第二十一話 子猫ちゃんも危機一髪
暴れ風の荒野と、日干し砂漠の間に横たわる魔獣の密林には様々な噂がある。
曰く、狂った魔術士の塔がある。
曰く、恐ろしい魔獣が闊歩している。
曰く、森に入ると妖しい声が出ていけニャと脅かしてくる。
それらは全て、本当のことであった。
奇妙に曲がりくねる低木の間を、すり抜けるように小柄な影が走る。
両手両足を懸命に伸ばし小石や泥を跳ね飛ばしながら、その人物は息を弾ませて前へ進んでいた。
立ち塞がる倒木を飛び越え、垂れ下がる蔦を間一髪で掻い潜る。
後ろを振り返る余裕もなく、少女は一心不乱に逃げ続ける。
その背後から迫っていたのは、獣の荒い息遣いと地を蹴りつける蹄の音、そして空気を震わせる威嚇音。
不意に少女は、横っ飛びに進路を変えた。
寸前まで彼女が居た場所に、嫌な臭いのする液体が飛び散る。
みるみる間に白い煙を上げて、液体を被った立木が溶けて崩れ落ちた。
その様子に目もくれず、少女は一段と両足に力を込めて目的の場所を目指す。
ゴールは、もう間もなくだった。
追跡者の怒りが凄まじい咆哮となって溢れ出し、荒れ果てた森に響き渡る。
首をすくめた少女は、軽やかに地を蹴った。
そのまま太い枝や幹を続けざまに蹴り飛ばし、風を切って宙を駆けていく。
身軽に飛び跳ねるその直後を、獣の鋭い牙が何度も噛み合わされる。
木々をへし折りながら振り回された太い爪が、少女にあと一歩のところで空を薙ぎ払った。
すんでのところでその一撃を躱した彼女だが、空中でバランスを崩してしまう。
落ちて行く先に待ち受けるのは、最大限に開かれた獣の顎。
だが、ぎりぎりで少女は空中に留まった。
途中の枝に引っ掛けた尻尾で、その身の落下を喰い止めた少女は、反動でくるくると回転しながら見事な着地を見せる。
獲物を見失った追跡者だが、即座に三つの首を巡らせて少女の姿を捕捉した。
再び、地鳴りのような雄叫びを上げ、ぎらつく眼をぎょろぎょろ動かしながら牙を剥く。
「――――ここまでおいでニャ」
睨み付けてくる捕食者の視線に対し、少女は挑発の言葉を返す。
クルリと背を向けた少女は、その愛らしいお尻から伸びる尻尾を左右に振ってみせた。
捕食者は低い唸り声を上げる。
僅かな躊躇も見せず、獣は少女――見た目は猫そのものだが――に飛びかかった。
そして豪快に穴に落ちた。
蓋を偽装していた枯葉や枝が、派手に飛び散る。
魔獣がすっぽりと穴に嵌ったのを見計らって、周囲の木立から一斉に猫たちが顔を出した。
「かかったニャ! 今ニャ!」
一回り大きい黒猫の合図に、穴を取り囲んでいた猫たちは準備してあった岩を一斉に持ち上げた。
そして自分の体重の数倍はありそうなソレを、身動きが取れない魔獣目掛けて容赦なく投げつける。
鈍い音が鳴り響き、土煙が派手に舞い上がる。
埃が治まったあとに現れたのは、岩が積み上がって出来た小山であった。
先程の囮役であった少女猫が、岩山を軽々と登りあっという間に天辺に辿り着く。
頂上で得意げにくるくると回り始めた猫に対し、他の猫たちはぱちぱちと肉球を叩き合わせて拍手を送った。
「見事だったニャ、ジッタ」
「えっへんニャ」
「今回は念入りに穴を掘ったニャ。しばらくは出てこれないはずニャ」
木の後ろからぞろぞろと出てきた猫たちは、それぞれ岩山に登ったり毛づくろいをしたりと気ままに行動しだす。
この二足歩行する奇妙な猫たちは、妖精猫と呼ばれる種族である。
そしてこの呪われた森の守護者でもあった。
話は四十年ほど前に遡る。
当時、才知に溢れた若き女魔術士が居た。
牝鹿のようなしなやかな肉体を持ち、控え目ながらも強い芯を備えた乙女であった。
彼女はこの森に研究塔を作り、新しい生命の在り方について取り組んでいた。
ある日、新しい狩り場を探してた王が偶然、そこへ迷い込む。
二人の出会いは突然であったが、その後の成り行きは必然であった。
若き男女は自然な流れのまま恋に落ち、森の奥で逢瀬を繰り返した。
王には正妃と二人の王子が、女魔術士には婚約者が居たが、燃え上がった心の火は逆風にこそ熱せられていくものだ。
そして愚かにも、彼女は王の子を身籠ってしまう。
さらに不味いことに、彼女の父は当時の王宮筆頭魔術士であった。
