桜が散るまで、君を好きでいた
春の夜は、少しだけ残酷だ。
暖かくなった風が頬を撫でるたび、思い出まで連れてくる。駅前のロータリーには、仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。私はスマホを握りしめたまま、何度も画面を見た。
午後九時十二分。最後のメッセージは昨日の夜。
「おやすみ」
たった四文字。その短い言葉だけで幸せになれた頃があった。今は違う。既読がつく時間。返事が来るまでの長さ。句読点の位置。全部気になってしまう。恋って、こんなに苦しかったっけ。
改札を抜けたところで、スマホが震えた。心臓が跳ねる。急いで画面を開く。通知。母からだった。
「明日雨だから傘持って行きなさい」
思わず苦笑いする。期待した私が馬鹿みたいだった。
家まで歩く十五分。コンビニの前を通る。去年の春、ここで彼と肉まんを半分こした。
「熱っ!」
そう言って笑う顔が可愛くて、私まで笑った。あんな小さな幸せで満たされていた。恋愛映画みたいな特別な日なんて一度もなかった。ディズニーにも行っていない。高級レストランも知らない。ただ、スーパーでアイスを選んだり、公園のベンチで話したり。そんな毎日が宝物だった。
家に着く。玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。一人暮らし三年目。慣れたはずの静けさが今日はやけに寂しい。制服を脱ぎ、部屋着に着替える。髪をほどく。鏡を見る。
「可愛くなったね」
そう言ってくれた彼はいない。ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。好き。その気持ちは何一つ変わっていない。変わったのは距離だけだった。
社会人二年目になって、彼は転勤した。新幹線で三時間。最初は毎日電話していた。「今日何食べた?」「仕事疲れた」「会いたい」――そんな会話だけで眠れた。だけど少しずつ、電話は週三回になり、週一回になり、気づけばLINEだけになった。そしてそのLINEも、「了解」「ありがとう」「お疲れ」と短くなっていった。
私は変わっていない。毎日会いたい。毎日声が聞きたい。毎日好きって言いたい。でも彼は、きっと仕事で疲れている。そう思って我慢した。我慢すればするほど、心の中だけが騒がしくなる。
友達は言った。「重い女にならない方がいいよ」「男は追われると逃げるから」
だから私は追わなかった。連絡も控えた。会いたいも言わなかった。寂しいも隠した。泣きたい夜は枕を濡らした。全部一人で。
でも本当は、たった一言、「会いたい」――そう言ってほしかった。
カーテンを開ける。窓の外に桜並木が見える。もう満開だった。去年、二人で歩いた道。彼は桜なんて見ていなかった。屋台の焼きそばばかり見ていた。「花より飯」――そう笑う姿が愛しかった。私は桜より彼を見ていた。
だから今年も、桜を見るたび思い出す。恋は終わっていない。まだ、終わらせたくない。
スマホを開く。トーク画面。「今、何してる?」と文字を打つ。消す。打つ。消す。結局、画面を閉じた。送れない。嫌われたくない。面倒だと思われたくない。好きだから近づけない。そんな矛盾だけが増えていく。
時計は午後十一時を回った。部屋の明かりを消す。暗闇の中、スマホだけが光る。何も通知はない。それでも期待してしまう。明日になれば、返事が来るかもしれない。明日になれば、会いたいと言ってくれるかもしれない。明日になれば、また前みたいに笑えるかもしれない。
そんな都合のいい未来を信じながら、私は今日も枕の横にスマホを置いて眠る。
「おやすみ」
送れなかったその言葉だけが、胸の奥で静かに震えていた。
◇
朝、目が覚めて最初にしたことは、スマホを手に取ることだった。通知は、ゼロ。分かっていた。夜中に返事が来る人じゃない。それでも期待してしまう自分がいる。画面を閉じてため息をつく。
「……今日も頑張ろう」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。鏡の前で髪を整えながら、少しだけ口角を上げる。笑顔の練習。社会人になって覚えたこと。泣きたい日ほど、笑わなくちゃいけない。
会社に着くと、同期の美咲が声をかけてきた。
「おはよう! 眠そうだね」
「ちょっと寝不足かな」
「彼氏と電話?」
その言葉に、一瞬だけ返事が止まる。
「ううん」
嘘ではない。もう、電話なんてしていない。
「遠距離って大変そう」
「そうだね」
「でも続いてるだけすごいよ」
笑って返した。本当は、続いているのかも分からなかった。別れ話をしたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ少しずつ、お互いの生活に隙間ができて、その隙間が毎日少しずつ広がっているだけ。
仕事をしていても、ふと彼のことを考えてしまう。今頃お昼かな。ちゃんと食べてるかな。残業かな。そんなことばかり。好きな人がいるって幸せなはずなのに、好きだから苦しい時間もあるなんて、昔の私は知らなかった。
昼休み。コンビニで買ったサンドイッチを開きながら、スマホを見る。画面には、去年の今日の写真。桜並木。その下で笑う私たち。彼が自撮りなんて珍しいと言いながら撮ってくれた一枚だった。私は花びらを見て笑っている。彼はカメラではなく、私を見て笑っていた。その視線に気づいた瞬間が嬉しくて、何度も見返した写真。今でも消せない。消したら、本当に終わってしまう気がした。
