第二十九話 組んず解れつの大団円
王国、中興の祖と言われるサラーサ女王の伝記"剣姫譚"によると、まだ一騎士であった女王が僅かな供のみで魔王の地へ乗り込んだとの記述がある。
当時、各地を荒らし回り、騎士団を二つ壊滅させた恐ろしい黒の魔王。
かの存在が悪名高き黒龍ドロンコの棲まう火吹き山へ、配下を引き連れ引き攻め込んだのが端を発すると言われる。
魔王が大穴に消えて間もなく 地の底から凄まじい揺れと咆哮が伝わってきたと公式の記録にも記されてはいる。
だがそこで起こった事については、確たる証左は何も残ってはいない。
魔王と竜が激闘の末、合体したとも、竜を食らった魔王がその力を手に入れたとも諸説入り乱れる。
分かっていることは黒竜の姿が消え、その手勢を魔王が手に入れたという恐ろしい事実のみである。
その激闘の三日後、不甲斐ない軍部には任せて置けぬと剣姫は立ち上がった。
信頼のおける友たち少数を引き連れ、魔王の首を取らんと恐ろしい山へ潜入する。
この時、同行したのが、後の魔王大戦で活躍した英雄たちである。
黒鋼の大剣を背負った剛力無双な戦士、鬼人族の復讐者ガヤン。
妻と娘の命を魔王に奪われ、報復の牙を研いできた。
飛竜を素手で屠る格闘術"素猛"の使い手、豚鼻族の最強者ゾルバッシュ。
一族を皆殺しにされた無念を晴らすために生きる。
大金槌を携えた雷打の鍛冶師、黒小人の長ゴリド。
彼らの住み慣れた山は、魔王の咆哮で崩れ去ったと伝わる。
一里先の落とした針の音を聞き分ける凄腕の狩人、長耳族の姉妹ラキルとシラル。
魔王に辱めを受け、その雪辱を晴らすために随行した。
地の底で何が起こったかは、詳しく語られてはいない。
だが魔王の筋肉は余りにも強力であったとの一文が、姫の日記に記されているのみである。
敗走した姫は王都へ立ち返り、見事な演説で民を奮起させる。
さらに諸部族までも喚起した姫は、僅かニ日で大軍勢を纏め上げた。
王国軍もそれに加わり、彼らは王都を守らんと布陣を敷き、攻め入る魔王を迎え討たんとす。
対する黒の魔王は、万を越すとも言われる骸骨兵を引き連れた死者の軍勢。
両者は西の平野で向かい合う。
そして覚えやすいと王立学院受験生に好評な王国歴999年。
後世に奇跡の戦果と呼ばれた魔王大戦の幕は開けた。
△▼△▼△
先陣を切ったのは、東方辺境騎士団の団長キグローの指揮する左翼からであった。
角笛が高らかに戦の始まりを告げ、弓を構えた人馬族たちが、春小麦の収穫が終わった農地を疾駆する。
弓弦が次々と鳴り響き、撃ち砕かれた骸骨たちが散らばっては消えていく。
「これ、風猿神の試しの儀。お前ら、存分に力示せ」
尊長イグルーの言葉に、人馬族たちは雄叫びを上げた。
その背に跨った兵士たちも負けずに声を上げて、必死で矢を放つ。
この策士キグローが編み出した戦法は後に、人馬ニ射の陣として王国の防衛戦術に組み込まれるまでとなる。
走りながらイグルーは、右翼から降り注ぐ見事な矢ぶすまに唸り声を上げた。
「あの耳長いやつら。中々やる。あれに負けたら宴の参加、許さない」
その言葉に、人馬族の若者たちの気迫は燃え上がった。
矢を連射して、骸骨たちに近寄る隙も与えぬまま殲滅していく。
騎士団の兵士たちも、負けじとそれに習う。
その様子を眺めながら、キグローは嬉しそうに溜息を吐いた。
「私達が彼らに学ぶべきことは多くあります。互いに認め合う存在だからこそ、よき隣人足り得るのですね」
後に王都騎士団団長まで登り詰めたキグローは、その中庸さと気遣いから剣姫にとても重用されたという。
