第二章
真夜中に電話が鳴った。
それは、実家の母からの電話だった。
「… もしもし」
「お父さんが …、 大変だよ! 早く来ておくれ。早く、早く …」受話器の向こうで母は、喚くように言った。
「何だって! 親父が⁉ …。分かった、直ぐに行く」
私はそれだけ言うと、ガチャンと受話器を置いた。
‥「親父が …」脳裏に嫌な不安が、実体のない黒い影となって浮かんだ。
「親父の様子がおかしい!」電話の音で目を覚まし、起きてきた妻に言った。
「とに角、直ぐに行って来る」
「詳しいことは、向こうから電話するから …」
着替えをするのももどかしく、そう言い残すと車に飛び乗った。
“親父 …… ”
エンジンキーを回した刹那、再び脳裏を、黒く濃い影となった不安が過って行った。
“そんな事はない‼ 大丈夫だ! … ” 私は首を左右に大きく振ると、何度もそう自分の心に言い聞かせた。
実家は、私の住む家から車で十五分ほど走った場所にあった。私は前だけを見詰め、アクセルを踏み込むとスピードを上げていった。
フロントガラスには、遠く東の山の端に、痩せた下弦の三日月が白く、そして鋭くくっきりと冴え懸かるのが映っていた。
それは、本当にほんの無意識にではあったのだが、私の心の奥底に、死神の持つ鋭く鋭利な鎌首を思い浮かべさせた。
そしてそれは、心の中に芽生えた正体のない不安感と重なり、背後からひたひたと、私に向かい静かに迫り来つつある死神と、その手に握られ、振り上げられる研ぎ澄まされた鎌首の姿となっていった。
実家に近づくに連れ、家には煌々と明かりが灯されているのが認められた。それは傍目にも、今そこで尋常ではない事が起こっているのが見て取れた。
“まさか⁉… ”
息もできないほどの不安の塊が、脳裏にべっとりと纏わりついている。
庭の真中に車を停めると、ドアも閉めずに家の中へと駆け込んだ。
「ツヨシ、ツヨシさん …」
母が私の名前を呼びながら、取り乱した様子で私の元に駆け寄る。
「どうしたんだ⁉︎」
「困ったよう。お父さんが ……」やっとそれだけが、母の口からは出た。
その母の姿を一瞥しただけで、事態の大きさが知れた。
父の寝室には、ベッドの上で激しい息遣いと朦朧とした意識の中に、苦しみ喘ぐ父の姿があった。
‥「親父⁉ …。そんな ……」
父のその姿を目にした私は、それがもう自分たちの手には負えないことを理解していた。
「どうして?…。 どうして、こんなになるまで親父のことをほっといたんだ⁉」
「もっと早く知らせてくれれば良かったのに。この様子では、とても昨日、今日のことではないだろうに …」
私は混乱しながらも、そう母を責めた。
「私の言うことは、全く聞かなかったんだよ」「『自分の事は、ほって置け!』と、怒るように言っていたし …」「それに、……。」
「それに? …、 それに何?」 私は問い詰めるように、母に向かって言った。
「『お前には知らせるな』 とも言っていたんだよ」
母は狼狽えながら、そう小さく答えた。
「俺には …⁉ でも、時と場合ということがあるだろう‼」
そう言いながら居間の入り口にある電話台に駆け寄ると、反射的に黒電話の受話器を取り、救急車を呼んだ。
「もしもし。こちらは ……。至急 …」
そしてその手で、自宅の妻にも電話をした。気持ちだけが焦り、息が切れ呼吸がうまくできなかった。体が小刻みに震えていた。
「俺だ …。親父が危ない。今、救急車を呼んだ。病院が分かったら、また電話する。…。いや⁉、支度だけはして、自分もこちらに来られる準備をしておいてくれ」
家の外に出ると、道路で救急車が来るのを待った。救急車が到着するまでの時間がもどかしく、苛立ちながら三本目の煙草に火を点けた。
遠くに、サイレンの音が聞こえる。
“ やっと、来てくれたか … ”
救急車が到着すると、救急隊員が手早く担架を部屋に運び込んだ。
「血圧は、八十の五十です。脈拍は百二十、体温 …」「非常に危険な状態です。直ぐ、病院に搬送します」
そう言いながら手際良く、担架の上に移された父に酸素マスクをした。
