第三話 黒犬の新鮮生レバー ~木漏れ日をスパイスに~
森とは素晴らしい環境です。
光を吸った樹々たちが育ち、その葉を地上へと落とす。
葉は小さな生き物に分解され、栄養となって樹々へと還元される。
さらに樹々は実りを付け、それを食べる動物たちを呼び寄せる。
それらの動物たちは新たな獣を招き寄せ、生と死が循環していく。
ここは生命の宝庫ですね。
それに加えて、見た目も大変素晴らしい。
鮮やかな緑の葉がもたらす癒し効果は、心を軽やかに安らげてくれます。
足元の苔もフカフカしており、踏み心地の良さは抜群です。
爽やかな空気もとても美味しい。
思わず深呼吸してしまうほどです。
うむ、空気を胸いっぱい吸うと大変良く分かることがあります。
私は猛烈に空腹だということが。
残念ながら空気でお腹が膨らむのは、一時的な作用のようですね。
だが息を大きく吸ったおかげで、気付いたことがあります。
匂い。大量の大型動物の臭気が、空気の中に入り混じってました。
森という環境で、集団行動が自然発生する可能性は極めて低いと考えられます。
これはつまりその集団形成に、人為的な過程が加わっていると見ていいでしょう。
飼育、と私は考察します。
ならばその飼育者との交渉次第で、食料を幾ばくか分けて貰えるかもしれません。
対価に差し出せる物を私は所持していませんが、幸いにもこの肉体は非常に剛健なようです。
労働を提供すれば、事は早く進むでしょう。
早速、向かうといたしますか。
幸い苔のせいで、歩きやすいですね。
しばらく進むと、臭いがきつくなってきました。
少し空気に喧騒が混じっています。どうやら揉め事が起こっているのかな。
おや、木陰に子犬が一人で座り込んでますよ。
飼い主は見当たりませんね。
それにしてもとても愛らしい犬だ。どれ一つ、可愛がってあげますか。
モフモフ、モフモフ。
「大変、可愛らしいワンちゃんですね」
抱き上げてみたら、結構軽いですね。まだ幼体だと判断できます。
それと震えが伝わってきます。ふむ、少し怯えているのかな。
あとちょっとジタバタしいてますね。それもまた愛らしいですが。
ほらほら、怖くないですよ~。ぺろぺろしてあげますよ~。
ぺろぺろモグぐしゃガリごりごりゴクリ。
はは、美味しいですな、ワンちゃん。
おや、木の向こう側にも大勢居ますね。
なるほど。大量に飼育することで仲間意識を育てつつ、外敵にも対応しやすくなる算段ですか。
こちらの子も随分と良い毛並ですね。
片手で抱っこできるし、こちらもまだ子犬なのかな。
ぺろぺろガリガリごきゅごりごくん。
おやおや、地面に寝そべって可愛らしい。
抱っこしてあげますよ。
ずりゅりガリごりムシャガリごくん。
うんうん、皆さん大変大人しいですね。きちんと躾けが行き届いているようです。
もぐむしゃゴクゴリくちゃくちゃごくん。
……。
…………。
………………。
……………………。
…………………………なぜ私は、犬を食べているのだ。
本能が理性を打ち負かすとはこの事か。
なんと情けない心持ちだ。
だが……。
しかし……。
それでも……。
途轍もなく美味い!
