バスター・ブレード(1)
改行、表現その他、読みやすく直しました。(2016.8.12)
青々と生い茂る、だだっ広い草むらには、ひとつの人影があった。剣の素振りをしている少年の姿である。
夕日に照らされた彼の白い肌は、日に灼けていた。
新しい剣を手にしたのは、何度目だろうか。彼は、とても幼い頃から剣と共に生きていた。
物心ついた頃には、既に小さな短剣を手にしていたし、幼い頃から一緒に旅を続けている戦士からは、剣の扱いを始め、様々な武道を伝授されてきた。
その男のくれる剣は、彼の成長と共に、徐々に大きく、そして、重い物へとなっていった。
今、手にしている剣も、とても一五歳の少年が持てるようなものではなく、一人前の戦士たちが使う、大きく重い長剣――ロング・ブレードであった。
少年は、汗だくになった額を腕で拭い、夕日に剣を翳してみる。
剣が夕焼け色に染まるのを、鼓動を高鳴らせながら、見ていた。
彼は、こうして刃の輝きを眺めるのが、とても好きだった。
新しく、まだ何も斬っていない剣の輝きはもちろんのこと、使い込んだ剣というのも一層磨きがかかって美しい。
それらの刃に染み込んでいるものは、決して清らかでも、美しくもなかったはずだった。
罪もない人々を脅かす野盗のものであり、時には、いくさでの敵方の兵士のものであり――。
一五歳の若さにして、既に傭兵として生活していた彼は、敵とはいえ、同業者に対しては、なるべくなら命を奪わないで済むよう、常に加減してきた。野盗に対しても、むやみに殺さぬよう心がけてきていた。
それは、彼の師匠兼父親代わりの男の主義でもあったのだが、近頃の彼の信念にもなってきていた。
「おーい、ケイン、晩飯だぞー」
その男が、遠くから呼びかけている。待っていたとばかりに、少年は家へ駆け込む。
「今日は、トリのいいのが安く手に入ったからな、肉屋のオバちゃんに、作り方聞いて、やってみたんだ」
背の高い、日に灼けた浅黒い肌の、黒い長髪の男は、きつく見える顔立ちを無邪気にほころばせていた。
「『トリの香草焼き』とかいうらしいぜ」
彼とは対照的な少年は、群青色の大きな瞳を持ち、まだ幼さを残したかわいらしい顔を上げた。
「ふ~ん、レオンに、そんなの作れたんだー?」
「なんだと、こいつ!」
男は、少年の首に両腕を巻き付け、少年は、それをほどこうと身をくねらせる。
二人は、じゃれ合いながら、木で出来た小屋のような家に入って行く。
つい最近までのいくさも終わり、しばらくこの家に住むことにした二人は、いつも交替で食事を作っていた。
「ここチュイルの町はいいなあ。俺は、余生はこういうところで送りたいと、ずっと思っていたんだ」
レオンは、正面の窓の外に広がる長閑な風景を眺めながら、野菜のぶつ切りの入ったスープを啜った。
「なーにが余生だよ。レオンはまだまだ現役でイケるじゃないか」
ケインは、竃で焼いたトリの肉をムシャムシャ食べながら、笑う。
「そうは言うけどなあ、お前が成長してるってことは、俺も年を取ってるってことだ。俺は、もう四一なんだぜ。こんなトシになってまで傭兵なんかやってるヤツなんて、いやしねえよ」
そうはいうものの、彼の肉体は常に鍛え上げられていたため、九年前のあの出会った時と、さほど変わっていないとケインは思っていた。
「傭兵を辞めたら、どうするんだ?」
何気なく尋ねるが、ケインが、レオンの言葉を本気で受け取っている様子はない。
「そうだなあ、所帯でも持てば良かったんだろうが、お前がいて淋しくなかったし、女とは、あんまり縁がなかったもんだから、つい結婚し損なっちゃったなあ」
彼は笑うと、トリにかじりついた。
口で言うほど、彼がもてなかったわけではないことを、ケインは知っていた。
傭兵の女戦士や町の娘など、彼に憧れる女性は、ケインの知る限りでは意外といたように思う。
だが、彼の方が、彼女たちを受け入れることはなかったのであった。