救急車に運ばれる担架の上で、父は私に、奥の座敷の方を指差して何かを言った。
「…、…。 ……」
父の口は動いたが、酸素マスクの内側が曇っただけで声にはなってはいなかった。
実際に何を言ったのかは解らなかったが、その刹那の父の眼は、必死に、私に何かを訴え掛けようとしているのが分かった。
正直、その時、父が私に伝えたかった言葉は、私には理解できなかった。だが、私は父を安心させるため、父の手を握り絞め大きく頷きながら父に言った。
「うん。分かった …、分かったから安心して、大丈夫だから」
その時父が言った言葉は、今になって思い返してみると、恐らくこうであったのだろうと思う。
‥『金庫の中に全部入っている。後の事は、全てお前に任せる』‥
私にはなぜか、父はこう言っていたのだと思えるのだった。
救急隊員は本部と連絡を取りながら、父を受入れ可能な病院を探した。
しかしあいにく、その日が日曜日の深夜だったということもあり、父を搬入できる病院は中々見つからなかった。
救急車は父を乗せたまま、実家の前の路上から動かなかった。ただ救急車の紅い回転灯の光だけが無音のまま、周囲の夜闇を鋭く切り裂き、規則正しく浮き上がらせているだけだった。
無性に苛立ち、無意識に煙草に手がいっていた。
「何をしているんだ! 早くしてくれ」隊員に向かって、私はそう声を出していた。
救急車の後部ベッドに乗せられた父は、酸素マスクの下で苦しそうな様子のままであった。
「早くしてくれ …」
私には、ただそう繰り返すしか術はなかった。
暫くして、やっと父の受入ができる病院が見つかった。それは、実家からはかなり離れた場所にある総合病院だった。
「そんな遠くに …。もっと近くに病院があるじゃないか⁉」
「駄目です。今夜、お父様を受入れ可能な病院は、他にはありません」
そんなことで、救急隊員と押し問答をしている時間が空しかった。
「これから患者を病院に搬送します。家族の方は危険ですので、救急車の後には付いて来ないでください。改めて電話連絡をしますので、家で待機していてください」
救急隊員は口早にそれだけを言うと、父と、付き添う母を乗せ、その病院を目指して慌ただしく走り去って行った。
後にはサイレンの音が夜の静寂を破って鳴り響き、やがてそれは小さくなりながら遠ざかって行った。
実家の前の路上には、サイレンの音を聞きつけた近所に住む人達が、寝間着のまま集まって来ていた。
「ご心配をお掛けします。父が今病院に向かいました。詳しいことは、明日にでもお話できると思いますから」
私はそれだけを言って頭を下げると、振り向き、家に向かって駆け込んだ。
受話器を取ると妻に電話した。
「親父が今、救急車で病院に向かった。…町の…病院だ。病院への搬入が済めば救急隊員から電話連絡があると思う。取敢えず病院に泊まれる支度を持って直ぐにこちらに来てくれ」
「子供達は?」
「ぐっすり寝ている。このまま寝かしておいて、直ぐに行くわ」
「朝までには帰って来られるわよね?」
「病院に行ってみなくては分からないが …。病院に行ってから考えよう。とに角、早くこっちに来てくれ」
急かすように妻にそう言うと、受話器を置いた。
私は電話の前に胡坐をかき、待った。だが、中々電話のベルは鳴らなかった。
苛立ち、また煙草を何本も灰にしていた。そして間もなく、妻が実家に着いた。
(ジリリリリーン、ジリリリリーン…)
四本目の煙草を灰皿に押しつけた時、黒電話のベルが鳴った。
「はい!」
反射的に受話器を取る。
「こちら、…消防署の…です。…病院に今、搬送しました。宜しくお願い致します」
「分かりました。有り難うございました」
そう言いながら受話器を置くと、横に座る妻に向かって言った。
「病院への搬入が済んだそうだ。悪いが、俺と一緒に病院に行ってくれ」
「ただ、気持ちが動揺していて、俺は駄目だ。何かあったら危ない。だから …」
二人は車に乗り込むと、妻の運転で父が運ばれた病院を目指した。
深夜の路は行き交う者も、そして擦れ違う車さえもいなかった。暗闇の中にただ、街灯の光だけが輝き、後方にと飛び退いて行く。
