第一章 五分前に世界ができた、としたら
夕焼けがきれいだ。
わたし、哲原愛智は、旧校舎の窓でたたずんでいた。
先生から頼まれた荷物を旧校舎の物置にしまい、これから帰るところだ。
木造建築である旧校舎は、夕焼けの赤い光に照らされ、奇妙な影をつくる。ここは、授業では使われていないが、ほとんどの部活はここの教室を部室にしている。
ちょっと見ていこうか。
この学校にわたしが入学してから一ヶ月ばかり経った。なにか部活をやろうと思っていたが、決心がつかず時間ばかりがすぎていた。いま、その決心をするべきときかもしれない。
ちょうどいい、部室を見て回ろう。運動ができないから運動部より文化部に入ったほうがいいだろう。
廊下を歩くと、物置部屋の密集地帯から部室地帯に移る。このあたりは、旧校舎のなかでも奥まったところにあり、マイナーな部活が集まっている。
その一つの部室に、電気が着いていた。表示板を見ると『フィロソフィー倶楽部』と書かれている。
フィロソフィーってなんだっけ。そんなことを考え、部室の前に立ち止まっているうちに、中から声がかけられた。
「そんなところに立ってないで、中に入りなよ」
半開きにされたドアの隙間を覗く。中には、美少年が座っていた。
あれ、この学校、女子高だったよね。そう思って、美少年を見ると、なんと、わたしと同じ制服を着ている。女の子だったのか。
「どうしたの、そんなにまじまじと見て」
「ごっ、ごめんなさい。あんまりカッコよかったものですから」
あわてふためいて、正直に言ってしまった。
「ありがとう、ところで、キミは入部希望者かな?」
「い、いえ、ちょっと気になったもんですから」
「ああそうか、まあ、そこに座って、お茶ぐらい飲んでいってよ。いまはボク一人だけど、あと少ししたらもう一人来るから」
言われるままに椅子に座る。
「ボクの名前は観音獏、二年生だ。キミは?」
「一年生の哲原愛智です」
「愛智ちゃんか、いい名前だね。フィロソフィーの語源だよ」
初対面の人にちゃん付けで呼ばれると、こそばゆい気分だ。そういえば、フィロソフィーとはなんだろう。
「ところで、フィロソフィーってなんですか?」
聞いてみることにした。
「ああ、やっぱり分かりにくかったかな。哲学のことだよ。語源はギリシア語で『知を愛する』とかそういうものなんだ。素直に哲学部にしたほうがいいと思ったんだけど、フィロソフィー倶楽部で登録されているからね、変えるのも面倒くさいし」
哲学か。それにしても、哲学とはなんだろう。自分のイメージだと、昔の人が書いたものを頭にしわを寄せながら読む学問というイメージがある。
そのことを観音に言うと、彼女は微笑した。
「まあ、確かに哲学の一面にはそういうこともあると思うけど、ボクの思っている哲学はそうじゃないな。ボクのイメージだと、哲学とは果てしなく粘り強く考えることさ」
「粘り強く、考える?」
これまた抽象的な答えだ。
「うーん、そうだね。よし、具体的にやってみよう。例えば、こんな話がある。キミは、この世界すべてがいまから五分前にできたと聞いたら、どう思うかい?」
「世界が五分前にできた?」
五分前といえば、旧校舎の物置に荷物を置き、窓から夕焼けを見ていたときぐらいだろうか。当然のことながら、世界はその前もあったはずだ。現に、わたしは昨日食べた夕食を覚えている(鮭のムニエルだった)し、わたしがいま持っているスマホの中には、五分以上前に撮った写真がある。
そんなことを先輩に話した。彼女はそれを聞き、ゆっくりと首を振る。
「そんなものは、証拠にならないんだ。キミが昨日鮭のムニエルを食べたという記憶、その記憶自身が五分前に突如として現れたのかもしれない、写真だって同じことさ、あたかも、五分以上前が存在するかのように、五分前に写真が現れたのさ。いや、五分前ですらないかもしれない。ひょっとしたら、記憶や写真は、キミがそのことを思い出したときに、この世界に出現したものかもしれない」
それはちょっとした恐怖だ。わたしは、五分以上前の記憶を次々と思い出した。幼稚園の頃のおぼろげな記憶から、先生に旧校舎へ行ってくれと頼まれた最新鋭の記憶まで。また、スマホに指を滑らせ、過去の写真を実際に見た。それは確固としてそこにあった。でも、先輩の説が正しければ、それらは五分前、あるいはいまこの瞬間に出現したものなのだ。五分以上前に世界が存在したという証拠にはならない。
「それじゃあ、科学的事実はどうですか? 例えば、マンモスの化石とか、あと、すっごい遠くの星を見れば、光が地球に来る前に時間が経つので、過去を見れるということを聞いたことがあります」
わたしは、科学の権威を借りる戦法に出た。あいにく、それでも先輩の説を破ることはできなかった。
「科学的証拠も、さっきの記憶や写真の場合と同じだよ。その証拠も含めて、五分前に世界が誕生したんだ」
「でも、そんな説。論理が通りませんよ」
「論理か、ところが、そうではないんだな。五分前に世界が誕生したという説は、論理的には破綻しているわけではない」
「論理的な破綻?」
「ある説が内部で矛盾していたときには、その説の論理が破綻しているといっていいよね。例えば、ある説の結論で『コウモリは獣だ』というものと『コウモリは鳥だ』というものが出ていたとしよう。そのとき、その説が『獣』と『鳥』のメンバーは絶対に重複しないといえば、論理的に矛盾していることになるよね。さて、ここで、世界五分前誕生説は、論理的に破綻しているかな?」
こんなとんでもない説、すぐに論理的な破綻が見つかるだろう。わたしはそう思った。
「そうですね、五分前に世界がなにもないところから誕生したんですよね。そんな途方もないことを考えるのは矛盾してませんか?」