ケインは、以前から聞いてみたかったことを、思い切って切り出してみることにした。
「なあ、レオン、……レオンには、昔、将来を誓った相手っていうのがいたんだろ? その人は、どうしちゃったの?」
瞬間、レオンのケインを見つめる瞳が、真剣になった。
聞いてはいけないことだったのかも知れないと、ケインは咄嗟に感じたが、切り出してしまったからには、もう後には引けなかった。
レオンの方は、ケインが気遣うほど気分を害した様子もなく、ただいつもの砕けた調子ではないことは確かであったが、静かに口を開き始めた。
「……そうだな。俺の帰りを待っていてくれたには違いないんだろうが、ちょっと帰りが遅くなっちまったからなあ。村には、もう彼女の姿はどこにもなかったんだ。彼女どころか、村のやつらのほとんどがな」
どうやら、以前、傭兵仲間たちが噂していた通りらしいと、ケインは思い出したていた。
「俺と一緒に行くと言っていたが、とても危険な旅になるのはわかっていたからな、彼女を連れて行くわけにはいかなかったんだよ。『一年で戻る。そうしたら、一緒になろう』と約束して、俺だけ村を出ていったんだが、――こいつを手に入れるのには、三年もかかっちまったんだ」
レオンが近くに置いてある剣――いつも背中に背負っている大きな剣をケインに見せるように持ち上げた。
「それって、……普通に鍛冶屋で作ってもらったわけじゃなかったんだ?」
ケインの言葉を聞いて、レオンは微笑んだ。
「鍛冶屋が作ったには違いねえが、この剣は、そこら辺のやつらが作れるもんじゃねえ。はるか北の果てに住む『モベット族』が作ったもんなんだ」
「モベット族?」
ケインが首を傾げて、レオンを見直す。
「白い毛皮に覆われた巨人族さ。俺よりも、頭二つ分くらい、デカかったなあ」
レオンはさらっと言うが、ケインは驚いて口を開き、信じられないという表情で、彼を見つめていた。
「ま、早い話が、ヒトの持つ剣じゃねえわけよ、これは」
レオンが、刃を軽く叩いてみせた。
「傭兵になる前、俺は、ある村の武道の達人のところにいた。村の魔道士のじいさんが、神のお告げだとかなんとか言って、この巨人族の剣のことを、しきりに話していた。
まともに請け合っちゃいなかったが、ある時、通りすがりの旅人から、北の果てに迷い込んだ時、雪の中で白い巨人を見たと言っているのを聞いた。魔道士のじいさんが言っていたのと同じような姿格好のようだった。
となると、爺さんの言っていた通りの剣――魔物をも打ち砕くという、この世で最強の剣も、そこにあるんじゃないかって、俺は思った。
俺の師匠や、兄弟同然に育った同じ門下の奴等にも、当然止められた。
もちろん、彼女も大反対だった。
だが、俺の武道家としての血が、なんだか騒いでしょうがなかった。その剣を手に入れるのが、まるで俺の宿命のような――!
俺は、普段は、占いや迷信なんて信じない方だったんだが、その時ばかりは、運命を感じずにはいられなかった。
そのうち、彼女が折れてくれた。俺がそこへ行くのを許してくれた。
そして、その数日後、皆がまだ寝ていた明け方に、俺は彼女に見守られて村を抜け出した。『帰ってきたら、一緒に暮らそう』――そう約束してな……」
レオンは木の実酒を器になみなみ注ぐと、その半分くらいを一気に飲み干した。
ケインも、少しだけ、器の酒に口をつける。
レオンは、ケインに聞かせるというよりは、殆ど独り言のように、遠くを眺めながら、語り始めた。
凍りつくような風が、若い男の身体を吹きつける。大分、北の方角に来たらしい。
彼は馬上でマントに一層包まった。
年の頃は二四、五の、精悍な顔つきの男だった。
武道家というだけあり、鍛え上げた強靭な筋肉は、衣服の上からでも伺える。
彼の村の魔道士と、例の旅人の話では、北の果てまでは二つの似たような形の山が横に並び、その合間から覗く灰色の寂れた岩山を目指せばいいと聞くが、既に、かなりの距離を歩き回り、日も暮れてきていた。
(……やっぱり、迷ったかな?)
