第一章
風に乗り、どこからか犬の鳴く声が聞こえている。
昼間の熱気も収まり、田圃に張られた水面を、青く伸びた稲穂を揺らしながら吹き渡る夜風が、ひんやりと体に心地良かった。
今、何時になるのだろうか? もう何時間も、ここでこうして夜景を眺めているような気もする。自分がまるで、眼下に広がる夜景の一部になっていたかのような感覚にさえ包まれていた。
だが、多分それは、ほんの三十分ほどのことだったのだろうが。
それくらい、私は、ここから眺めるこの夜景が好きだった。
煙草を咥えると火を点ける。一瞬、夜景が霞み、小さな赤黄色の光芒の中に消えていった。
「さて、と …」そう呟くと、私は立ち上がった。
その夜は、父の葬儀が行われた日の夜であった。
「一日中、慌しかった …。」
気怠い疲労感が、体の芯からじわっと込み上げてきている。
「無事、終わった ……」
私は首を小さく左右に振り、そう呟く。
昨日の通夜から今日の告別式までの出来事が、頭の中で断片的に浮かんではまた消えていった。
“人を送ってやることが、こんなに大変な事だとは … ”
それが今の、心底からの素直な実感だった。そして改めて、その儀式本来の持つ意味が理解できたような気もしていた。
人は生まれ堕ちる時、己独りでは産まれ得ない。そして死にゆく時もまた、己の力だけでは逝き得ない。
人は誰しも、多くの人々の力添えがあって初めて、自分の人生を歩み始めることができる。そしてやがてはその終焉もまた、迎えることができる。
父も、多くの人に見送られ、旅立って行った。
「親父、気をつけて行けよ」
「彼方の世界では、安らかにあることを …」
私は夜空に向かって、心の中の父にそう呼びかけた。
父もまた、この場所からの夜景を愛していた。毎晩ここに座って夜景を眺めていた。
その時の、父の想いに心が動いた。
“何を考えていたのだろう。色々苦労していたからな ”
“俺も、いつも親父に心配ばかりかけていたし … ”
“親父の眼には、この夜景が本当に入っていたのだろうか? ”
何かを想いながらそこに座っていた、父の横顔が心の中に浮かんだ。
“あの時、俺が相談相手になってやることができていれば …。こういう事にはならずに済んだかもしれないのに … ”
“苦労をかけるばかりだった ”
“親孝行の真似事が、何もできないうちに … ”
父への悔い、また悲しむ想いが、胸の中に自然と湧き上がってきていた。
“今更、何を後悔しても、もうどうしようもないのに ”
だがその一方で、悲しいくらいの諦めの気持ちがこみ上げ、胸を突いた。
“親父はきっと、俺のことを頼りにしていたのだろうに … ”
“俺は、あまりにも子供すぎた。親父の気持ちを、少しでも察しようとすることがもっとできていれば ”
“馬鹿だった! … ” 自分自身を、心の中でそう強く罵倒した。
そして、一人っ子でわがままに育てられ、独り善がりでしか周りを見ることのできない自分の、これまでの生き方を省みていた。
「すまない ……。」
それが、今の私にとって唯一、父に掛けることができる精一杯の言葉だった。
私は、父が四十歳を過ぎてからできた子供であり、一人息子でもあった。そのためか父は、私のことを常に想い、そして何事にも頼りにしていた。そして私もまた、年老いた父のことをいつも気にしていた。
“俺は、本当に親父の気持ちを解ってあげられていたのだろうか? ”
心の中のどこかでそう問いかける、もう一人の自分がいた。
ふと横を見ると、父もそこに座り煙草を吸いながら、私と並んで夜景を眺めているように思えた。
「体に気をつけろよ」
父が、そう言ったような気がした。
「ああ …」
