惚れ薬
「皆、今日は野々浦さんからお話があるそうだ」
担任に促されて、野々浦さんが教室の前に立つ。いつもは聞き流すホームルームだが、野々浦さんと聞いて姿勢を正す。野々浦さんは長くふわっとした髪を一撫でし、眩しいばかりの笑顔で言った。
「私、野々浦美晴は今月いっぱいで転校します!」
勢いよくお辞儀した拍子に教卓に頭をぶつけ、野々浦さんがふらふらとその場に座り込む。相変わらずの天然ぶりだが、今はそれに癒されている場合じゃない。
学園一可愛くて天然で優しい女子、野々浦さんを好きな奴は沢山いる。彼氏になりたいとは思っても、どうせ叶わないだろうと思っていた。なのに、転校すると聞いたら急に言いようもない焦燥が湧いてくる。
まだ三回しか挨拶したことがないのに、転校だなんて。
俺は一体どうすればいいんだ。
絶望に打ちひしがれたまま1日を過ごし、掃除が終わった頃を見計らって教室に戻ってみると、まだ机から椅子がさがっていなかった。自分の机の分だけ下げようと手を伸ばすと、先に椅子をつかむ手があった。
「ごめんね黒沢君。今椅子下げるからね」
野々浦さんだった。相変わらずきらきら眩しい。
「あっ……うん」
そう返すのがやっとだった。野々浦さんは慎重に椅子を下ろした。
「ふう、やっと成功した!」
今までどんな失敗をしてきたのだろう。野々浦さんは友人のもとへ駆けていく。
「今度は天井に刺さらなかったよー!」
天井を見上げると、椅子が刺さっていた。
「鉄義、俺の椅子知らねえ?」
後ろから名を呼ばれる。振り返らずとも誰かは分かっていた。イケメンだ。
俺は黙って天井に刺さった椅子を指差した。硬直した気配がした。
「鉄義……なんでいつも俺ばっかりこんな目に遭うんだと思う?」
「知るか」
正直俺の方が知りたい。このイケメン香住誠二は、顔は勿論性格も良く男女問わずの人気者だ。なのに昔から運が無い。驚異的に不運に恵まれ過ぎている。
「俺部活行くからな。ついてくんなよ」
「それはいいんだけど、鉄義お前どうすんの?」
「何が」
「野々浦」
「どうするも何も、俺なんか最初から釣り合わないし……根暗で前髪長くてふた月に一度ペースで女子と会話するような科学オタが、あの野々浦さんとだなんて、想像するのもおこがましい……」
「とか言う割にちゃっかり妄想してんじゃねーか」
「馬鹿お前それ俺のノート!」
香住が広げたノートには、授業中に書きためていた野々浦さんと話したいことしたいことリストがノートの本文を避けて細々と散りばめられている。
「途中で化学式とか構造式になってるとことかお前らしいというか……あっ」
不意をついてひったくる。
「お前みたいなイケメンには俺の気持ちなんて分かんねーよ」
「……野々浦とタンポポ畑で散歩」
「ああああああ!っくそ、お前はいいよな。声かけるだけで過程すっ飛ばしてラブホ行きだもんな!見下しやがって!」
「被害妄想にもほどがあるぞー」
「うるせーばーか。非童貞は近寄るな。二度と俺に話しかけんじゃねえぞ
」
ノートを抱きかかえ鞄を手に持って教室の出口へと向かう。
その間際、見てしまった。
振りかぶったた格好の野々浦さんと、頭に椅子が刺さった香住。そして。
「きゃー!すっぽ抜けちゃったー!香住君大丈夫!?」
野々浦さんの声が響く。この流れは保健室まで連れてくあれだ。
……結局役得じゃねえかイケメンめ。
理科実験室で、科学部の部活は行われている。部員は3人、うち1人は幽霊なので実質は2人だ。活動内容は比較的自由だが、月に一度テーマに基づいた実験レポートの発表を行うことになっている。薬品類は顧問がいるときにしか使えないことになっているが、余裕で無断使用を行っている。
実験器具を組み立ててピペット操作をしていると、窓際から外を歩く野々浦さんの姿が見えた。遠くからでも、まごうことなく可愛い。
「ちわーっす」
扉が開く。後輩の文山だ。後輩とか最初はどうでもよかったのだが、文山は割と適当な性格で意外に話が合うので珍しく気に入っている。先月のニュートンについての議論でも持ちかけてみようか。
そう思って口を開くが、直後に現れた人物を見て息を深く吐いた。
「っす」
文山に続いて実験室に入ってきたのは、小柄で野生動物のような目をした奴だ。そいつは、科学部ではない。文山の友人ってだけで科学部に入り浸る害虫のような奴だ。
「……文山。部外者は部活に連れてくるなと言っただろう」
「いーじゃないすか。先生もいませんし、第一黒沢先輩だって香住先輩連れてくるときあるじゃないすか」
「あれは香住が勝手についてくるんだ」
「こっちも綾瀬が勝手についてくるんすよ」
「駄目だ駄目だ駄目だ!香住ももう入れないようにするから、そいつをもうこの神聖な実験室に入れるな!」
「つーか、黒沢先輩さぁ」
髪の先をいじくりながらという馬鹿にしきった動作をしながら、綾瀬が口を開いた。
「実験室を自分のものとでも思ってんの?そりゃー先生に言われれば俺だって出てくけど、黒沢先輩にはそんなこと言う権限ないでしょ?部長は一応先輩じゃなくて三年の幽霊部員になってるんだし」
一度も俺を見ずに綾瀬は言った。そして文山に向き直る。
「今日は何実験すんの?」
「おい!まだ話は終わって」
「いいじゃないすか、黒沢先輩。綾瀬はただ見てるだけなんですし」
文山に言われて黙り込む。そう、確かに綾瀬は一切器具や薬品に触れずただみているだけだ。だから、本当はそんなに追い出す理由はないのだ。
ただ!バドミントン部所属でスポーツ万能という属性が、徹底的に気にくわないだけだ!
しかもクソ生意気。なのに何故か周りから好かれるという。俺の大嫌いなタイプだ。
「先輩、野々浦先輩見てたんすか?」
いつの間にかそばに綾瀬がいた。窓下の野々浦さんを見下ろしている。そして、浅く笑う。
「もしかして、好きなんすか?」
「……っ……」
「あ、そうなんすか。まあ気持ちは分かりますよ。可愛いですよね。でも……」
「なんだよ」
綾瀬は俺をじろじろ見て溜め息を突いた。
「俺が先輩だったら、惚れたことを謝るね。髪はぼさぼさ、眼鏡は曇ってる、女子とうまく話せない。絶望的だ」
「なんで俺が女子とうまく話せないこと知ってるんだ!」
「……うわ、適当に言ったのに当たっちまった」
しまった。墓穴を掘ってしまったか。
「ま、悔しかったら彼女でも作ってみたらどうですか?後輩に言われっぱなしは嫌でしょ。髪切って眼鏡取れば可能性がマイナスがゼロくらいにはなるんじゃないすか?」
そのとき、俺の中で何かがはじけた。
化学式、構築、イコール。ノートを開いて書きなぐり、実験をする。綾瀬の小憎たらしい顔と、野々浦さんの愛らしい顔が交互浮かんでは消えた。
そして一週間後。
俺の目の前には……。
「先輩……大好き」
とろけきった目をした綾瀬がいた。