彼は心細さを振り切り、とにかく、一晩泊めてくれそうな民家を探すことにした。
「お前さん、モベット族の村を目指しているのかね!」
彼を入れてくれた家の老人は、非常に驚いた。
「よしなされ! あれは伝説の地であって、決してヒトの行けるところではないですぞ!」
男は、けろっとした顔で老人を見た。
「だが、事実、巨人を見たって人に、俺は会ったぜ」
老人は、首を力なく横に振った。
「それは、寒さの中、凍え死にかけ、大方、幻覚でも見ていたのじゃろう。現に、この付近の住民ですら、そのような巨人などに出会ったことはないんじゃからのう」
老人は、部屋の奥から肉と野菜を煮込んだスープを運んで来て、男に差し出した。
「今夜は、きっと大雪になるじゃろう。これを飲んで暖まるがよいぞ」
男は礼を言い、さっそくスープを啜った。
翌朝、男が目を覚ますと、既に日は高く昇っており、ほぼ真昼であった。
「いけねえ、そんなに寝ちまったのか。俺としたことが、意外と疲れていたのかな……」
起きて窓の外を見ると、昨夜老人が予想した通り、大雪が降ったのか、辺り一面は雪景色となっていた。
「この雪の中では、素人は無理じゃ。ウマだって、凍えてしまう」
老人が食事を運んできて、言った。
「いつ溶けるんだ?」
「さあな。これからは、毎晩のように雪が降るじゃろうから、積もる一方じゃ。悪いことは言わんから、雪の季節が終わるまで待った方が良いぞ」
ウマが進めなくてはしょうがないか。
男は、この日に出発するのを仕方なく諦めた。
「ここから南下していったところに町がある。そこでしばらく過ごしておれば、どうかね? なあに、あと二、三ヶ月ほどで、もう雪も降らなくなるじゃろう」
「そんなにかかるのか……」
男は、ますます諦めざるを得なくなった。これ以上、雪が積もらないうちに、老人の言う南の町へ出かけることにした。
老人に見送られ、男はウマで南の方角へ向かった。
(町どころか民家さえ見えない。……やべえな、また迷ったか?)
もう雪は殆どなくなっているところまできていた。
あの老人の話だと、もうすぐ町が見えて来るということだったが、彼は、完璧に道に迷っていた。
そろそろ日も暮れるという時、山の合間から僅かにいくつかの光が見え、町らしいものが現れる。それを認めると、そこへ向かってウマを走らせていった。
どうやら、老人の言っていたのとは違う町に着いたようであったが、その晩は、その村で一泊することに決めた。
「北の方へ行きたいのかい? だったら、防寒ブーツと厚手のコートが必要だな。ウマにも防寒対策してやんないと」
立ち寄った酒場の主人が、親切に地図を出して、現在の町の位置を教えてくれた。
地図によると、南を目指していたはずのその男は、どうやら西に来てしまったようであった。
「それにしても、あんたが昨晩世話になったっていうじいさんの小屋だが、話に寄ると、どうもこの辺りらしいが……、ここら辺は、人なんか住めるところじゃないんだけどなあ」
主人が地図の一点を差しながら、首を傾げていた。
翌日、服屋に行くと、防寒用のものは彼が思ったよりも高額で、ウマの分も揃えるには、大分予算がかかりそうだったので、彼は、しばらくその町で働くことにした。
「いつも悪いねえ」
「いいってことよ」
大きな荷物を担いで、その先の小屋まで運ぶ。
隣を歩いている中年の女性が、頼もしそうに彼を見上げている。
「はい、これ、少ないけど、お駄賃だよ」
既に、彼は、一ヶ月もの間を、この町で費やしていた。
いろいろな人の手伝いを買って出るが、ついつい負けてしまい、賃金の方はいまいち集まりが悪い。
その辺は、彼は人が良過ぎると言えただろう。
「レオンのお兄ちゃん、釣りのやり方教えてー!」
「お兄ちゃん、この饅頭おいしいよ!」
顔見知りになった子供達が、今日も寄って来る。
決して穏やかな顔立ちではなく、一見、子供には、取っ付きにくく思われた外見でも、なぜか懐く子供は多く、彼の方も、仕事の合間に、子供達と遊ぶのは嫌いじゃなかった。
子供達だけではなく、老若男女問わず、誰をも惹き付けているようであった。
(俺は、こんなところで、一体何をやっているんだー!)
