第一話 ある日、空から月の欠片が落ちてきて
王国の西の地、広大な麦畑の海原を進むと、黒樫が生い茂る深い森へと行き当たる。
恐ろしい獣が棲まうと言われる森をさらに抜けると、そこには無残に地肌を晒すハゲ山がそそり立つ。
その山はかつて裾野まで豊かな緑に覆われ、樹々たちを潤す清流が湧き出る美しい景観を誇っていた。
ある日どこからか、一匹のトロールが現れるまでは。
飢えた化け物は、その地の獣と鳥と魚を片っ端から貪り、仕舞いには樹をかじり泉を全て飲み干してしまった。
もしもトロールに陽の光を浴びると石になってしまう体質がなければ、今頃この世界は化け物に全て食べ尽くされていたかもしれない。
いつとはなしに西の森の先に高々とそびえ立つ丸裸の山は、全てを喰らう化け物にちなんで丸呑み山と呼ばれるようになった。
そして伝説となったトロールは、今も腹をすかしてその山中をうろついていると云われている。
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トロールは弱り切っていた。
もう長い間、まともな食事をしていないのだ。
山にあったあらゆるものを胃袋に収めてしまった今、鳴り続ける腹を満たすものはもう何も残っていなかった。
麓に広がる森に辿り着けさえすれば、たらふく喰らうことも出来たのだろう。
だが鈍重なトロールでは、山頂の巣穴から山裾へ下り終える頃には、明けの明星が地平線から顔を出してしまう。
陽の光を恐れて途中で引き返す日々であったが、ここ数年は腹が減りすぎて身動きが取れずそれさえも出来ない有り様になっていた。
空腹のあまり唸り声を発しながら、トロールは洞窟の壁をむしって土くれを口に運んだ。
ガリボリと小石を噛み砕くが、まったく腹の足しにならないので大きく息を吐く。
腹ぺこで動くのも億劫だったが、洞窟の土の味気なさには我慢の限界が来ていた。
トロールはのったりと寝返りを打ちながら、巣穴の外へとゴロンゴロンと転げ出る。
頭上に広がるのは満天の星空。
小さく瞬く星明かりを見上げながら、トロールは大きく口を開けた。
あのキラキラしたのが落ちてこないかと。
食欲に全てを占められたトロールの頭では、空や星のなりたちなど全く理解できなかった。
上の方で光っているものであって、想像を絶する彼方からの遠い過去の光であるとは分かるはずもない。
そもそもトロールにとって、高さや距離とは腕を伸ばして届くかどうかであり、物とは美味いか不味いかの二つでしか判別できなかった。
ぼんやりと夜空を眺めていたトロールだが、待つのに飽きたのか馬鹿でっかいイビキをかき始めた。
このまま朝を迎え陽光を浴びれば石像になってしまうのだが、もはや気にする素振りもない。
大きく口を開けて、鼻提灯を膨らませながら気持ちよさ気に眠っている。
優しい光を投げかけていた満月が、不意に揺らめいた。
雲一つない真っ黒な夜の帳の上に、ぽつんと淡い輝きが浮かび上がる。
輝きは月を背景に、雨雫のごとく大地へと向かい始めた。
それは哀れな化け物を思いやる、月の涙のようにも見えた。
柔らかな灯火は時間を掛けて、ゆっくりゆっくりと地上へ落ちてくる。
やがて光の粒は、ハゲ山の頂へとふわりと舞い降りた。
そして寝息を立てるトロールの口へ、すっぽりと吸い込まれる。
数分の後、光を飲み込んだトロールは唐突に起き上がった。
きょろきょろと辺りを見渡してから、大きく伸びをして空を見上げる。
長い間、食い入るように夜空を眺めていたトロールだが、不意に感嘆の吐息を漏らしながら声を震わせた。
「…………これが宇宙というものか。なんと広大で美しい」
しかしその呟きは端で聞いているものが居れば、ただの唸り声としか捉えられなかっただろう。
トロールの発声器官は、複雑な言語を操るにはあまりにも向いていなかった。
次にトロールは頂の縁に立ち、外界の見晴らしを堪能する。
夜明けが近づいていたが、トロールは全く意に介さない。
それどころかどっかりと胡座をかいて、眼下の風景をじっくりと楽しみ始めた。
闇が少しずつ溶け去り、色を取り戻していく世界。
程なくして東の地平線から朝日が顔を出した。
広大な平原が、黄金色に輝き始める。
ぐぎゅるるぅるるぅるるぅ。
夜明けを称える腹の虫が、高らかに声を上げた。
日光を克服したトロールは立ち上がると、心の底から湧き出た思いを声に変える。
「本日は快晴なり!」
もっともその叫びは不気味な遠吠えとしか、聞こえようがなかったが。
満足したトロールは腹の虫をなだめるために、ゆっくりと山を降り始めた。