△▼△▼△
「これが戦か。なんと心躍るものだ!」
水棲馬の引く戦車に腰を据える竜人族の王子は、感嘆の声を上げた。
矢が飛び交い、叫びと剣戟の音が響き渡る戦場。
そのあまりの迫力に、ギールは大声を上げて興奮する。
戦車の周囲は青い鱗鎧を身につけた見目麗しい近衛兵が固めており、小魚が這い出る隙もない。
三叉槍を振り回す彼女たちは、ただただ無情に骸骨たちを屠っていく。
最初は物珍しげにその光景を眺めていた王子であったが、我慢しきれなくなったのか大声で側仕えに呼び掛ける。
「俺様にも槍を貸してくれ! あの醜き骸骨どもに、俺様の勇姿を刻みつけてやりたい」
「なりません、王子。今日は見学だけとの御約束でしょ」
傍らに馬を寄せた親衛隊長の姉が、精一杯の厳しい声で諌める。
「なんと無下な言葉だ。だが道理でもある。今の俺様では、まだ槍を振るうのは早いという訳か」
がっくりと肩を落とす王子の姿に、隊長は思わず槍を手渡しかけて、部下たちの冷たい視線に気付き思いとどまる。
そんな周囲の葛藤を気にも止めず、王子は嬉しそうな声で指差した。
「あれを見よ! 俺様と同じ小躯でありながら、なんと勇ましい剣を振るうのだ」
それは戦場の真ん中で、輝く剣を振り回す剣姫の姿であった。
一振り毎に雷光が放たれ、枯れ木の如く骸骨達が飛び散っていく。
「ああ、俺様も何時かはああ成りたいものだ。その為にも早々に筋肉を付けねばならぬ」
獅子奮迅の活躍ぶりを羨望の目で見つめながら、ギールは熱い吐息を漏らして呟いた。
これが筋肉について熱く語りあう終生の友たちの、最初の出会いであった。
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右翼の先陣を切ったのは、犬人族と鬼人族の連合部隊だった。
真っ青に染め上がった三角旗をはためかせ、怒声を上げて魔王軍へと突き進む。
旗手であるコボルトの木こりゴルザは、すでに一杯引っ掛けており上機嫌で戦場を走り回る。
その後に続くのが、青い布を腕に巻き黒鋼の大剣を振り回すオーガ達であった。
厳しい山間の暮らしで鍛えられた鬼の力は、軽く振り回すだけで凶器と化す。
しかも手にしているのは、恐ろしい切れ味を誇る黒鋼の武器だ。
山羊のチーズよりも滑らかに、オーガどもは骨を断ち切っていく。
犬と鬼の凄まじい勢いに骸骨どもは何一つ反撃できぬまま、あっさりと魔王の軍勢は分断された。
そんな味方の活躍ぶりに気を良くしたオーガのガヤンは、先陣を切るコボルトの旗持ちに声を掛ける。
「アンタえらいご機嫌だな。気に入ったぜ」
「おう。おら、何かよく分かんねぇけど、これを持って振ってりゃ青染めの良い宣伝になるって言われてな」
そう言いながらゴルザは、酒瓶を大きく傾ける。
「はっはっ。俺たちもこの黒鋼の武器を振り回して、宣伝してくれって頼まれてんだ。お互い大変だな!」
大きな笑い声を上げたガヤンは、振り向いて背後の味方に剣を持ち上げる。
「ほれ、あと一息だ! いくぞギャッホーホー!」
「ギャッホーホーホォォォオオオ!!!!」
奇妙な掛け声が戦場を駆け巡った。
彼らの活躍のお陰で、後に黒小人製の武器は高騰し、所有することは武器を扱うものの一種のステータスと言われるまでとなる。
それとこの年以降、青い服が流行し、青染めもまたブランドを確立することに成功した。
△▼△▼△
「退屈な的ね。全然ドキドキしないわ」
「同感ね、姉さん」
