上がっていく。
ヤギの匂いを捉えたのだろう。少女は置いてかれまいと慌てて歩幅を広げた。
もはや濃くなり過ぎた霧のせいで、上ってるのか下ってるのかさえ判らなくなってきた頃、先を走っていた犬が不意に足を止めた。
そのまま周囲をしばらくうろつき回ったあと、何も言わず少女を見上げてくる。
恐れていたことがついに来てしまったと、少女は拳を固く握りしめた。
雨粒が混じる霧のせいで、はぐれたヤギの匂いが流れてしまったのだ。
だがここまで来れたのだ。
ヤギはあと少しの場所に居るかもしれない。
少女は思いっきり肺に息を吹き込むと、きつく目を閉じ額の角に気持ちを集中させた。
オーガの角はただの瘤ではない。
部族の象徴であるとともに、生命を感知する感覚器官の役割を担っていた。
まだ幼い少女の短い角が、霧の先に熱の存在をぼんやりと感じ取る。
少女は希望に目を輝かせ、最後の登り坂を頑張って這い上がった。
峠の頂きには巨大な岩たちが坐しており、その一つの上に見慣れた影が霧を通して浮かび上がる。
聞き慣れた鳴き声が少女の耳に届き、歓喜の悲鳴が腹の底からこみ上げてくる。
だがそれが発せられることは、なかった。
ヤギの横の岩が動いていた。
巨大な鋏と弧を描く尾の影が、霧の中を蠢く。
並んでる大岩だと思ったモノの片方は、巨大な蠍だった。
必死の思いで探し当てた場所は、怪物の縄張りのど真ん中であった。
少女は小刻みに震える肩を抱きしめながら、音を立てずに後ずさる。
その傍らを、耳を伏せた犬が何も言わず付き従う。
そのまま坂を下れば、助けを呼ぶ哀れな仔ヤギを見捨てることにはなるが、少女たちの命は永らえたであろう。
しかし、すでに少女の気力は尽きかけていた。
慎重に動こうとするあまり、その手に握っていた杖が汗で滑り落ちる。
少女よりも先に坂を転げ落ちた杖は、その先端に付けられた鈴を力強く鳴り響かせた。
大きく見開いた少女の瞳に、蠍の両鋏がくるりとこちらへ向きを変えた影が映り込む。
最後の時を覚悟した少女は、その瞳を固く閉じた。
痛いのも苦しいのも、もうこれ以上欲しくなかった。
塞いだはずの眼から、止めどなく涙があふれ出す。
少女が最後に思い出したのは、頼もしい父と優しい母の笑みを浮かべた顔だった。
その刹那、落雷のような大音声が鳴り響いた。
驚きで限界まで開かれた少女の両の眼は、霧の奥に新たな存在を見い出す。
同時に額の角が痛みを覚えるほどの、凄まじい熱量が伝わってきた。
そこに居たのは大蠍と対峙する、巨大な誰かであった。
鬼人族で一番大きい族長をはるかに超える背丈。
顔の両側から突き出した二つの長い角。
深い霧を通してでも判る、青布を纏った戦士の装束。
その姿は祖霊祭で唄われる、"伝説の勇士"そっくりだった。
凄まじい雄叫びを上げた戦士は、獰猛な怪物に熾烈の勢いで跳びかかる。
いかなる刃も跳ね返してきた大蠍の鎧が、戦士の拳の前に卵の殻のように脆く砕け散るのを見た少女は口を押さえて歓声を上げた。
体液を撒き散らしながらも、大蠍の手足が一斉に振り回される。
だが戦士はその猛攻にも、まったく平気な様子であった。
軽々と持ち上げた大蠍を、傍の岩へ激しく叩き付ける。
それでもまだ大蠍はガチガチと顎を噛み鳴らしながら、戦士へしぶとく挑みかかった。
突き出された両の鋏を避けた戦士は、その付け根を掴むと勢いよく引っこ抜く。
その凄まじい膂力に、少女は小さく喝采を送った。
その後は一方的であった。
戦士は大蠍に跨った状態で、上から殴りつけては、その甲殻をむしり取る。
最後の足掻きに突き出された大蠍の尾もあっさりと掴まれ、先端部分だけが毟り取られて、無用とばかりに投げ捨てられる。
目の前に転がってきた大きな毒針に驚いた少女は、目を丸くして笑い声を上げた。
霧の中で行われた怪物と鬼人族の勇士の闘いは、まるで素晴らしい影絵芝居のようであった。
死を迎えた大蠍の上で、オーガの戦士が奪いとった大鋏を振り回し勝利の演武を踊り狂う。
少女と犬は何もいえず、その光景を眺めていた。
そして最後に岩の上のヤギを、そっと地面に降ろしてくれた戦士は霧の奥へと姿を消した。
すべてが終わったことを確信した少女は、戦いの跡地に足を踏み入れる。
不思議な事に大蠍の死体の大半は消え失せており、甲殻ばかりが無残に散らばっていた。
ヤギに怪我ないことを確認してホッと息を吐いた少女は、その背に蠍の尾先を括り付ける。
帰りを待つ家族に、勇敢なオーガの戦士が残してくれた物を見せて上げたかった。
それに証拠を持って帰らねば、大人たちはこの素晴らしい出来事を信じてはくれないであろう。
気が付くと、峠を覆っていた靄はすっかり消え失せている。
そして霧が晴れると同時に、少女の胸のうちに鬱屈していた思いも綺麗に晴れわたり、爽快な気持ちへ変わっていた。
最高の一幕を見せてくれた峠の舞台を、少女と犬は名残惜しそうに何度も振り返る。
峠を吹き下ろす風に背中を押されながら、少女は口笛を吹きつつ坂を下り始めた。