第七章 二世帯住宅
新しく建てた私達家族の家は、五LDKの間取りである。そして、同居を始める母との、二世帯住宅である事も考慮していた。
一階はリビングとダイニングキッチン、仏間である和室と、母の和室がある。そして二階は、子供部屋が二間と寝室からなっている。
収納を重視し、和室には納戸を併設してあった。これまでの借家に比べ、敷地も広いため建坪は一回り大きく、庭と駐車場もゆったりと確保することができた。
また、同居する母の老後のことを考え、部屋は全てバリアフリーとした。トイレも母の部屋の近くに設け、ドアも母が車椅子生活になった時のことも考え、広めの引き戸にしてある。
母は、自分の部屋を中心にして生活することが多い。
食事は、家族五人揃ってダイニングの食卓で取る。食事が終わると母は自分の食器を片づけ、直ぐに自分の部屋に戻って行った。
お風呂は一番に、母に入ってもらう。風呂が沸くと、子供が母の部屋に知らせに行く。
だが、母がリビングでくつろいでいることは、実際、あまり無かった。
私は母との同居を始めるまでは、母も食事の後、寝るまでの時間を家族と一緒にリビングで過ごす、という生活スタイルをイメージしていた。
しかし、実際に母との同居生活が始まると、妻が、この家は二世帯住宅だからという事を理由に、家の中での母の行動範囲を狭めてしまっていた。だからその結果として、母は自分の部屋だけに籠りがちになっていた。
妻には母との同居生活を、始めからはっきりと、しかもドライに割り切って考えてしまっているところがあった。
╌ ” 二世帯住宅だから ” 、と。
母との同居生活が始まったら、母にはこうしてあげたいと願っていた事がたくさんあった。だが私のその想いとは、初めからボタンが掛け違えられ、何かが大きく食い違っていた。
私は母のために、地元の農協から市民農園を借りてあげた。実家の裏にあった畑で一年中、家庭菜園として季節の野菜を栽培していた母を想ってのことだった。
それは新居の直ぐ近くに立地している、一坪農園と呼ばれる僅かばかりの畑ではあったのだが、母はそこに毎日通っては、季節ごとの野菜を作った。
初夏には、緑の色も鮮やかで瑞々しいキュウリやナス、そしてその時々の新鮮な野菜たちが、その畑から母の手で収穫された。
「畑で採れた野菜だよ」
母はそう言って、嬉しそうな笑顔を見せながら、それらの野菜をキッチンにいる妻に手渡した。
それらの野菜が食卓に上がると、家族は喜んで食べた。この畑での農作業が、母の大事な日課の一つになっていた。
仕事が休みの日には、母を実家まで送って行く。
母は昼食を持参して、丸一日を掛け実家の周りの掃除と草取り、そして田圃の草取りをしていた。
そして毎回、実家近くの菩提寺にある父の墓参りを欠かすこともなかった。
私は夕方になると、また母を実家まで迎えに行った。
母は家族で気まずい事があった時、よくこう口にする。
「実家に戻って、そこで独りで住むからいいよ!」
実家の家は、母にとっては精神的な支えだったし、ある意味、母の最後の砦でもあったのかもしれない。
しかし、私はこの実家と田圃を、“ 維持管理していくのが煩わしいし、面倒だ ” という理由で、母との同居を始めてから一年後に手放してしまった。
母は時に、何かあると「売らなければ良かったのに …」と、私に向かっては言っている。
だからその度に、私は母に対して「申し訳ない」と、心の中では思っている。そしてまた、その行為が “ ╌ 母の最後の、心の拠り所を奪ってしまった ╌ ” という罪の意識にも苛まれている。
だがこの事が後々、母との同居生活に決定的な暗い影を落とす原因となっていくということには、この時には私自身もまだ気づいてはいなかったのだが。
母と、父の墓参りに行くと、母は父の墓に向かって何かを心に秘め、一心に拝んでいるように見えた。また、新居の入口にある門の脇でお盆の迎え火を焚く時も、言葉に出すことなく、やはり一心に何かを唱え拝んでいた。
その時、母は何を願っていたのだろうか。それは母しか知らない事ではあったのだが、今の私には何となく、その母の気持ちが解る気がしている。
私と妻は勤めの関係から朝早く家を出て、そして二人とも帰宅時間も遅かった。
そのため、次男を朝と夕方、幼稚園バスに送迎することが母の役目となっている。また、小学校に通う長男の、帰宅後の面倒を見る役目も母だった。