王政を揺るがすことになりかねないと気づいた王は、腹の子を堕ろして欲しいと娘に頼み込む。
だが思慮深かったはずの娘は、思い詰めたあまり暴挙に出る。
知己であった薬師に頼み込み、王妃の暗殺を試みたのだ。
幸いにも未遂で終わったが、娘と王の不義が露見してしまう。
罪を咎められた娘は、森の塔へと立て篭った。
兵たちに取り囲まれる中、女魔術士は己の中の魔力を全て注ぎ込んで一匹の魔獣を合成する。
なぜそんな事をしたのかは、明らかにされていない。
王との間に生まれるはずだった赤子が、関わっていたのではとも言われている。
女魔術士は息絶え、獣は野に放たれた。
その獣は黄金獅子の顔と体を持ち、背には赤山羊の顔。
蹄を持つ後ろ足と緑蛇を尻尾として備えていた。
合成魔獣は山羊の脚で塔の側面を駆け上がり、たてがみを揺らして大きく咆哮した。
放たれた矢は、蛇の吐く毒で溶けて消えた。
それから王命により、多くの若者がこの獣に挑み退散した。
確かに魔獣は強かったが、何よりも厄介だったことは、その凄まじい再生能力であった。
何度首を切り落とし焼き捨てても、新しく生えてくるのだ。
事態がのっぴきならない状況になるなか、一人の若者が名乗りでた。
娘の元婚約者であった。
彼は単騎で森へ出向くと、数匹の魔獣を召喚した。
そして喚び出された妖精猫たちに、こう命じた。
「倒さなくても良い、あの危険な獣を足止めしろ。そして森に迷い込む者がいれば、速やかに追い返せ」と。
そして今日まで妖精猫はせっせと穴を掘り、魔獣を埋める日々を繰り返してきた。
数匹だった仲間を、数十匹に増やしながら。
不意に背後から響いてきた下生えをかき分ける音に、黒猫は耳を持ち上げた。
同時にニーニーと口々に騒ぐ、子猫たちの鳴き声も聞こえてくる。
何かの大きな気配が、ここに近づいていた。
「なっ、何事ニャ!」
木々を押しのけて現れた存在に、背中の毛を逆立てていた猫たちは一斉に飛び上がる。
それはこれまで見たこともない異形であった。
熊のような体つきで、全身が灰色の毛に覆われている。
真っ黒で大きな目、ピンと突き出した長い耳。
耳元まである口からは、だらだらと涎が溢れ出していた。
そしてその脚やマントにしがみつく数匹の子猫。
「隊長、この人ゆうこと聞いてくれないニィ!」
「全然、止まらないニィィ」
「爪が引っかかって、取れなくなったニー」
木立に隠れて震える猫たちは、その謎の存在が子猫をズルズルと引き摺ったまま、埋め立てたばかりの岩山に近づいていく様を見つめる。
太い腕が岩たちを、小石のようにあっさりと取り除いた。
岩の下の存在が身動ぎした気配を感じ取った黒猫は叫び声を上げた。
「子猫を助けるニャ!」
その掛け声に、猫たちは一斉に飛び出した。
同時に岩を押しのけて、緑の蛇が頭をもたげた。
猫たちは一斉に、元の場所へ飛び退った。
「蛇は苦手ニャァァァ!」
だが威嚇音を止めた蛇が大きく仰け反ったのを見て、黒猫は再び木陰から飛び出す。
しかしキジトラ猫のジッタのほうが、さらに速かった。
閃光のよう走り抜けたジッタが、子猫たちを抱えて引き剥がそうとする。
だが怯えた子猫たちが、あらん限りの力でしがみつくせいで動きが止まってしまう。
合成魔獣が溶解毒を吐き出す寸前、黒猫隊長はジッタごと子猫たちの上に覆いかぶさった。
覚悟して目を固く閉じていた隊長だが、一向に体が溶ける気配がない。
薄っすらと目を開けて、頭上を見上げた猫は驚きのあまりヒゲを最大限に伸ばす。
「ニャンてこった……」
蛇はその首根っこを、がっつりと掴まれてた。
毒液を吐き出せず口を虚しく開くだけの蛇の頭が、さらに大きな口の中に消える。
頭部を噛み千切られた蛇が、力を失い地面へと倒れ伏した。
今度は続けざまに獅子の爪が、地中から突き出された。
謎の存在はそれをやすやすと受け止め、へし折りながらもぎ取る。
合成魔獣の腕もまた、大きな口の中へ消えた。
たてがみが毟り取られ、山羊の顔が捻り取られる。
獣の全身がバラバラに引き裂かれ、それら全てが喰らい尽くされていく。
自らを縛る鎖であった存在が、何者かの胃の腑に消えていく有り様を猫たちは呆然と眺めていた。




