第三十話【空の巻・不滅】終わらない経営戦略
サンライズ王国、建国の朝。
かつて「スパイ防止法」という名の重苦しい雲に覆われていた王都は、今や嘘のように透き通った青空の下にあった。
広場ではオーウェン商会が私財を投じて用意した「建国記念パーティー」が開催され、香ばしいパンの匂いと、新鮮な魚を焼く煙が街中に漂っている。
人間たちは肩を組み合い、その足元では野良猫たちが尻尾を絡ませて、おこぼれをねだるでもなく、対等な「国民」として宴を楽しんでいた。
『ふむ。カイル、見てみろ。貸借対照表(B/S)には載らないが、この「国民の笑顔」こそが、わが社の……いや、わが国の最大の無形資産だ。不渡りを出さずに済んで、本当によかったな』
俺武蔵猫は、王宮のテラスに置かれた豪奢な椅子の背もたれに座り、眼下の喧騒を眺めていた。
「武蔵、また経営の話? 今日くらいは難しいことは抜きにして、お祝いしようよ」
カイルは王冠を傍らに置き、王族の礼装を少し着崩して、リラックスした様子で椅子に深く腰掛けた。彼の膝の上には、俺のための特等席が空いている。
第一の儀:平和の余韻
カイルに促され、俺は彼の膝の上へと飛び乗った。
かつては骨と皮ばかりで、不安に震えていたこの膝も、今では「地の巻」の特訓と「空の巻」の覚悟を経て、どっしりと頼もしい王の器となっている。
「お母様も、別宮で静かに療養を始めたよ。バートランド卿が近衛騎士団を再編して、今度は『スパイを探すため』じゃなく、『民を守るため』の軍隊に作り変えるって張り切ってる」
『いい傾向だ。ガバナンス(統治)の正常化だな。黒鉄はどうした?』
「黒鉄なら、ハナと一緒に街の『猫ギルド』の初代会長に任命したよ。彼らが街の異常をいち早く察知して、王宮に報告する……。これからは、密告じゃなくて『リスクマネジメント』としての情報収集だね」
カイルは俺の喉元を、絶妙な指使いで撫でた。
くっ、こいつ、いつの間にこんなに「猫の扱い」という名の「人心掌握術」を身につけたんだ。
『(ゴロゴロ……)ふん、まあ及第点だ。だが、カイル。平和は維持コストが高いんだ。
油断すれば、また教団のようなハイエナ共が、甘い汁を吸いにやってくるぞ』
「わかってるよ、軍師殿。でも、僕には君がついているし、五輪書の教えがこの胸にある。
もう、誰にも僕たちの『拍子』を乱させはしない」
第二の儀:五輪書の行方
テラスのテーブルの上には、俺が前世の記憶を総動員し、カイルと共に編纂し直した「サンライズ版・五輪書」が置かれていた。
それは単なる剣術の書ではない。
組織をどう運営するか。
情報の真偽をどう見極めるか。
そして、多様な種族(人間と猫)がいかに共生するか。
いわば、この国の「経営マニュアル」であり「憲法」だ。
憲法とは独裁者が出ないように権力者を縛るためのものなんだ。
もう二度とハイシティ女王のような独裁者を生み出さないためにも必要だ!
「この本を、街の学校にも配るつもりなんだ。子供たちが小さい頃から『考える力』を身につければ、二度とカルトや独裁者に騙されることはないだろう?」
『「教育投資」か。リターンが出るまで時間はかかるが、最も確実な再投資先だ。
お前、本当に立派なCEOになったな』
カイルの成長を誇らしく思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
前世で、過労とストレスの果てに孤独に死んだ俺が、まさか異世界で猫になり、一人の王子を王にまで押し上げることになるとは。
復讐のためでも、名誉のためでもない。
ただ、一生懸命に生きようとする者が、正当に報われる「まともな組織」を作りたかった。
その夢が、今、この陽だまりの中で叶っている。
『あー……。あったかいな……。……少しだけ、寝るぞ、カイル。……あとは、よろしく……』
俺は王の膝の上で、満足げに、深い眠りへと落ちていった。
戦いは、終わったのだ。
第三の儀:終わらない経営相談
ところが、その微睡みは、わずか数分で破られることとなる。
「失礼します、カイル王! 武蔵先生!」
テラスの扉を勢いよく開けて入ってきたのは、オーウェン商会の会長と、息を切らしたバートランド卿だった。
「大変です! 隣国のルミナス領から、建国の祝いと共に『共同通商連合』への加盟要請が届きました! 条件交渉が複雑で、私共だけでは判断が……!」
「さらに、北の辺境伯が『猫の参政権は認められん』と反発して、一部の兵を動かしたとの報が!
王、至急ご指示を!」
カイルが困ったような、しかしどこか楽しそうな顔で俺を見下ろした。
俺は閉じていた片目を、恨みがましく開ける。
『おい。せっかく「空」の境地にいたのに、現実の案件が早すぎるだろ』
「ごめんね、武蔵。でも、君がいないと会議が始まらないんだ。
ほら、大好きな最高級の鰹節、用意させてあるから」
『……チッ。……おい、オーウェン! 加盟要請の契約書のドラフトを持ってこい!
辺境伯の件は、黒鉄に命じて奴の食糧庫に猫を一万匹送り込め、食い尽くすふりをして脅せ!』
俺は王の膝から飛び起き、再び鋭い猫の軍師の瞳に戻った。
『カイル! 隠居はまだ先だ! 「風の巻」の応用だぞ、隣国の思惑を逆手に取って、有利な貿易条件を引き出すぞ! さあ、経営会議(軍議)の再開だ!』
「はい、武蔵先生!」
エピローグ
祝祭の鐘が鳴り響く中、サンライズ王国の王と、その肩に乗る伝説の猫軍師。
彼らの逆転劇は、ここからまた、新しい物語へと続いていく。
「五輪書」を掲げ、猫が知恵を授け、人間が未来を切り拓く。
世界で最も「風通しの良い」王国の明日は、今始まったばかりだ。
「ニャアアアアアン!!(野郎ども、仕事だ! 夜明けはまだ終わっちゃいねえぞ!)」
武蔵の咆哮が、黄金色の朝空へと高く響き渡った。
了