時々、そうは思いながらも、この日も収入は少なかったのだった。
資金が貯まり、防寒服も揃えられ、いざ出発することになった時には、自分の村を出てから三ヶ月も経っていた。
皆に別れを告げ、食料を詰め込み、彼はウマを北の方角へ向けて、ようやく歩み出す。
(寒い方へ行けばいいんだ。大丈夫だ)
それまで、たった独りでは生まれ故郷を出たことのなかった彼は、自分の方向感覚には、あまり自信がなかったが、とにかく、彼は、彼なりに北を目指したのだった。
「おお青年、また会ったな」
かなり北へ来たつもりであったのに、泊めてもらおうと立ち寄った家は、以前も出会った老人の家であった。
彼は、愕然とした。
(そ、そんな……また戻ってきていたのか!?)
「その格好からすると、まだ北へ行こうとしておるのかね?」
老人が焼きたてのパンを運んできた。
彼は、それを掴むが、茫然と見つめているだけで、口に入れる気にはなれなかった。
「……なあ、じいさん。……三ヶ月前の、あんたの話だと、もう雪の時期は終わってるんだろう?」
以前よりも、断然気落ちした声で、男は尋ねる。
「いかん、いかん。雪は降らんでも、北の果ては凍えるような寒さじゃ! あんたのような南から来た人には、耐えられんて!」
老人は、真剣な顔で答える。男は、溜め息を吐いた。
(やっぱり、無理だったんだろうか。伝説の剣を手に入れるのは……)
(俺は、なんで、村を出て来てしまったんだろう。なぜ、あの時、あんなに血が騒いだような気がしたのだろう……)
(彼女はどうしているだろうか……。剣を手に入れられなかった俺が、このままのこのこ帰っても、許してくれるのだろうか……)
村を出て来た時と違い、男は、かなり弱気になっていた。
(例え、剣を手に入れられたとしても、そもそもこの方向音痴の俺に、村に無事辿り着けるという保証はないじゃないか。一年で帰ると彼女には約束したが、まだ何もしていないうちに三ヶ月も経っちまった。こんなことじゃあ、とても約束の期限までには戻れない……)
男は意気消沈していた。なぜ村を出て来てしまったのか、なぜあんなに剣を手に入れることに執着してしまったのかなどと省みているうちに、だんだん剣のことなど、どうでもいいもののように思えてきた。
それに加え、ますます自分の方向感覚に自信が持てなくなっていったのだった。
「明日、自分の村に帰るよ。じいさんと話してて、どうやら俺は正気に戻ったらしいや。今まで、なんであんなに北の果てへ行きたかったのかなぁ」
男は、呟くような小さな声で言った。
「それがよい。伝説の地を目指そうなどとバカなことは考えずに、おぬしの村へ戻られよ。恋人が待っておるのじゃろう?」
老人の目はやさしく、その微笑みは、暖かく彼を包み込むようであった。
「ああ。明日の朝一番にここを立つよ。……世話になったな……」
彼は立ち上がると、用意された寝室へと、ふらふら向かっていった。その時、微かに香のような匂いがしたように思えたのだが、それには特に気に留めることもなく、彼は部屋を後にした。
翌朝、男は出発した。彼の村へ帰るために――。
(どうかしていたんだ、きっと――。伝説の剣を手に入れられるなど、俺の思い上がりに過ぎなかったのだ)
馬上で何度もそう考えていた。
どれくらい進んだ時だろうか。
日は高く、腹も減ってきていたが、辺りの景色は一向に変わる様子はない。
草がところどころに生えた、寂し気な荒野を、ただひとり進んでいるだけだった。
(そうだ、じいさんがくれたパンでも食べるか)
昨夜食べ損なったパンを、今朝あの老人が持って行くようにと勧めてくれたのだ。彼は、さっそく荷物の入った袋から、ごそごそと取り出した小さな袋を抱え、パンを掴み取ろうとすると――!