午後六時。仕事が終わる。駅まで歩く道。桜が風に揺れている。花びらが一枚、肩に落ちた。拾ってみる。薄い桃色。指先で触れると、壊れてしまいそうだった。恋も同じなのかな。大切にしすぎるほど、触れるのが怖くなる。
スマホが震えた。思わず立ち止まる。彼からだった。胸の鼓動が速くなる。震える指で画面を開く。
「今日も残業。返信遅くなる」
たった一行。それだけなのに、涙が出そうになる。忙しい中で送ってくれた。私のことを忘れてはいない。それだけで嬉しかった。すぐに返信を書く。
「お疲れさま。無理しないでね」
送信。数秒後には既読がついた。でも返事は来ない。それでもいい。既読がついただけで、心が少し軽くなる。私は、こんな小さな幸せだけで生きている。
夜。スーパーで夕飯を買う。カレー。彼の好物だった。付き合って最初の頃、一度だけ手料理を作った。じゃがいもを大きく切りすぎて笑われた。「男はゴロゴロしてる方が好きだから」――適当なことを言って、おかわりまでしてくれた。本当に美味しかったのか、今でも分からない。でも空になったお皿を見た瞬間、世界一幸せだった。
家に帰り、一人分のカレーを温める。テーブルには向かい合う椅子が二つ。いつか一緒に暮らしたい。そう言って買ったものだった。結局、座るのは私だけ。向かいの椅子はずっと空いている。
食べ終わって食器を洗う。蛇口から流れる水の音だけが部屋に響く。静かだ。静かすぎる。誰かの「おかえり」が聞きたい。誰かの「いただきます」が聞きたい。たったそれだけの毎日が、どれほど幸せだったのか。失いかけて初めて気づく。
午後十時。彼から電話が来た。画面に名前が映る。慌てて深呼吸をする。泣き声にならないように。
「もしもし」
「ごめん、遅くなった」
聞き慣れた声。それだけで胸がいっぱいになる。
「仕事大変?」
「うん。でも大丈夫」
少し沈黙が流れる。前なら、何時間でも話せた。今は話題を探してしまう。
「今日は桜見たよ」
「もうそんな時期か」
「去年、一緒に行ったね」
「そうだったな」
懐かしそうに笑う声。その笑い声が嬉しくて、切ない。
「今年は無理かな」
勇気を出して聞いてみた。また沈黙。数秒なのに、永遠みたいだった。
「仕事次第かな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。期待してはいけない。そう分かっているのに、期待してしまう。
「そっか」
笑って答えた。電話越しだから、きっと笑えていた。
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
通話終了。画面が暗くなる。部屋も暗い。私はスマホを胸に抱えた。泣かない。泣かないって決めていた。でも、目から涙が落ちる。会いたい。ただ、それだけなのに。言えない。言ったら困らせる気がして。重いって思われる気がして。好きだから我慢する。好きだから笑う。好きだから寂しい。恋って、不思議だ。
窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。遠くで電車の音が聞こえる。その先に、彼の住む街がある。同じ空を見ているはずなのに、こんなにも遠い。
私は夜空を見上げ、小さくつぶやく。
「あと少しだけ……好きでいてもいいですか」
返事はない。でも春の風だけが、優しく頬をなでていった。
◇
「今月、そっちに行けるかもしれない」
土曜日の朝。寝ぼけたまま開いたスマホに、その一文が表示されていた。一瞬、意味が分からなかった。何度も読み返す。「行けるかもしれない」――その文字が滲んで見えた。慌てて布団から飛び起きる。眠気なんて、一瞬で消えていた。
指が震える。なんて返せばいいんだろう。「本当に?」――違う、重いかな。「うれしい!」――軽すぎるかな。結局、
「会えたらうれしいな」
それだけ送った。送信ボタンを押した瞬間、心臓が痛いくらい鳴る。数分後。既読。そして、
「俺も」
たった二文字。なのに、世界が明るくなった気がした。
その日から、毎日が少しだけ違って見えた。コンビニのコーヒーも。会社までの道も。信号待ちの時間さえ楽しい。会える。その可能性だけで、人はこんなにも笑えるんだ。
仕事帰り、美咲に言われた。
「今日なんか機嫌いいね」
「そう?」
「うん。恋してる顔」
照れ隠しに笑う。
「会えるかもしれなくて」
「えっ、本当に?」
「まだ分からないけど」
「絶対かわいい服着かなきゃじゃん!」
その言葉で、急に不安になる。去年より太ったかもしれない。髪も伸びた。メイクも変わった。彼は気づくだろうか。かわいいって思ってくれるだろうか。
帰り道、洋服屋に寄った。淡い水色のワンピース。鏡の前で合わせてみる。彼が昔言ってくれた。「青、似合うよ」――その一言が忘れられなくて、今でも青い服を見ると立ち止まってしまう。結局、そのワンピースを買った。紙袋を抱えて歩く帰り道。少しだけ浮かれている自分がいた。
夜。クローゼットを開ける。何度も服を合わせる。靴はどれがいいかな。髪は巻こうかな。ネイルも塗り直そう。まるで初デートの前みたいだった。付き合って三年。何度も会ってきたはずなのに、会えるとなると、やっぱり緊張する。
ベッドに寝転び、アルバムを開く。写真の中の彼はいつも笑っていた。海。花火。水族館。ファミレス。特別じゃない場所ばかり。でも全部、特別だった。