沿道に立ち並ぶ家屋は闇に包まれ、その中で人々は皆寝静まっているのだろう。街全体が黒いシルエットとなり、真っ黒な夜闇の底に沈み込み無言のまま佇んでいる。
まるで、この世界の生き物の全てが死に絶え、消え去ってしまったかのように。
ただ闇の中で信号機の光だけが律儀に、そして規則正しく紅い光の点滅を繰り返している。
だが助手席に座る私の眼には、それらの夜景が織りなす無機質な景色は、全く映り込んではいなかった。
‥「親父 …」
不意に、私の脳裏にまた、死神が手に持つ鎌首を擡げ、その鎌首を真っ赤に染めんと今まさに、私に向かって振り下ろそうとしている姿が浮かんだ
「止めてくれ‼」心の中でそう、私は死神に向かって叫んだ。
死神は顔に薄笑いを浮かべると、ゆっくりと後ろを振り向いた。そしてその背中は、徐々に漆黒の闇の中へと溶け込みながら、またゆっくりと消えていった。
心の中にまで纏わりつきそうな気持ちの悪い汗がねっとりと、首筋を流れ落ちていく。
「まだか?」妻に向かって、独り言の様に言った。
「もう直ぐよ」
彼女は前を見詰めたまま、そう答えた。
私達の乗った車は、静かに病院の駐車場に滑り込んだ。
他に停まる車も無いガランとした駐車場は、静かに夜の闇のベールの中に佇んでいる。そこではただ、駐車場を照らす街灯の下だけが僅かに明るく浮かび上がり、その生の臭いを周囲の夜闇に向けて漂わせていた。
街灯の光の下に、白い大きな蛾が一匹、ぎこちなくヒラヒラと舞っている。まるで、自己の生命力を夜の帳に見せつけ、そして誇示しようとしているかのように。
二人は車を降りると、病院裏手の夜間救急入口へと走った。
‥「ここだ⁉」
ドアを勢い良く開け、病院の中に駆け込んだ。入口の横にある守衛室はガランとして、もう誰も残ってはいなかった。
目の前に続く病院の廊下はひっそりと周囲を包み込む静けさの中に黙り込み、コトリとも物音がしなかった。ただ、二人の駆ける靴音だけがその静けさの中で、前方に向かって木霊となり響いていた。
やがて廊下の先に、煌々と明かりの点いた部屋が見えてきた。
‥「あそこか?」
無意識にそう感じた。近づくと、やはりそれは応急処置室の明かりだった。
処置室前の廊下で、母が待合の椅子にうずくまる様に座り込んでいた。
「どうなった⁉」そう母に聞く。
「今、応急処置をしてくれてるさ …」
母は放心した様子で答えた。
私も妻と椅子に腰掛けると、父の処置が終わるのを待った。時々、処置室の様子を窺いみても、器具の擦れ合う僅かな金属音が廊下へと、切れ切れに聞こえてくるだけであった。
病院の廊下は薄暗く、相変わらず静けさの中に沈み込んでいる。時間の経つのが遅くもどかしかった。
“まだなのか? ” 私は目を閉じ、じっと待っていた。
「大丈夫」、そう、何度も心に言い聞かせながら。
死神が、心の中で再び、真赤に染まった鎌首を振り下ろそうとした。
その時、処置室のドアが大きく開いた。
ベッドが廊下に引き出され、その上には父が寝かされていた。
「親父!」父にそう声をかけた。
「お父さん …」母も泣きそうな貌で、そう呼びかける。
だがその問い掛けへの、父の返事はなかった。
口元に酸素マスクを着けたままの父は、意識が無いように見えた。
そして父は、看護師に付き添われ、そのまま病室に運ばれて行った。幸いにも、処置室での応急処置を終えたその父の姿は、先ほど救急車で運ばれた時に比べ大分落ち着きを取り戻したように見えた。
間もなく、処置室の中から医師が看護師を伴い私達の所に近づいて来ると、言った。
「ご家族の方々ですね?」
「はい。…」「有り難うございました」
「患者さんの容体は、血圧などの状態も今施した処置で落ち着きました。肺炎を起こしていますが、多分大事には至らないでしょう」と、その夜の当直医らしい女性の医師は言った。胸に付けたネームカードからは、まだ若い研修医であることが見て取れた。
「…良かった …。…」
心底ほっとした私は、身構えていた力の抜けた身体を傍らの母と妻に向けた。二人もまた、安堵の表情を顔に浮かべている。