軽くつがえたように見える矢は、骸骨兵を一息で五体貫いて地に落ちる。
「今の見た? 新記録よ」
「私さっき六体、まとめて仕留めたわよ」
「また見栄張るのね。それ、あなたの悪い癖よ」
「ハァ? 姉さんこそ、そうやってすぐ人を疑う癖をどうにかしたら?!」
戦場でいがみ合う二人は、余所見をしながらもその手にした長弓は休むことを知らない。
凄まじい矢の雨が降り注ぎ、魔王軍の一画が空白に変わっていく。
「おっといけない。同じ場所で、倒し過ぎちゃ駄目だったわね」
「全くそそっかしいんだから。私みたいに、万遍なく倒さないと駄目よ」
「私と変わってないじゃない」
「違いがわからないのは、老眼の証よ。そろそろ眼鏡でも掛けたら如何かしら」
「あなたと歳、ほとんど一緒じゃない!」
傍から見れば彼女たちは、独り言を語っているようにしか見えない。
だが百歩以上、離れた場所にいても平気で会話できるほど、彼女たちの耳と心は通じ合っていた。
暢気に会話を続ける長耳族の姉妹は、情け容赦無く魔王の軍勢を仕留めていく。
その余りの戦いぶりに、黒森のエルフの長弓の腕は世に轟くこととなる。
黒の森は咎人が寄り付かなくなった代わりに、弟子志願が押し掛けて姉妹は困った悲鳴を上げたという。
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黒小人族の穴方衆頭を務めるオヤッさんは、ツルハシを振り回して骸骨を仕留め終えると戦場を見渡した。
西の平原を覆い尽くす骸骨の群れは、順調にその数を減らしていってる。
仕事の進行が上手く行ってる様を確認したオヤッさんは、鉱山道具を肩に担ぐ若衆に号令をかけた。
「よしこの区画は、これで十分だ。次は東の畑へ移動するぞ」
「了解ッス!」
戦場の手薄な部分を見つけて、黒小人たちはいつもの仕事に取り掛かる。
穴方衆の仕事といえば、それはもちろん穴掘りだ。
見る見る間に塹壕を完成させた黒小人は、少し離れたところで様子を窺う。
トコトコと歩いてきた骸骨が穴へ落ちた。
続けて三体ほど落ちる。
「ようし、埋めろ!」
「了解ッス!」
あっという間に地面は、元通りとなった。
穴方衆がしていたのは骸骨の栄養がきちんと全体に行き渡るように、空いた箇所に誘導して埋める仕事であった。
黙々と畑に穴を掘っては、骸骨を埋めて次へ進む。
誰も彼もが派手に骸骨を倒して回る中で、彼らだけは見事に裏方に徹していた。
「ねぇオヤッさん。俺たちも英雄譚で、歌ってもらえるッスかね」
「馬鹿言うな。あんなのは特別な連中だけだ」
「そうッスよね」
肩を落とす若者の背に、オヤッさんの手がポンと置かれた。
「良いか覚えとけ、俺達の仕事は裏方だ。だがな、鉱山仕事ってのは、誰かが穴を掘らなきゃ始まんねーんだ。俺たちが居ねぇと、仕事に何ねーんだよ。英雄譚てのも同じようなもんだ。英雄の下に、裏方が居てこそ歌が出来るんだよ。だから胸張って、自慢すりゃ良い。この歌は俺たちのお陰だってな」
「オヤッさん……よく分かんねぇッス」
「それで良いんだよ。ほら手を出せ!」
言われた若者は、素直に拳を持ち上げる。
その手は節くれ立ってゴツゴツとしていたが、働いてきた職人の手でもあった。
ゴツンと拳をぶつけ合ったオヤッさんと若者は、なぜか大きな笑い声を上げた。
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「親父殿、寄る年波には勝てないってとこかい?」
「抜かせ! 俺はまだまだ現役だ!」