ページをめくる。最後の写真。駅のホーム。転勤の日。笑って送り出そうと決めていた。なのに新幹線のドアが閉まる瞬間、涙が止まらなくなった。窓越しに彼が口を動かす。
「泣くなよ」
声は聞こえなかった。でも分かった。私は笑えなかった。新幹線が見えなくなるまで泣き続けた。あの日から、ずっと遠距離だった。
スマホが震える。彼からだ。
「日曜なら行けそう」
思わず声が出た。
「本当?」
「昼には着く」
「迎えに行く!」
「駅で待ち合わせしよう」
画面を見つめたまま、頬が緩む。あと六日。長い。いや、短い。待つ時間は、どうしてこんなにゆっくり流れるんだろう。
翌日。美容院を予約した。前髪を少し切る。
「大事な予定ですか?」
「久しぶりに会う人がいて」
「彼氏さん?」
恥ずかしくて笑う。「はい」――鏡の中の私は、少しだけ幸せそうだった。
帰宅すると母から電話があった。
「元気?」
「うん」
「声が明るいね」
「そうかな」
「恋愛はうまくいってる?」
その質問に言葉が詰まる。うまくいっている。そう言いたい。でも、自信はなかった。会えない日々。減っていく連絡。募る不安。それでも好き。好きだから続いている。
「うん、大丈夫」
自分に言い聞かせるように答えた。電話を切ったあと、窓の外を見る。夕焼けが街を赤く染めていた。彼も今頃、この空を見ているのかな。同じ空なのに、距離だけが遠い。
会ったら何を話そう。仕事のこと。最近見た映画。新しくできたカフェ。いや、そんなことより、ちゃんと伝えたい。「会いたかった」――その一言だけでいい。何度も心の中で練習する。だけど、きっと本番では笑ってしまう。泣いてしまうかもしれない。好きな人を前にすると、言葉はいつも素直じゃなくなるから。
カレンダーに丸をつける。会う日まで、あと三日。赤い丸を見つめながら、私は静かに目を閉じた。
この恋が、また前みたいに笑える恋に戻りますように。
そう願いながら。けれど、その願いが叶うまでには、もう少しだけ切ない時間が必要だということを、このときの私はまだ知らなかった。
◇
会う日まで、あと三日。そう思っていた時間は、不思議なくらいあっという間に過ぎていった。仕事をしていても、時計ばかり見てしまう。お昼休みには、スマホを開く。夜になれば、クローゼットを開ける。水色のワンピースを何度も眺めては、またしまう。まるで高校生みたい。自分でも笑ってしまう。でも、恋をすると何歳になっても同じなのかもしれない。
前日の夜。彼から短いメッセージが届いた。
「予定通り行く」
その五文字を見た瞬間、ベッドの上で小さく飛び跳ねた。
「了解! 気をつけてね!」
送信してから、部屋の電気を消す。眠らなきゃ。そう思うのに眠れない。明日は何を話そう。最初に何て言おう。抱きしめてもいいのかな。それとも笑って手を振るだけにしよう。頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。気づけば午前二時を回っていた。
翌朝。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。カーテンを開ける。空は雲ひとつない青空。神様が少しだけ味方してくれている気がした。
ゆっくり髪を巻く。薄くリップを塗る。新しく買ったワンピースに袖を通す。鏡の中の私は、少しだけ大人になっていた。でも目だけは、恋を知った頃のままだった。
駅までの道。風に揺れる桜が、ひらひらと舞っている。春は出会いの季節。そして別れの季節でもある。そんな言葉を思い出して、慌てて頭から追い出した。今日は会える日。縁起でもないことは考えたくない。
改札前には、人があふれていた。旅行帰りの家族。部活帰りの高校生。スーツ姿の会社員。私は柱の前に立ち、スマホを見る。
「あと五分くらい」
彼からの連絡。胸が苦しくなる。あと五分。長い。一分が一時間みたいに感じる。
アナウンスが流れる。ホームに電車が滑り込む音。人の波が改札へ向かってくる。その中に、見慣れた背中があった。黒いリュック。少し伸びた髪。歩く速さ。間違えるはずがない。彼だった。
息が止まる。足が動かない。向こうも私に気づく。目が合う。時間が止まったようだった。
彼が笑う。
「久しぶり」
その一言だけで、涙が出そうになる。
「……久しぶり」
精いっぱい笑う。会いたかった。その言葉は喉まで出かかったのに、飲み込んでしまった。
彼は少し痩せていた。頬の輪郭が前より細い。目の下には薄く疲れが見える。
「ちゃんと寝てる?」
「まあ、それなり」
苦笑い。その笑顔に安心する。やっぱり好きだ。何度離れても。何度不安になっても。この人を見た瞬間、全部どうでもよくなる。
「お昼どうする?」
「任せるよ」
二人で歩き出す。肩が触れそうで触れない距離。前なら自然につないでいた手。今は、どちらも動かない。歩幅も少し違う。沈黙が流れる。気まずいわけじゃない。でも昔みたいに言葉があふれてこない。その距離が少しだけ悲しかった。
近くのカフェに入る。注文したパスタが運ばれてくる。
「仕事どう?」
「忙しいよ」
「そっちは?」
「私もかな」
笑う。笑っているのに、心のどこかが寂しい。昔はくだらない話だけで三時間笑えた。店員さんがコーヒーをこぼして二人で慌てたり。隣の席の赤ちゃんに手を振ったり。小さな出来事が全部楽しかった。今日は静かだ。向かいに彼はいる。なのに遠い。