ヒヒーン!
「なんだ、どうした!?」
いきなりウマが嘶き、前足を高く上げた。
彼はウマを宥め、落ち着かせようと必死になった。
ウマが落ち着いた時、彼にはその原因がわかった。
「ちっ! ヘビか」
小さいヘビではあったが、ちろちろと舌を出しながら、それは這っていき、ウマから遠ざかった。
「しょうがねえなあ。今のでパンを全部落としちまった。まあ、村はもうすぐだからな。それまでは、お互い辛抱だ」
ウマの首を撫でてやると、再び、まっすぐに進み始める。
(それにしても……こんなとこ、通ったっけ?)
多少の不安はあっても、とにかく今は村へ――彼女の待つ村へ帰ることだけを考えていた。
冷たい風が彼の身体とウマを吹き抜けていく。
西の町で揃えた厚手のコートやブーツのおかげで、寒さは多少は防げた。
(もう少しだ……もう少し……)
幾晩か過ごした時、もう完全に食料は尽きていた。
ウマの歩みは、鈍くなっていた。
吹き付ける風ばかりが強く、冷たく彼らに当たる。
とうとうウマが空腹に耐えられずに、その場に横たわってしまった。
「大丈夫か」
自分自身も空腹の上、寒さで凍えそうであったが、必死にウマの身体をさすり、コートをかけてやるが、その努力の甲斐もなく、ウマは、そのうち動かなくなった。
しばらく茫然とその場に座り込んでいた男は、そのうち重い足を引き摺るようにして、風に向かい、ひとりで歩き出した。
どのくらい歩いただろうか。
一向に、村らしいものは見えてこない。
彼の体力も、限界であった。
ウマなしに、先の見えないこの荒野を進むのは、普通の人間にとっては自殺行為に等しい。
いくら鍛えていたとはいえ、この寒さと空腹には、もう耐えられそうもなかった。
とうとう彼の膝は、地面に着いてしまった。
それ以上、歩くことは出来なかった。
今まで、あらゆる武術を学び、国の武道大会などで常に優勝し、怖い思いなどしたこともない彼であったが、この時、初めて死の恐怖を感じていた。
(死ぬのが怖いんじゃない。彼女と……彼女ともう会えないのが……それがいやだ! 俺の帰りを待っていてくれている彼女を、ひとり残して、自分だけ死んでしまうのが口惜しいんだ……!)
(なぜ、手放してしまったんだろう……。剣なんか、どうだってよかったじゃないか。彼女さえ、側にいてくれたら……! 彼女さえいれば、ほかのものなどいらなかったのに……!)