「いや違う、それは論理的な矛盾とは言わないんだ。キミは五分前に世界が誕生したということを考えられるよね。考えられるということは、そこに論理的な矛盾はないということだ。ボクたちは論理的矛盾があることを考えられない。例えばキミはAかつAではないという状態を考えられないだろう」
そうか? そのことはちょっと引っかかる。
「そうですかね。ひょっとしたら、考えられるかもしれませんよ。例えば、先ほど先輩が例に出した説ですが。『コウモリは獣だ』と『コウモリは鳥だ』を両方主張して、なおかつ獣と鳥のメンバー重複を許さないという主張を自分がするということは、ちょっとキツイですが、考えられないことではないでしょう。この例が考えられないというなら、もっと複雑な説にしたら論理的に矛盾したことでも考えられるようになるんじゃないでしょうか」
先輩はちょっと考えたようだ。
「いや、それは違うよ。その場合は、矛盾したことを考えているのではなく、矛盾している部分があることを忘れているだけだよ。矛盾した説は考えられないというのは、あくまで、説全体を考えるときのことを言っているんだ」
「でも、そんな言い方では、曖昧なんじゃないですか」
「そうかもしれない。よし、こう言い直そう。ある説が論理的に矛盾しているということは、その説が成立している世界を考えることが原理的にできないときである。これでどうだ」
「原理的に、考えることができない? どういうことです?」
「例えば、キミは豚が空を飛ぶ世界を想像できるよね、その世界は論理的な矛盾がないからだ。一方、豚が四本足をしており、かつ、六本足をしている世界は創造できないよね。もし四本足なら六本足ではないからだ」
「わかりました、それならば、五分前にできた世界というものを考えられるから、それは論理的には矛盾していないということですね」
「うん、そういうことだ」
さて、論理でせめてもダメならば、どうしよう。そうだ、これならばどうだろうか。
「思ったんですが、もし、本当に世界が五分前に誕生したとしても、それを証明することはできませんよね。そのような主張をするのは、意味がないんじゃないでしょうか」
「たしかにそうだね。けど、それは世界が五分前も存在しているという説に対してもいえるんじゃないか。例えば、地球の全人類が世界が五分前にできたと信じている世界を考えよう。人々は、こっちの地球と同じ証拠を得るが、それがすべて世界五分前誕生説を強めるものだと結論付ける。もし、それに反対する者がいれば、世界が五分以上前に存在するということは証明できないと言うんだ」
奇妙な世界だ、そんな世界で人々は日常生活というものを送れるのだろうか。日常。そうだ、この方向で行けばいいんじゃないか。
「そうですね。あの、例えば、『手がある』といった言葉使いを日常的にするとき、『五分前には手がなかった』ということを前提にするなんてことはありませんよね。『スマホがある』とかもそうですよね。あと、『わたしは十五年前に生まれた』なんかも、『わたしが十五年前に生まれたかのように世界が五分前に誕生した』という意味が入っているわけじゃないですよね。そのような言葉使いをしている以上、世界五分前誕生説は間違っているんじゃないでしょうか」
「日常的な言葉使いから攻めてきたか。けどどうだろう、それがほんとうに世界は五分前に誕生したという説を否定することになるんだろうか。さっき言った世界の人々は、『わたしは十五年前に生まれた』という言葉を言うとき、『わたしが十五年前に生まれたかのように世界が五分前に誕生した』という意味を含めているんだ。その世界の言語は、そのような意味を含めるほうが単純な形をしており、逆に五分以上前に世界があったと主張するのは複雑な構文を作らなきゃいけないんだ。そんな世界では、世界が五分前に誕生したということは、自明だ。では、ほんとうのところはどうなんだろう。愛智ちゃんの主張では、人々の言語がどうであるかということが、世界がどうであるということに影響を与えるということになるね。それは違うんじゃないかな」
「うーん、でも、先輩の言う世界の人々は、もしそのような意味で言葉を使っていたならば、わたしたちとだいぶ違う生活を送らなければならないんじゃないですか。五分以上前のことを考えるとき、いつもいつも、そこで世界ができたと考えなくてはならないんですよ。そう考えることが単純である言語を使っていれば、生活や信念、行動なども、わたしたちとは大きく異なる人々になるでしょう。でも、わたしたちはそうではないんです。わたしたちのような、信念や言葉、行動をしている人々は、五分以上前にも世界があったと信じることが合理的なんじゃないでしょうか」
「ほほう、ほんとうに五分前に世界が誕生したのかは別として、ボクたちが持っている信念や行動や言語の組み合わせからすれば、五分前にも世界があったと信ずるべきだということだね」
「うーん、そうですね。ほんとうに五分前に世界が存在するということを主張したかったんですが、弱い主張を出さざるをおえませんでした」
「そうだね、合理性を超えて言ってみるけど、ほんとうは世界は五分前に始まったのかもよ」
「うー、先輩、怖いことを言わないでくださいよ……」
そんなことを言っていたら、部室のドアが開き、背の高い人がやってきた。
「あら、めずらしいですのね。新入生の方かしら?」
流れるように長い黒髪を撫でる。入ってきた人は、一目見てお嬢様オーラがまとわりついていた。
「いや、興味があって見学したいらしい。教国、おまえも座れよ」
「はじめまして、わたくし、教国と申しますわ」
参考文献
野矢茂樹著 『哲学の謎』 講談社<現代新書>、1996年