食事を終えて店を出る。街を歩く。桜並木。去年と同じ場所。彼が立ち止まった。
「写真撮ろうか」
その言葉に胸が熱くなる。並んで立つ。スマホを前に向ける。シャッター音。画面には笑う二人が映っていた。でも、去年の写真とは少し違う。笑顔は同じなのに、どこかぎこちない。距離が、少しだけ空いていた。
彼も気づいたのか、写真を見ながら小さく笑った。
「なんか緊張するな」
その一言で救われる。私だけじゃなかった。彼も同じだった。離れていた時間は、お互いに少しだけ臆病にしてしまったのだ。
夕方。駅へ戻る道。空は茜色に染まっていた。時間は残酷だ。会えるまでの数か月は長いのに、会ってからの数時間は、一瞬で終わる。
改札が近づく。胸が締めつけられる。まだ帰らないで。あと少しだけ。そう思うのに、言葉にならない。
彼が立ち止まる。
「今日はありがとう」
「ううん」
また沈黙。人だけが二人の横を通り過ぎていく。そして彼は、小さく息を吸った。
「……話したいことがあるんだ」
その表情は、今まで見たことがないくらい真剣だった。春風が吹く。桜の花びらが、二人の間を静かに横切っていった。その一枚が地面に落ちる音まで聞こえそうなくらい、世界は静まり返っていた。私は胸の奥で、言葉にできない不安が膨らんでいくのを感じていた。
◇
「……話したいことがあるんだ」
彼の声は静かだった。なのに、その一言だけで胸の奥がざわつく。嫌な予感というものは、どうしてこんなにも当たるのだろう。
改札前を人が行き交う。笑い声。電車の到着を知らせるアナウンス。世界はいつも通り動いているのに、私たちだけ時間が止まったみたいだった。
「どうしたの?」
精いっぱい明るく聞く。彼は視線を落とした。手に持った切符を何度も指で折っている。昔から緊張するとそういう癖があった。
「転勤が決まった」
「え?」
「海外」
耳を疑った。海外。その二文字が頭の中で何度も響く。
「半年くらい?」
そう聞けば、「うん」と笑ってくれる気がした。だけど彼は首を横に振った。
「三年」
足元が揺れた気がした。桜の花びらが風に舞う。こんなにきれいな景色なのに、何も見えない。
「来月には行く」
来月。あと一か月。そんな急に。
「断れないの?」
気づけば口にしていた。彼は困ったように笑う。
「チャンスだから」
その笑顔が苦しかった。応援しなきゃ。彼の夢なんだから。頭では分かっている。でも心は追いつかない。
「すごいじゃん」
笑う。声が震える。
「おめでとう」
笑う。涙があふれそうになる。
「ありがとう」
彼も笑った。その笑顔が遠かった。昔なら、一緒に喜べた。一緒に未来を考えられた。でも今は。未来という言葉の中に、私はいるのだろうか。
沈黙。どちらも何も言えない。駅の時計だけが進んでいく。
彼がゆっくり口を開く。
「最近さ」
「うん」
「寂しい思いさせて、ごめん」
その言葉で、涙がこぼれた。我慢していたものが一気にあふれる。
「謝らないで」
「でも」
「頑張ってたもんね」
泣きながら笑う。こんな顔、見せたくなかった。最後くらい笑顔でいたかった。
彼がハンカチを差し出す。見慣れた青いハンカチ。付き合って一年目の誕生日に、私がプレゼントしたものだった。まだ使ってくれていた。その事実だけで胸が締めつけられる。
「覚えてたんだ」
「毎日使ってる」
どうして。どうしてそんなことを言うの。忘れられなくなるじゃない。
「私ね」
涙をぬぐう。
「ずっと我慢してた」
彼は黙って聞いている。
「会いたいって言ったら困るかなって」
「電話したいって言ったら疲れてるかなって」
「寂しいって言ったら重いかなって」
言葉が止まらない。
「だから全部、一人で我慢した」
彼は何も言わない。ただ、唇をかんでいた。
「でも本当は」
大きく息を吸う。
「毎日会いたかった」
「毎日声が聞きたかった」
「毎日好きって言ってほしかった」
涙で景色がぼやける。
「ごめん」
彼が小さくつぶやく。
「違う」
首を振る。
「謝らないで」
恋は悪くない。仕事も悪くない。誰も悪くない。ただ、好きな気持ちだけじゃ、越えられない距離があった。それだけ。
発車ベルが鳴る。彼の乗る電車が来る。時間だ。彼が荷物を持つ。
「また連絡する」
その言葉が悲しかった。また。いつ? 来週? 来月? 三年後? 分からない。
「うん」
私は笑った。最後まで笑うって決めたから。
彼が改札を通る。数歩進んで振り返る。手を振る。私も振る。その距離は十メートルもない。なのに、人生で一番遠く感じた。
電車のドアが閉まる。ゆっくり動き出す。窓際に立つ彼。目が合う。何か言っている。声は聞こえない。口の動きだけが見えた。
「ありがとう」
そう言った気がした。電車は走り去る。見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。周りには人がいる。誰も私を知らない。だから、少しだけ泣いた。大人になると、人前で泣くのは恥ずかしい。そう思っていた。でも恋が終わりそうな夜だけは、大人も子どもも関係なかった。
帰り道。街灯が一つ、また一つと灯る。昼間一緒に歩いた桜並木。さっきと同じ道なのに、一人だ。風が吹く。花びらが肩に落ちる。私はそっと手のひらに乗せた。儚い。恋も桜も。咲くまでは長いのに、散るのは一瞬だ。
スマホが震えた。彼からだった。
「今日はありがとう」
短いメッセージ。私は画面を見つめる。何度も文字を打つ。「こちらこそ」――消す。「気をつけてね」――消す。「大好き」――指が止まる。送れない。