娘のからかう声に、ゴリドは怒りを露わにして大金槌を奮った。
吹き飛ばされた骸骨どもが、高く空を舞う。
見事な一振りであったが、ゴリドの方も無事ではなかったようだ。
腰を押さえて、呻き声を上げる。
「ほら、言わんこっちゃねぇ。貫徹上がりで、腰に来てるじゃねぇか。無理せず今日はもう休めって」
キーリの呆れた声が響くが、ゴリドからすれば余計なお世話でしかない。
火吹き山の主殿からの最後の注文は、勇者のために一振りの剣を鍛えてくれとのことであった。
素材として提供されたのは、龍の玉鋼。
龍の体内で長い間、熟成されて出来上がる金属で、類まれな剛性と柔軟性を併せ持つ大変希少な金属だ。
しかも見た目は黒っぽい岩の塊のようだが、火に入れると独特の光沢を放つ特性まである。
神話や伝承の武器は、大抵これが使われていると言っても過言ではない。
その割には主殿の棲家の床に無造作に放置してあったり、触ると猫や鳥たちがバッチィとか言って逃げてしまったが。
それはさておき、ゴリドの職人魂は燃え上がった。
娘を急いで呼び出し、龍の火の力を借りて僅か三日で仕上げてみせたのだ。
その剣の出来栄を確認せずに、おめおめと休んでるなどあり得ない話だった。
「そろそろアタイに親方譲ったほうが、良いんじゃないのかい? 親父殿」
「ああ、そうか。わかったぞ」
「何がだい?」
「お前も子を持てば、今の俺の気持ちがきっと分かるはずだ」
ゴリドの唐突な指摘に、キーリの耳が赤く染まる。
「関係ねぇだろ、糞親父!」
「いいや関係おおありだ! だからお前はさっさと結婚しろ。早く俺に孫を見せろぉぉお!」
「うっせぇ!」
その後も親子は激しい言い争いをしながら、次々と骸骨どもをなぎ倒していく。
この口喧嘩は語り草となり、大戦英雄譚では必ず語られる一節となった。
それとゴリドが孫の顔を見れたのは、もう少し後の話となる。
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戦場の中心部へと向かう一群があった。
ほとんど足音を立てぬまま、男たちはスルスルと滑るように進んでいく。
途中、絡んできた骨たちは、無音の掌底一打で砕け散る。
彼らは激しい戦の場であると言うのに、ほぼ装備を身に着けず裸に近い状態であった。
そのせいで彼らの姿は、とても目立っていた。
正面に陣を張っていたのは、王都騎士団と南方辺境騎士団の敗兵たちである。
すでに南方の砦は、火吹き山から現れた魔王軍に、完膚なきまでに破壊しつくされてしまっていた。
そこに市民からの有志も加わった混成軍であったが、彼らの士気は驚くほど低かった。
地平線を埋め尽くす骸骨兵の群れに、黒の魔王という恐ろしい相手である。
兵たちの間には戦う前から、すでに負け戦のような雰囲気が漂っていた。
しかしそれは、たちまちの内に覆る。
信じられないことだが、亜人達が破竹の活躍を見せたのだ。
見事な弓の腕前で、骸骨どもは近寄ることさえ出来ずに砕け散る。
戦場を縦横無尽に駆け巡る黒の大剣使いが、骸骨共を枯れ草のように刈り取っていく。
大槌が唸りを上げ、三叉槍が事も無げに骸骨を一掃していく。
荒唐無稽な光景に、人々は最初は疑い次は驚き、そして最後は歓喜した。
その中でも特に人々が驚いたのは、素手で戦場を闊歩する一団であった。
武器を持たぬどころか裸体同然の姿なのに、彼らは凄まじく強かった。
近寄る骸骨どもは、何も出来ぬまま宙を飛ばされ地に伏せた。