今までの人生を振り返ってみても、この時ほど、自分のしたことを後悔したことはなかっただろう。
後悔と冷風が吹き荒れる中、男は、地面に崩れるようにして倒れ込んでいった――。
どのくらいの時が経ったのだろうか――
妙な静けさの中で、男の意識は、徐々に、はっきりとしてきた。
(……どうやら、俺はまだ生きているらしい。……それとも、もう天国だか地獄だかにでも着いたのか?)
うっすらと目を開けてみると――次の瞬間、彼は、慌てて起き上がった。
辺りは、真っ白だった!
氷のような、または水晶のような透明な丸い形、或は鉱石のように
尖って突き出しているものが、あちこちに見える。
しかも、彼が知る以上に大きなものばかりだ。
合間には、雪の道が出来ている。
小高い丘のように盛り上がっているところから、男は、その景色を見下ろしていた。
天井もある。町全体が雪で覆われているような、まるで、巨大な洞窟の中の氷で出来た町――まさに、そのようなところであった。
男は、きょろきょろ辺りを見渡してみる。自分は確か、荒野で倒れていたはず。
しかも、寒さを感じない。
いつの間に、このようなところに迷い込んだのだろうか。
『気が付いたか』
頭の中に、声が入ってきたような感覚だ。
ヒトの声帯から発せられるものとは違う、不思議な『音』である。
思わず、男は振り向き、声を上げた!
そこには、彼よりも少し大きな、全身を白い動物の毛で覆われた、顔の中だけがヒトに近い、そのような生物が立っていたのだ。
いつかの旅人に聞いたものと、似ていた。
「……モベット族!?」
男は思わず口走り、そこから飛び退いた。
『ほう、我々を知っているのか?』
男は、奇妙に思った。
『彼』の話している発音と、『彼』の口の動きとは、全く一致していなかったのだ。
「……!」
『どうした? これが、お前たちヒトの話す言葉なのであろう?』
モベット族の生き物は、たいして表情も声色も変えず、男の頭には、その男の言語で語りかけている。
その様子に、男はしばらく見入っていた。
『ヒトがここへ何をしにきたのだ?』
巨人が問う。
「何をって……、俺は、ただ自分の村へ帰ろうと――」
彼は、すぐに口を噤んだ。
(……そうか、道に迷ってたのか……)
郷里を目指していたはずであったが、偶然とは言え、当初目指していた場所――『ここ』へ、こうして辿り着いてしまったのだと、想像した。
『お前は、我々の世界にまで、足を踏み入れていた。並の人間が入ってこられるような領域ではないはずだが、どのようにして侵入したのだ?』
抑揚のない声が、またしてもモベット族から発せられる。
「どうって言われても、俺にも、よくわからないんだが……」
男は、どうしたものか、返答に困っていた。
「……あんたが運んでくれたんじゃないのか?」
おそるおそる、白い毛皮の巨人を見上げる。
『いかにも、運んだのは我々じゃが、なぜ、ここを目指していた?』
今のところ、目の前の巨人は、彼に敵意を感じさせなかったので、彼は落ち着きを取り戻して、話した。
「俺の名は、レオン・ランドール。武道家だ。村の魔道士と、通りすがりの旅人から、あんたたちモベット族のことを知った。そいつらの言った通り、あんたたちは、本当に存在していたんだな」
『確かに、我々は、ごくたまにだが、人間界に雪の結晶を拾いに行くことがある。お前の言う我々を見たというその旅人は、ここと北の果てとの境界を行き来していた我らの仲間を、偶然目にしたのであろう。わざわざそれを確かめに来たというのか?』
巨人は、やはり表情を変えずに問う。
男は、言うべきかどうか躊躇ったが、意を決して切り出した。
「俺は、あんたがた種族の持つ『バスター・ブレード』とやらを――貰い受けに
来た!」
巨人の表情が、初めて変わった。
『なんだと!? 我々の秘宝である『魔物斬りの剣』を!?』
巨人が、毛むくじゃらの白い拳をぎゅっと握り締めた。
レオンの身体にも、さっと緊張が走り、いつでも迎え撃てるような体勢をとった。