結局、
「またね」
その二文字だけ送った。すぐに既読がつく。返事は来なかった。
夜空を見上げる。星が一つだけ光っていた。私は心の中でつぶやく。
「本当は、『またね』じゃなくて、『行かないで』って言いたかった」
その言葉だけが、胸の奥で静かに泣いていた。
◇
彼が海外へ行った日。私は空港へは行かなかった。
「見送りに来なくていいよ」
そう言われたから。その言葉が優しさだったことは分かっていた。泣いてしまう私を知っていたから。笑って送り出せないことを知っていたから。だから私は、いつものように会社へ向かった。
朝八時。電車に揺られながら、窓の外を見る。今日も街は変わらない。学生が走り、会社員が足早に改札を抜けていく。世界は何も変わらない。変わったのは、私だけだった。
昼休み。スマホを見る。彼から写真が送られてきた。飛行機の窓。真っ白な雲。
「行ってきます」
たった一言。私はすぐに返信した。
「行ってらっしゃい」
送信してから、画面を見つめる。本当は違う。「帰ってきて」――そう送りたかった。
午後四時。仕事中なのに、ふと空を見上げる。今頃、飛行機は海の上だろうか。遠く遠く離れていく。距離は数字で測れる。でも寂しさは測れない。
帰宅すると、部屋は静かだった。テーブルの上には、彼が忘れていったマグカップ。白地に小さな青い星。付き合って二年目、一緒に雑貨屋で買ったもの。「これ俺っぽい」――そう言って笑っていた。洗って棚にしまえばいい。そう思いながら、半年もそのままだった。触れてしまうと、本当にいなくなる気がして。
夜十時。ビデオ通話の着信。画面いっぱいに彼の顔が映る。背景は見知らぬ部屋。白い壁。小さな机。外国語のテレビ。
「着いたよ」
「お疲れさま」
「そっちは?」
「普通」
嘘だった。全然普通じゃない。部屋に彼がいないだけで、こんなにも静かになるなんて知らなかった。
「時差あるから、連絡遅くなるかも」
「うん」
「仕事も忙しいと思う」
「うん」
短い返事しかできない。笑顔を作るので精いっぱいだった。
「泣いてる?」
「泣いてない」
泣いていた。画面越しだから隠せると思った。でも彼にはすぐ分かってしまう。付き合って三年。誰よりも私のことを知っている人。
「ごめん」
また謝る。私は首を振る。
「夢だったんでしょ?」
「うん」
「だったら頑張って」
「ありがとう」
少しだけ沈黙。画面越しに目が合う。こんなに近くに顔があるのに、抱きしめられない。手もつなげない。恋って、不思議だ。会えないだけで、こんなにも遠くなる。
「じゃあ寝るね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れた。部屋が暗くなる。さっきまで聞こえていた声が消える。静寂だけが残る。
私はベランダへ出た。夜風が冷たい。遠くのマンションの窓には明かりがついている。あの部屋にも、誰かの「おかえり」があるのだろう。羨ましかった。私もいつか。そう思っていた未来は、少しずつ形を失っていく。
翌朝。目覚ましより早く目が覚めた。癖でスマホを開く。彼からメッセージ。
「そっちは朝かな」
写真付きだった。見たことのない街並み。石畳の道。青い空。外国のカフェ。
「きれいだね」
返信する。数時間後、
「今度一緒に来よう」
その一文に、胸が熱くなる。未来を話してくれた。そのことがうれしかった。だけど同時に怖かった。未来なんて、簡単に変わってしまうことを知っているから。
季節は少しずつ進んでいく。桜は散り、若葉が揺れ、夏が近づいてくる。彼との連絡は続いていた。毎日だったものが、二日に一回になり、週に二回になり、また少しずつ減っていく。忙しい。分かっている。でも、画面の向こうで少しずつ自分の居場所が薄くなっていく気がした。
ある夜。美咲から電話があった。
「今度合コン来ない?」
「行かないよ」
「なんで?」
「彼氏いるし」
「海外でしょ?」
「うん」
「でもさ、人って近くにいる人を好きになるんだよ」
笑いながら言った言葉。冗談だったのかもしれない。でも、その一言が胸に刺さった。近くにいる人。隣にいる人。一緒に笑う人。私は今、そのどれでもない。
電話を切って窓を開ける。夏の風が吹き込む。桜はもうない。あの日、彼と歩いた並木道は緑色になっていた。季節は前に進む。私だけが、春のまま取り残されている。
スマホを握りしめる。画面には彼とのトーク履歴。スクロールしていくと、付き合いたての頃の言葉が並ぶ。「会いたい」「早く会おう」「ずっと一緒」――その約束は嘘じゃなかった。きっと、その時は本気だった。だから責められない。好きだったから。今も好きだから。
私は静かにスマホを胸へ抱き寄せる。
「あと何回眠ったら、また会えるのかな」
その問いに答えられる人は、誰もいなかった。部屋の時計だけが、小さな音を立てながら、止まることなく未来へ進んでいた。
◇
夏が来た。駅前の桜並木は、濃い緑の葉で空を覆っていた。春にはあんなに華やかだった道も、今は木陰を作るだけの静かな並木道になっている。
季節は変わる。人も変わる。恋も変わる。そう思えば少しは楽になるのに、私はまだ彼を好きなままだった。
朝起きる。顔を洗う。仕事へ行く。帰ってご飯を食べる。眠る。毎日は変わらない。変わったのは、その毎日の中から彼が少しずつ消えていくことだった。
「おはよう」と毎朝届いていたメッセージはなくなった。「仕事終わった」という連絡も減った。代わりに増えたのは、