その余りの強さに、彼ら豚鼻族の闘士たちは伝説となる。
特に腰に縄を巻いた大男は、一撃で骨を十体以上屠るその戦いぶりから、魔王大戦の最強議論では今も真っ先に名が挙がると言われる。
後にこの縄は増えて綱となり、オークたちの最強者にのみ許される装束となった。
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オークたちに守られながらサラーサ姫は、戦場の中心地である魔王の居る陣へと近づいていた。
すでに大勢は決しつつある。
平野中に散らばった骸骨は、綺麗に片付けられ栄養となって地面へ消えていく。
あとは無事に、この戦いの最大の見せ場である一騎打ちを演出するだけだ。
姫は雷光の剣と名付けられた片手剣を、軽やかに振って骸骨を仕留める。
この剣は見た目よりとても軽く、そのくせ切れ味は凄まじい。
しかも振り回す度に光を放つので、派手なことこの上ない。
「ぶひぃ。姫様、そろそろです」
「分かりました。後は任せてください」
「では、御武運を!」
オーク達が左右に別れ、魔王の周辺にいた骨どもを綺麗に片付ける。
戦場のど真ん中で、光放つ剣を構えるサラはトロールと向き直った。
体格差は軽く二倍近い。
太く肉が詰まった体に、恐ろしい膂力を秘めた手足。
灰色の毛に覆われた見た目は、恐ろしいながらもどこか愛らしい。
大きく黒い両目に耳元まである口、尖って飛び出した耳。
そして頭の上に乗ったままの真っ赤なヒヨコ。
黒いマントをなびかせるその姿は、怖いというよりも可笑しいであった。
だが恐怖で曇った目には、それはとても恐ろしく映る。
亜人たちも含め殆どの兵士たちが戦いの手を止め、二人の決着を固唾を呑んで見守っていた。
高まる緊張の中、サラは気合の込めた声を発しつつ大袈裟にトロールに切りかかった。
当てないように気をつけながら、なるべく格好いいポーズを意識する。
マシロ様の指示は、十合ほど打ち合ってくれとのことだった。
汗を流しながら、懸命にサラは演技を続ける。
トロールに怪我はないはずだが、その息は随分と荒くなっている。
終りが近づいているのだ。
そして唐突にトロールは、最後の叫び声を上げた。
長く哀しい咆哮が、平野中に響き渡る。
両の腕を天に差し伸べるトロールのポーズに、サラは声を張り上げた。
「滅しなさい。魔王!!!!」
両手で握りしめた剣を持ち上げ、光を反射させる。
その瞬間、マントの裏に隠れていた妖精猫が、王様の頭上からヒヨコを取り除いた。
結晶の効果が切れかけていたトロールには、それが止めとなった。
太陽の光がその身をゆっくりと焼きながら、石へと変えていく。
勇者の持つ雷光の剣の威光により、魔王は石へと転じた。
数秒の後に、地が揺らぐほどの大歓声が巻き起こった。
△▼△▼△
「何処へ行く気かのう? 宰相殿」
「こ、これは魔術士殿。どうしてここに?」
「まさかこの非常時に、責任者が王都を離れるとは言わんよのう?」
「いや、私は、その……王の、そう王の命令で東国に視察へ行かねばならんのだよ」
馬車の扉に手を掛けたまま、宰相は物陰から現れた王宮筆頭魔術士の問い掛けに慌てて答えた。
急がなければ魔王軍は、すぐそこまで来ている。
こんな所で老人と、かかずり合ってる場合ではなかった。
すでに馬車には魔王税で集めた私財が、積めるだけ詰め込んであった。
これ以上、この国に居残る理由など無い。
一刻も早くここから逃げ出さなければ全ては水の泡と化すというのに、全く気に留める素振りもない老人に宰相は苛立ちを覚える。