内臓から吹き出す血糊が、ねっとりと口の中に張り付いて旨みを引き立てます。
プリプリと柔らかいレバーは、仄かな甘みとえぐみが隠し味になってますね。
それに引き締まった背の肉と、コリコリした背骨の歯応え。
噛み締めるたびに犬の痙攣が感じ取れて、生きの良さがダイレクトに伝わってきます。
爽やかな木漏れ日を浴びながら、ホカホカと湯気の立つ内臓を食べる――なんと贅沢な逸品でしょう。
おや、どなたかいらっしゃるようですね。
もしかして飼育係の方でしょうか。
朝日に照らされた平原と同じ色の髪に、若葉色の瞳孔。それと上部に長く伸びた耳輪。
私の中にある知識が、彼女たちは長耳族だと教えてくれます。
こちらを、じっと見つめておられますね……。
速やかに謝罪せねばいけません。
犬をお返しして、愛想よく笑顔で誠意を示しましょう。
「無断で食べてしまい申し訳ない。これ、食べかけですがお返ししますね」
おや、エルフさんたちがいきなり横倒しに。
もしかして、かなりお疲れだったとか。
いや、飼育中の家畜を食べられてしまい、精神的な動揺を受けた可能性もありますね。
申し訳ない。心からお詫びします。
せめてもの償いに、食い散らかした犬たちはきちんと並べておきますか。
今は持ち合わせがないので、後日改めて謝罪と賠償にお伺いさせて頂きます。
む、なにやら濡れておいでですね。
これは植物繊維を縫合した衣服というものですか。非常に興味深いです。
ただ水分を含んだまま身に付けると、体調を崩される心配がありますね。
こちらの樹の枝にでも、干してさしあげましょう。
この気温ですから、遠からず乾燥するはずです。
それでは失礼いたしますね。
△▼△▼△
木漏れ日に優しく瞼をつつかれ、ラキルはゆっくりと目を開いた。
起き上がろうとして、自分が枝の上に横たわっていることに気付く。
何だか、とても悪い夢を見ていたことしか覚えていない。
瞳を上げると、同じように目を覚ましたらしい妹と視線がぶつかった。
なぜかお互いきまり悪そうな笑顔になる。
「おはよう、シラル。今日も絶好の狩日和ね」
「…………」
「どうしたの? 眉間に縦じわ寄せちゃって。婚期が百年伸びちゃうわよ」
鉄板のエルフジョークににこりともしない妹に、ラキルは訝しげな表情を見せる。
そんな姉に対しシラルは何も言わぬまま、そっと樹の下を指差した。
そこにあったのは、血だまりの中に整然と並べられた肉塊の列であった。
「………………夢にしたかったのに」
「無理よ、姉さん」
「ところでどうして私達生きてるの?」
ラキルはもっともな疑問を口にした。
「判らないわ。気が付いたらここにいたもの」
「確かあの化け物が近寄ってきて――駄目ね。そこまでしか覚えてないわ」
「私もそう。ほら見て、弓がそこに落ちているわ」
シラルの指差した木の根元に、愛用の長弓が置き去りになっている。
となると、やはり気絶したのはあそこで間違いない。
「じゃあ化け物がわざわざ、ここに上げてくれたってこと?」
「そうとしか思えないわね」
「何のために?!」
「……あとで食べようとして忘れてしまったとか?」
その言葉に顔を見合わせた姉妹は、慌てて身を起こした。
アレにもう一度出会ったら、次は正気を保てるとは全く思えなかった。
とはいえ御自慢の長耳には、それらしい気配は何一つ伝わってこない。
いつもの物静かな森の様子に、二人は顔を見合わせて小さく吹きだした。
そのまま耐え切れず、笑い声は次第に大きくなる。
何はともあれ、あの状況から生き延びたのだ。
しかも大量の黒狼の毛皮が、足下に転がっている。
こんな馬鹿らしい出来事を、笑い飛ばせずにいられようか。
ひとしきり笑い終えたラキルは、ふと狼どもの血の臭いとは違う独特の臭気の存在に気が付いた。
「一つだけ化け物が、私たちを見逃した理由を思いついたわ」
「教えてよ、姉さん」
「シラルのお漏らしの匂いが、嫌だったんじゃないかしら? あの化け物」
「……おしっこ漏らしたのは姉さんよ」
「はっ? あなたでしょ」
「だって姉さん、十五歳までおねしょしてたじゃない」
「それは今、関係ないでしょ! それを言うならあなただって十歳過ぎてもオムツだったし」
「そんな赤ん坊時代のこと、引っ張りだすのは卑怯じゃないかしら」
「あなたが先に言い出したんでしょ」
「それならこないだ姉さんが、蜂蜜酒を飲み過ぎて――」
「あの件を持ち出すなら、戦争しかないわよ!!」
エルフ姉妹の不毛な押し付け合いの決着はともかく、それからしばらくの間、西の森では化け物除けに小水を袋に入れて持ち歩くのが当たり前の習慣となった。
長耳族
森に暮らす長寿な種族。
五十歳で成人、三百歳を過ぎると半植物化して寝たきりになり、四百歳を超えると寿命を迎える。
隠れ里は寝たきりになった老エルフが大半なため、ほぼ老人介護施設となっている。
古代には千年以上生きる種族もいたが、祝福の地(高級介護施設)へ去ってしまい地上からは姿を消した。