「ごめん、忙しい」
その一言だった。責めるつもりはない。本当に忙しいのだろう。海外で慣れない仕事をしている。知らない言葉。知らない街。知らない人。きっと私が想像するよりずっと大変だ。だから寂しいなんて言えない。でも、恋は理解だけでは続けられない。
昼休み。会社の食堂で一人ご飯を食べていると、美咲が向かいに座った。
「最近元気ないね」
「そう?」
「笑ってるけど、笑えてない」
図星だった。私は箸を止める。
「遠距離ってさ」
美咲がペットボトルを回しながら言う。
「会えないことより、相手の生活が見えなくなるのがつらいんだよね」
その言葉に、何も返せなかった。本当にその通りだった。今、彼は誰と笑っているんだろう。何を食べているんだろう。風邪をひいていないかな。眠れているかな。考えても分からないことばかり。分からないから、不安になる。
「電話してみたら?」
「忙しいと思う」
「じゃあLINE」
「返事待っちゃうから」
美咲は苦笑いした。
「恋って面倒だね」
「うん」
「でも、それだけ好きなんだね」
私は小さくうなずいた。好き。その一言で片づけられないくらい、彼は私の毎日になっていた。
夜。ベランダに出る。夏の空気はぬるく、遠くで花火の音がした。もうそんな季節なんだ。去年の夏、彼と浴衣を着て花火大会へ行った。人混みではぐれそうになって、手をつないだ。
「離れるなよ」
照れくさそうに笑った彼。私はその手が大きくて安心した。あの日は、ずっと続くと思っていた。未来なんて疑わなかった。
スマホが鳴る。彼からだった。久しぶりの着信。胸が高鳴る。
「もしもし」
「起きてた?」
「うん」
少し疲れた声。でも聞きたかった声。それだけで泣きそうになる。
「元気?」
「元気」
嘘だった。でも心配はかけたくない。
「そっちは?」
「まあまあかな」
笑う声。少しだけ昔に戻った気がした。
「今日ね」
私は話し始める。会社で失敗したこと。帰り道に猫を見つけたこと。アイスを落としてしまったこと。くだらない話。でも彼は全部聞いてくれた。
「そんなことあったんだ」
笑ってくれる。その笑い声が好きだった。気づけば一時間。久しぶりにたくさん話した。
「また電話する」
「うん」
「無理しないでね」
「そっちも」
通話が切れる。私は空を見上げる。少しだけ心が軽くなっていた。まだ大丈夫。まだ終わっていない。そう思えた。
だけど翌日から、また連絡は途絶えた。一週間。二週間。既読だけ。返事はない。私はスマホを見つめる時間が増えた。通知音が鳴るたび期待する。違うアプリだった。電池が切れるまで画面を見てしまう。そんな自分が嫌になる。
ある日。仕事帰りに本屋へ寄った。恋愛小説のコーナー。何気なく一冊手に取る。そこに書かれていた一文が目に入る。
「好きとは、相手を縛ることではなく、幸せを願うこと」
私はそのページを何度も読んだ。彼が笑っているなら。夢を追えているなら。それでいい。そう思えたら楽なのに。本当は違う。その笑顔の隣にいたい。頑張った日の夜は抱きしめたい。悲しい日は一番に支えたい。幸せを願うだけじゃ足りない。一緒に幸せになりたかった。
帰宅して、机の引き出しを開ける。一枚の映画の半券が出てきた。初めてデートした日。彼が「捨てるなよ」と言って財布に入れていた。私は笑って、「そんなの残す人いるの?」と聞いた。彼は少し照れながら言った。
「思い出って、形にしないと忘れそうだから」
その言葉を思い出した瞬間、涙がこぼれた。思い出は残っている。形も残っている。でも、一緒に未来を作る時間だけが、少しずつ遠ざかっていた。
夜十一時。スマホが光る。彼からのメッセージだった。
「来月、日本に帰れるかもしれない」
私は目を疑った。鼓動が速くなる。指先が震える。涙が画面に落ちる。やっと会える。そう思った。だけど、そのメッセージの続きには、もう一行だけ文字があった。
「大事な話もある」
私はその言葉を見つめたまま、動けなくなった。うれしいはずなのに。胸の奥で、小さな不安が静かに目を覚ましていた。窓の外では、夏の風がカーテンを揺らしている。遠くで鳴る花火の音は、とてもきれいなのに。私の心には、なぜか静かな雨が降り始めていた。
◇
「来月、日本に帰れるかもしれない」
その一文を、私は何十回も読み返した。眠る前も。朝起きてすぐも。仕事の休憩中も。画面が消えるたび、もう一度開いてしまう。その下に書かれた、「大事な話もある」という言葉だけは、何度読んでも心に引っかかった。嬉しい。でも怖い。そんな感情が胸の中で混ざり合っていた。
会える日が決まった。土曜日。午後二時。初めてデートをした川沿いの遊歩道。春には桜が咲く場所。今は夏の終わりを迎え、木々の葉が少しずつ色を失い始めていた。
私は一週間前から落ち着かなかった。美容院へ行き、髪を整える。新しい靴を買う。ネイルも塗り直す。鏡を見るたびに思う。「少しでもかわいいと思ってほしい」――恋は不思議だ。付き合って四年近く経っても、好きな人の前では高校生みたいに緊張する。
当日の朝。空は青かった。雲がゆっくり流れている。こんな穏やかな日なのに、私の心だけが嵐だった。
待ち合わせの三十分前に着く。彼はまだ来ていない。ベンチに座る。周りでは親子が遊び、犬の散歩をする人が通り過ぎる。何気ない景色。だけど今日は全部特別に見えた。
「ごめん、待った?」