私は、心の中の父の声に答えた。
ふっと、薄緑掛かった青い光が視界を過った。
「蛍⁉」
「もうこんな季節になったのか …」
日頃の生活での忙しさに紛れ、押し流され見失ってしまっていたある種の感覚が、心の中に戻りつつあった。
私は、遠い幼い日の、父と過ごした日々の記憶を呼覚ましていた。
この季節になると、毎晩、田圃に向かう道を父と連れ立って蛍を追いながら歩いた。
昼間の暑さとは打って変わり、体を包み込む夜気が心地良かった。
その時、歩きながら父と何を話したかは、今ではもうはっきりとは思い出せない。ただ、なぜか嬉しかったことだけは憶えている。
街灯もまばらな、まだ舗装されていない折れ曲がった道は薄暗く、小さく薄緑色に光る蛍の淡い光が、道端の石垣の間に生えた夜露の乗った草の上で光っているのを、遠くからでもはっきりと見ることができた。
私の住む地方では、珍しくも、源氏蛍と平家蛍の両方の蛍を見ることができた。
遠くからでも見つけることができる、石垣の上でひと際大きく、そしてゆっくりと点滅を繰り返す緑色の光は、間近に近づき手に取ってみると、大概、源氏蛍の雌だった。
「蛍はね …。蛍は死んだ人の魂なんだよ。……」
蛍を追って並んで歩きながら、父は横顔で笑いながらそう言った。
「魂? …。」
そう私は聞いた。だが、父は何も答えてはくれなかった。ただ、黙って歩いていただけだった。
『蛍』。父との想い出の一つだった。
次第に私は、想い出の海の中に、深く沈み込んでいった。
(リーン、リーン、リー …)
『秋』。夜の澄んだ空気の中で、鈴虫が鳴いている。
脳裏に父との想い出が、また一つ蘇ってきた。
月が遠くの尾根の上に昇る秋の宵には、鈴虫を獲りに同じ道を歩いた。
まだ昼の蒸し暑い夜気が残る初秋の宵、角の取れた河原の自然石を積み上げただけの石垣の石の間では、鈴虫たちが、秋の訪れに盛んに鳴き交わしていた。
「鈴虫は、こうやって捕まえるんだ」父が言った。
‥「確か、透明なプラスチックのコップと、葉書を用意するんだっけ」私は呟く。
「こんな蒸し暑い風の無い晩にな、鈴虫は石垣の石と石との間の隙間で、頭を入り口の外に向けて鳴いているんだよ」
まだ蒸し暑い夜気の残る宵の始めには、鈴虫たちは石垣の入り口で二枚の羽を立て、擦り合わせながら澄んだ声で鳴いていた。
「そこをな、折り取った道端の細い草の茎をそうっと差し入れ、鈴虫のお尻の方を軽く突く。すると鈴虫は驚いて、 “リッ ” という微かに二枚の羽を閉じる音を響かせながら、石垣の上から下の平らな道端の地面の上に飛び降りる」
父は手真似を交えながら嬉しそうに、そう教えてくれた。
‥「そうだ⁉ 懐中電灯も必要だった …」煙草の煙を吐き出しながら、私は頷いた。
「そしたら、鈴虫に上からコップをそっと被せる。そして脚を傷めないよう静かにコップの下から葉書を差し入れ、コップごと鈴虫を持ち上げる」
「そしてビニール袋に入れる」
この時、鈴虫の額にある二本の長い白い触角は、決して傷めてはいけなかった。
運が良ければ雄の鳴き声に誘われ、近くに来ている鈴虫の雌も捕まえることができた。
「どうだ?」
そんな時、ビニール袋の中の鈴虫を眺める父の顔は満足げだった。
私は煙草の煙を胸一杯吸い込むと、辺りを見回した。そこに、父の姿はもう無かった。
ただ、湿った風だけが、私の横を通り抜けて行っただけだった。
無性に寂しかった。父に、もう一度会いたかった。会って一言だけ、『ありがとう』を言いたかった。
そして、もし自分の子供たちがこの話に興味を持ってくれたなら、父が自分に対してそうしてくれたように、彼らにも教えてあげたいと思った。