階段を一段一段踏みしめ、父の運ばれた二階の入院病棟に向かった。先刻、病院に駆けつけた時よりも、気持ちは大分落ち着いていた。
父が移された病室へと入る。その病室は廊下の外れにある個室で、父はベッドの上で酸素マスクを着けたまま、腕に点滴をされて眠っていた。
病室の部屋の中は物音一つせず、ハンガーから吊るされた点滴の、一滴一滴ゆっくりと落ちる雫の音が今にも聞こえてくるかのようであった。
ベッド脇の椅子に座り、暫く皆黙って、眠る父を見守っていた。そこにはただ、不思議な静けさだけが病室全体を包み込んでいた。
暫しの静寂の後、父の意識がふっと、戻った。父は眩しそうに首だけを動かし部屋の中を見回すと、一息大きく息を吸い私達に小さく呟いた。
「……。」
「…?」
もう一度、父は言った。
「子供達は?」
「家にいるよ」
「……。」父は不思議そうな貌をしていた。どうやら自分の置かれた、今の状況が解っていないようである。
「ここは病室だよ…」「何も心配することは無いよ」
父に向かって静かにそう言うと、父は小さく頷き、安心したようにまた眼を閉じた。
病室の中に再び静寂が戻り、点滴の雫だけがまた、静かに規則正しく時を刻むかのように落ちている。
私は、母と妻の方を振り返り言った。
「良かった。親父は大丈夫そうだ。一時はどうなるのかと思ったけれど …」
「呼吸も落ち着いている。危険は無さそうだ」「さっき処置してくれた先生も、大丈夫だと言っていた事だしな …」
それは家族に向けた言葉だったのだが、同時に私自身が自分の心に向けてかけてあげた言葉でもあった。
「親父は、最近無理をし過ぎて体調を崩していたんだ。暫く病院で静養すれば、直ぐに良くなるさ …」母に向かって、優しくそう言葉をかけた。
母は、黙って私の言葉に頷いた。
再び私達は、ベッドの上で眠りに落ちている父を見守った。病室の中を穏やかで静寂な空気が満たし、再び暫しの柔らかな沈黙が訪れた。
どれくらいの時間が経ってからだったのだろう。父が眠りから覚めないことを見届け、母と妻に言った。
「今夜のところは、家に子供もいることだし、俺達は帰るが、お袋は親父の傍にいてやってくれ」
万一の場合を考え、母には病院に泊まり込める支度をさせて来ていた。
「親父、帰るよ。また明日の朝来るから」私は父に向かってそう小さく呼び掛けた。
「それじゃあ、宜しく頼むよ」
母にそう言うと、妻を伴って病室を出た。
病室を出て駐車場に戻ると、そこで私は煙草に火を点け、胸一杯煙を吸い込んだ。
「ふー。…」緊張感から解放され、煙草の味はいつにも増して旨かった。左腕に嵌めた腕時計に眼を落とすと、既にもう午前三時を回っている。
だが、まだ暗い夜空には星が瞬いていた。
「綺麗だ …」。暫く振りで、夜空を見上げたような気がした。
帰りの車は、私が運転して行った。
実家で苦しむ父を見た時の不安はもうすっかりと消え、病院に向かった時とは打って変わり気楽な心持だった。私を脅かすモノは、もう既にどこにも何も無かった。
死神も、そしてその死神の持つ真赤に染まる鎌首も、今の私の心の中にはもういなくなっていた。
車を運転しながら、妻と、父の容体について話を交わす。
「良かったよ、本当に …。何、直ぐに元気になるさ」
「そうね、大丈夫よ」
「ここのところ、実家に顔を出していなかったからな」「親父のやつ、相当無理してたんじゃないかな?」
「あの様子では、暫く入院することになりそうだ。俺も毎日、病院に顔を見せに行ってやろう」
「でも、このまま死なれたらどうしようかと思ったよ、本当に。何も無くて良かった」
それはその夜の、私の嘘の無い本心だった。
夜の街は相変わらず漆黒の闇に包まれ、信号機だけが相も変わらずいつまでも、眩い規則的な紅い光の点滅を夜闇に向けただ律儀に繰り返し続けている。
まるでそれが、これからもずっと永遠に続いていくかのように。
死神が、今宵もこの世界のどこかでまた、生ける者達への尊い犠牲となる生贄を探し求め、漆黒の夜闇の中を彷徨っているのだろうか。
死の影と恐怖。それは限りなく遠く、今の私とは無縁な世界であった。