その声に振り返る。彼だった。少し焼けた肌。少し短くなった髪。前より大人びた表情。でも笑った顔は、あの日と何も変わっていなかった。
「全然」
本当は三十分待った。でも、その三十分すら幸せだった。
二人でゆっくり歩く。久しぶりなのに、不思議と会話は少なかった。隣にいるだけで満たされる時間。沈黙が心地よかった。
川沿いのベンチに座る。風が吹く。彼が空を見上げた。
「帰ってきて思った」
「何?」
「日本っていいな」
私は笑う。
「ご飯がおいしい?」
「それもある」
「じゃあ何?」
彼は少し考えてから言った。
「君がいるから」
胸が熱くなる。涙が出そうになる。その一言だけで、ずっと待っていた時間が報われた気がした。
「会いたかった」
彼がぽつりと言う。私は驚いて彼を見る。
「俺も我慢してた」
静かな声だった。
「電話したかった」
「毎日連絡したかった」
「でも余裕がなくて」
その表情は苦しそうだった。私だけじゃなかった。寂しかったのは。会いたかったのは。ずっと彼も同じだった。
私は泣きながら笑う。
「私も」
それだけで十分だった。言葉なんていらない。手が触れる。ゆっくり。自然に。久しぶりにつないだ手は、少しだけ冷たかった。でも懐かしい温度だった。
夕方になる。空が赤く染まる。影が長く伸びる。彼は静かに立ち上がった。
「話がある」
その一言で、空気が変わる。私は息をのむ。
彼はポケットから一枚の封筒を取り出した。白い封筒。何も書かれていない。私へ差し出す。
「開けて」
震える手で受け取る。中には一枚の紙。海外支社勤務継続通知。契約期間。五年間延長。文字がぼやける。
「……え?」
声にならない。彼は苦しそうに笑った。
「断れなかった」
世界が静かになる。風も。鳥の声も。全部消えた。聞こえるのは自分の鼓動だけ。
「ごめん」
また謝る。私は首を振った。謝らないで。そう言おうとした。でも声が出ない。涙だけが頬を伝う。
彼は続けた。
「だから今日は」
深呼吸する。そして私の目をまっすぐ見た。
「君の人生を縛りたくない」
その瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。私たちが積み重ねてきた時間。未来の約束。何気ない夢。全部が砂のお城みたいに静かに崩れていく。
夕日が二人を照らす。私は彼の手を強く握った。離したくない。離れたくない。だけど、好きだからこそ、分かってしまう。彼は夢を諦めない人だ。だから好きになった。だから応援してきた。だから今、この恋は一番苦しい。
私は震える声で言った。
「最後に、一つだけ約束して」
彼は黙ってうなずく。
「いつか、この恋を思い出した時」
涙を拭う。精いっぱい笑う。
「あの頃、幸せだったって思って」
彼の目にも涙が浮かんでいた。
「約束する」
そう言って笑った。その笑顔は、付き合った日の笑顔と同じだった。
長い沈黙のあと、彼がゆっくりと口を開く。
「別れよう」
優しい声だった。責める声でも、冷たい声でもない。だから余計につらかった。
私は泣かなかった。泣いたら終わる気がしたから。
「うん」
たった一文字。その返事だけで、四年間の恋が静かに幕を閉じた。
彼は笑っていた。私も笑った。恋人同士の最後なのに、まるで友達みたいだった。でも、本当は違う。笑わないと立っていられなかった。
彼がバッグを肩にかける。
「ありがとう」
その言葉に、今までの思い出が一気によみがえった。初めて手をつないだ日。雨の日に一本の傘を分け合った帰り道。喧嘩して、夜中に電話で泣いた日。何でもないコンビニデート。クリスマス。誕生日。全部。全部。幸せだった。
「こちらこそ」
精いっぱい笑う。
「幸せだったよ」
彼は少しだけ目を伏せた。
「俺も」
その二文字だけで十分だった。好きになってよかった。そう思えた。
改札まで送る。初めて会った日と同じ場所。最後の日も同じ場所。人生は丸く回るんだな、とぼんやり思った。
「じゃあ」
「うん」
彼が歩き出す。振り返らない。私も呼び止めない。好きだから。夢を追う彼を止めたくなかった。
姿が見えなくなる。その瞬間、足の力が抜けた。しゃがみ込む。涙が止まらない。胸が痛い。息が苦しい。こんなに泣いたのは生まれて初めてだった。
恋が終わる音なんて聞こえない。ただ静かに。心の中から一人の存在が抜け落ちていくだけだった。
翌日。朝七時。目覚ましが鳴る。いつものようにスマホを手に取る。もう「おはよう」は来ない。分かっている。なのに画面を開いてしまう。癖というものは怖い。
会社へ向かう。駅前のカフェ。いつも彼と待ち合わせした場所。今日は知らないカップルが笑っていた。胸が少し痛む。でも、世界は変わらず回っている。
昼休み。美咲が隣に座った。
「別れた?」
私は驚く。
「顔に書いてある」
笑いながらティッシュを差し出す。
「泣いた?」
「少し」
「嘘」
「いっぱい」
美咲は何も聞かなかった。ただ隣でコーヒーを飲んでいた。その優しさがありがたかった。
秋になる。街路樹が赤く染まる。冬になる。イルミネーションが街を彩る。春になる。また桜が咲く。一年が過ぎた。彼から連絡はない。私もしていない。約束したから。お互いの人生を歩くと。
仕事にも慣れた。休日は一人で映画を見たり、本を読んだり。少しずつ、一人の時間を楽しめるようになっていた。恋を忘れたわけじゃない。思い出す回数が減っただけ。傷は消えない。でも痛みは薄れていく。
そんなある日。会社帰り。駅前の本屋へ寄った。恋愛小説の棚。一冊の本を手に取る。ページをめくる。その時。