「そうか。私はそんな命令を出した覚えは全く無いのだがね、宰相よ」
不意に新たな声が、どこからか響いた。
聞き慣れた声に、宰相は驚いて目を見張る。
暗がりから歩み出てきたのは、紛れもないこの国の王その人であった。
その胸元には、青く小さな尾羽が輝いていた。
「馬鹿な! あなたは、立ち上がれぬ程の御病気だったはず……」
あり得ない光景に、宰相は思わず声を張り上げた。
「私の病状をよく知っているようだな。これは是非とも詳しく聞かせて貰う必要があるぞ」
「くっ、何をしている。さっさと馬車を出せ!」
宰相が御者を叱咤した瞬間、足元が大きく揺れる。
地面が大きく盛上がり、人の形となって立ち上がる。
現れたアースゴーレムは、馬車を軽々と持ち上げてしまった。
慌てて荷台から飛び降りる宰相と御者だが、地面についた瞬間、氷漬けになったように動きを止める。
その首元にはナイフを手にしたパペットが、いつの間にか取り付いていた。
「師匠、無事捕まえましたです」
「うむ、よくやったのう。シリン」
「あ、私も褒めてくださいよ~。お師匠様」
「頭の上に胸を乗せるのは止めて下さいです。姉さま」
じゃれ合う二人であったが、近づいてきた王に慌てて敬礼の姿勢を取る。
「二人ともご苦労だったな。いい後進が育っておるようで一安心だな、魔術士よ」
「ええ、自慢の愛弟子ですじゃ」
「羨ましいかぎりだよ。私にも……」
「大丈夫ですじゃ、きっと王にも、頼もしい後継が育っておりますぞ」
無断で逃亡しようとした宰相の逮捕により、彼と関わりを持つ者も芋づる式に収監される事となった。
これにより王宮に巣食っていた膿は、ある程度は吐き出されたとも言える。
全てがそう直ぐに、変わるわけではない。
しかし亜人たちの助けを借りて魔王に勝利したことで、王宮の政治は大きく舵を切り直すこととなった。
これを契機に、後に剣姫と呼ばれるようになるサラーサ姫を中心にして、王国はこれまでとは違う道を歩み始める。
しかしそれはまた別の物語である。
△▼△▼△
戦場から遠く離れた東の沼地の奥で、一人の老婆がせっせと草花の手入れに精を出していた。
背を曲げて雑草を摘み取るその背中に、誰かの声が掛かる。
「婆ちゃん、手紙をとどけにきたごブ」
「おやアンタかいって、声だけしてるけど姿が見えないね」
「こっちごブ、婆ちゃん」
見上げるとそこに居たのは、空を飛ぶ小鬼の姿であった。
「アンタ、いつの間に羽が生えたんだい?」
「そろそろ、下ろしてほしいごブ」
「ギャオギャオ」
ゴブリンの背中を掴んでいた妖鳥族が、パタパタと羽ばたいて地上へ舞い降りる。
「おやおや、可愛らしい鳥さんだね。パイでも食べるかい?」
「ギャオギャオ」
「婆ちゃん、これごブ」
「いったい誰からの手紙だい?」
「熊のけがわを着こんで、首にカーテンをまいた大おとこごブ」
ゴブチャックの言葉に、老婆は引ったくるようにして手紙を受け取る。
慌てて開き、急いで目を通し始める。
「…………元気でやってるようだねぇ」
「そうでもないごブ」
「ふむ、まあ良いさ。ちょっと待ってな」
家の中に入っていった老婆は、包みを二つ手にして出て来る。
「これが手紙で頼まれた竜狂いの薔薇の種だよ。温度変化に弱いから気をつけなと伝えておくれ。こっちは杏のパイさ、腹が減ったら二人でお食べ」
「ありがとうごブ、婆ちゃん」
「ギャウギャウ!」
パタパタと飛び去っていく二人を見送った老婆は、満足げにいつまでも空を見上げていた。