その点、母が同居してくれていることは、私達にとっては非常に有難かった。
ただ私達が仕事に出掛け、次男をバスまで送って行った後は、母には時間だけがたっぷりとあった。
それで母はボケの防止も兼ねて、近所のペン習字教室に通っていた。
時々、母の部屋を覗いて見ると、そこには、机に向かって一心不乱にペン習字のテキストを練習している母の姿があった。
「昇級したよ」と、私に習字の認定証を嬉しそうに見せてくれることもある。
「そうかい。良かったね」そんな時は、私の心も嬉しくなる。
また、母は俳句も勉強していた。ほとんどそれは独学に近かったのだが、ノートには、季節毎に感じた事が多様な言葉で俳句にされ、書き込まれている。俳句の文集や本も沢山読んで、勉強しているようでもあった。
何事にも一生懸命に取り組む。それが母の信条のようでもある。
時には家族揃って、外にご飯を食べに行くこともある。
「ご飯を食べに行くから。早く、支度をしてね」
そんな時、私は真っ先に母に声をかけた。
「分かったよ」。母は、そう弾んだ声で答えてくれる。
「《ばあば》 早く行こうよ」子供たちも、母の部屋に行って騒いでいる。
「《とうと》 早くして」
私も、子供たちにそうせっつかれる。
「貴方がいつも、一番遅いんだから!」妻がそう、冷たく突き放すように言う。
「分かった。分かった …」
「支度ができたよ」「… ちょっと待って、トイレに寄っていくから」
「また始まった⁉ …。早くしてちょうだい」 … いつものやり取りが続く。
そんな時、母はにこやかに微笑んで私達を見ている。
レストランに着いて、食事が始まる。子供たちが賑やかにはしゃいでいる。
「お袋。これも食べな」「… もういいのかい?」
私はいつも、隣に座る母にそう声をかける。
「もういいよ。もう沢山頂いたよ …」 母は言う。
そう言う時の母の顔は、やはりいつも嬉しそうに見えた。
私もまた、こう思う。
╌ ” これが、家族なんだ ” と。
母とは同居してからこれまで、三回、家族旅行に行っている。何れも泊りがけでの温泉地への旅行だった。
その先々で、夢中で遊ぶ孫たちの姿を見守る時、母はいつも嬉しそうに、そし心から安心している様子でもあった。
母のその嬉しそうな笑顔は、今も私の机の上で写真の中に焼きつけられている。
また日頃、二人の子供たちは、母の部屋に遊びに行っては賑やかに遊んでいる。
孫と一緒に、同じ部屋で楽しく過ごせる。このひと時は、母にとって至福の時であっただろうと思う。
╌ 『家族の絆』 ╌
私はいつも、この一言を胸に抱いている。
父に、遂に果たし得なかった想い。それが、今の私の心を突き動かしていた。
私には、毎日の習慣にしている、ある密やかな楽しみがあった。本当に、ほんの細やかなことであったのだが。
それは朝夕の、部屋の母にかける挨拶の言葉だった。
朝は、「行って来るよ」
╌ 「気をつけて行っておいで」 「車の運転に、気をつけるんだよ」
夕には、「ただ今。帰ったよ」
╌ 「お帰り。遅かったね …。ご飯を先に頂いたよ。お風呂も先に入ったからね」
玄関を上がると、真っ先に玄関脇の母の部屋の襖を開け、母に言葉をかける。
すると母は、テーブルの上に広げたノートから顔を上げ、私の方に向き直りながら、何時もそう返事を返してくれる。
この何気ない母との言葉のやり取りではあったのだが、私に取ってそれは本当に、母との同居生活を心から幸せに感じることができる瞬間であった。
“ ╌ 母がここにいてくれる ╌ ”
“ ╌ 母も、自分たちと一緒に暮らしている家族なのだ ╌ ” という強い想いが、私の胸の中にあった。
そしてもう一つ、私が日頃意識してやっている事がある。それは、母にこちらから積極的に言葉をかけてあげることだった。
「おはよう」
「今日はどうだった?」
「変わった事は無かった?」
その、母にかける一言は、どんな言葉でも良かった。そこには母を、孤独な思いにだけはさせたくはないという、私の心からの願いがあった。
妻は日頃から、母に対する言葉が少なかった。
いや、むしろ言葉が足りないと感じることは、母との同居生活の中で多々見受けられ、私はそれに気づいてもいた。
だからこそ、常に私は強く意識して、母に向かい語りかけようと努めていたのだった。