後ろから聞き覚えのある声がした。
「すみません」
心臓が止まりそうになる。振り返る。そこに立っていたのは、彼だった。少し短くなった髪。少し大人になった表情。でも笑う目は変わらない。
目が合う。二人とも言葉を失う。何年ぶりだろう。時間だけが流れる。
彼が先に笑った。
「久しぶり」
その一言で、止まっていた時間が動き出した。私はゆっくり笑う。
「久しぶり」
昔みたいに涙は出なかった。痛みもない。ただ、胸の奥が少しだけ温かくなった。あんなに忘れられなかった人が、今は優しい思い出になっている。
彼は本を持っていた。
「こっち戻ってきたの?」
「うん。先月」
「そうなんだ」
ぎこちない会話。でも嫌じゃない。彼が言う。
「元気そうでよかった」
私はうなずく。
「そっちも」
沈黙。昔なら気まずかった。今は心地いい。大人になったのかもしれない。
彼は時計を見る。
「じゃあ行くね」
「うん」
すれ違う。肩が触れそうになる。振り返らない。今度はお互いに。
歩きながら思う。大恋愛だった。人生で一番泣いて、人生で一番笑った。だから後悔はない。好きになれてよかった。
春風が吹く。桜の花びらが舞う。私は空を見上げる。そして心の中で、小さくつぶやいた。
「幸せになってね」
返事はない。でも、どこか遠くで、あの日と同じ優しい笑顔が浮かんだ気がした。
◇
春は、何度巡ってきても苦手だった。桜を見ると、思い出してしまう。駅前で待ち合わせた日。一緒に歩いた並木道。手をつないで笑った午後。泣きながら別れた夕暮れ。全部、この季節だった。
別れてから三年。私は二十八歳になった。会社では後輩も増え、仕事を任されるようになった。忙しい毎日。気づけば彼を思い出す日は少なくなっていた。忘れたわけじゃない。思い出になっただけ。それでも桜だけは、私を昔へ連れていく。
休日。一人で川沿いを歩く。あの日、最後に約束をした場所。ベンチは変わらない。風も変わらない。桜だけが静かに咲いていた。
私は腰を下ろす。バッグから古い財布を取り出す。中には、一枚の映画の半券。色あせて文字も薄くなっている。
「思い出って、形にしないと忘れそうだから」
彼が笑って言った言葉。私はあの日、「そんなの残す人いるの?」と笑った。なのに今も、捨てられずに持っている。笑ってしまう。結局、私も同じだった。
その時だった。
「隣、いいですか?」
知らない男性が声をかけてきた。スーツ姿。私と同じくらいの年齢だろうか。
「どうぞ」
少し距離を空けて座る。二人とも桜を見ている。会話はない。不思議と気まずくなかった。
しばらくして、その人が言った。
「毎年来るんです」
「そうなんですか?」
「亡くなった母が桜好きで」
私は静かにうなずく。人にはそれぞれ、この季節に置いてきたものがある。大切な人。忘れられない時間。戻れない場所。
「あなたも?」
突然聞かれる。私は少し考えた。そして笑う。
「忘れられない恋がありました」
過去形。その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。そうか。もう終わった恋なんだ。やっと心が追いついた。
男性は優しく笑う。
「それでも桜を見に来るんですね」
「はい」
風が吹く。花びらが舞う。一枚、私の肩に落ちた。そっと手に乗せる。あの日も同じだった。儚くて。きれいで。少し寂しかった。
「恋って桜みたいですね」
私がつぶやく。
「咲くまで長いのに、散るのは一瞬」
男性は首を横に振った。
「でも散った花は土に還って、また来年咲きます」
その言葉に胸が熱くなる。終わった恋も。悲しかった時間も。全部、自分の一部になる。だから次に誰かを好きになれる。桜は散るから美しい。恋も終わるから愛しい。
私は立ち上がる。空を見上げる。青空の中を花びらが流れていく。その向こうに、昔の自分が見えた気がした。毎日泣いていた私。スマホを握りしめて眠っていた私。「会いたい」と言えなかった私。
抱きしめてあげたい。あの頃の私は知らなかった。どんなに大きな恋も、いつか優しい思い出になることを。
駅へ向かって歩き出す。人混みの中。ふと前を見る。改札の向こう。誰かによく似た背中が見えた。私は立ち止まる。
追いかけない。呼び止めない。きっと本人じゃない。もし本人だったとしても、もうそれでいい。心の中で静かに手を振る。
ありがとう。人生で一番好きだった人。人生で一番泣いた恋。人生で一番幸せだった時間。全部、あなたがくれた。
スマホが鳴る。会社の後輩からだった。
「先輩、お花見まだですか? みんな待ってます!」
思わず笑う。
「今行くね」
返信して歩き出す。少し早足で。前を向いて。
桜のトンネルを抜ける。風が吹く。花びらが一斉に舞い上がる。まるで春が背中を押してくれているみたいだった。
私は振り返らない。もう過去に戻りたいとは思わない。あの日々があったから、今の私がいる。悲しい恋だった。苦しい恋だった。だけど、間違いなく、大恋愛だった。
そして私は、心の中で最後に一度だけ、あの人の名前を呼ぶ。返事はない。代わりに桜の花びらが、そっと私の手のひらへ舞い降りた。私は微笑んで、その花びらを空へ返す。
「さようなら」
その言葉は悲しい別れではなく、新しい春へ歩き出すための、小さな始まりだった。
桜が散るまで、君を好きでいた。
そして桜が散った今日から、私は私の未来を好きになっていく。
──完──




