第三話:【地の巻】足場を固め、現実を直視せよ
深夜。ハイシティ王宮の西離宮、カイルの私室。
窓の外では衛兵の巡回する足音が響いているが、室内では一匹の黒猫と一人の王子が、床に広げられた古びた帳簿と地図を囲んでいた。
「……武蔵、これを見て!。僕がこっそり書庫から持ち出してきた、この三年の『国家歳入統計』だよ。でも、数字なんて見て何になるの? 兵法って、もっと剣を振ったり戦術を練ったりするものじゃないのかい?」 カイルは眠そうに目をこすりながら、山積みの羊皮紙を指差した。
俺――武蔵猫は、肉球で帳簿の一節をビシッと叩いた。
『甘いな、カイル。宮本武蔵の「五輪書」の第一章、【地の巻】を侮るな。
地とは土台だ。自分が今、どんな足場に立っているのか。
敵の陣陣はどうなっているのか。
それを知らずに剣を振るのは、目隠しをして崖を走るのと同じなんだ』
俺はいかにも何でもわかっているようなふりをして偉そうに言った。
「足場……。でも、これはただの数字だよ?」カイルは首をかしげながら呟いた。
『「ただの数字」だと? 経営……いや、国政を舐めるなよ。
見ろ、ここ三年の「教団寄付金」の項目だけが、倍々ゲームで膨らんでいる。
逆に「農業助成金」と「公共インフラ維持費」は、以前の三分の一だ。
これは何を意味する?』
カイルは帳簿を食い入るように見つめ、顔を青くした。
「……民衆が飢えているのに、そのお金が全部、カルト教団『深淵の目』の神殿建設や、母様の贅沢に使われているってことだね」カイルは震える声で言った。
『そうだ。そしてここが重要だ。五輪書の精神は「まっすぐな道を地とする」ことにある。
嘘や洗脳で歪められた情報を取り除き、裸の事実を見つめる勇気。それが地の巻の第一歩だ』
俺はまるで自分が宮本武蔵であったかのように自信満々な態度で言った。
「裸の事実?」カイルは首をかしげた。
『カイル、お前は今まで、母上が怖いから、兄たちが優秀だからと、現実から目を逸らしてきた。
だが、この帳簿という「地」を見ればわかる。
この国は今、末期の倒産企業と同じだ。
キャッシュが枯渇し、現場(民衆)の士気はどん底。
一方で役員(教団)だけが私腹を肥やしている。
この「地」に立って、お前はどう戦う?』俺はカイルの顔を覗き込んだ。
カイルは下を向いて黙り込んだ。細い指が羊皮紙の端を握りしめ、震えている。
「……怖いよ、武蔵。事実を知れば知るほど、敵が巨大に見える。
僕一人で、こんなに腐りきった国をどうにかできるなんて思えない」
カイルは震える声でつぶやいた。
『ほう、いい傾向だ』
俺はふんぞり返って、喉をごろごろと鳴らしながら言った。
「えっ?」
カイルは驚いて言った。
『「怖い」と思うのは、お前が正しく現状を把握し始めた証拠だ。
無知な自信より、賢い恐怖の方がマシだ。地の巻にはこうもある。
「拍子をわきまえることが肝要」だと。
敵の巨大さに怯えるのではなく、その巨大な組織が持っている「歪んだ拍子」を探せ』
「歪んだ、拍子?」
『そうだ。これだけ民を虐げていれば、必ず歪みが出る。
不満、密告、内部抗争……。
カイル、お前は今まで「無能王子」として誰からも警戒されてこなかった。
それは最高の隠れ蓑だ。
誰も、一匹の猫と無能王子が、国の帳簿を精査して倒産回避(再建)を企んでいるなんて夢にも思わんだろう』
「……確かに。兄さんたちは僕のことなんて、空気だと思ってる」
『なら、その空気であることを武器にしろ。地の巻の仕上げだ。
明日から、お前には「記録係」になってもらう。
宮殿内で耳にした会話、見たもの、すべてをこのノートに記せ。
猫の俺が外で見つけてきた情報と照らし合わせ、
この国の「真の組織図」を完成させるんだ』
カイルは不安げながらも、ペンを手に取った。
「わかった。やってみる。……でも武蔵、君は明日、外へ行くの? 危険だよ」
『心配するな。俺はただの猫だ。宮殿の塀を越え、路地裏のゴミ捨て場を漁り、兵士たちの無駄話を聞く。猫には「スパイ防止法」なんて関係ないからな。
いいかカイル、これが俺たちの「地の巻・第一段階」だ。
足場を固めた者だけが、次の「水の巻」で柔軟に動けるようになるんだ』
カイルは深く頷き、ノートの一ページ目に、拙い文字で『地の巻:真実を知る勇気』と書き記した。
「武蔵。君と一緒にいると、不思議と勇気が湧いてくる。
前世のシャチョウっていうのは、みんな君みたいに厳しいけど頼もしいの?」
『ハハハ。俺が本当に頼もしかったら、会社を潰して猫になんてなってねえよ。
これは俺の「懺悔」でもあるんだ。
さあ、講義は終わりだ。明日は早いぞ、さっさと寝ろ!』
俺はカイルの膝から飛び降り、窓辺の月明かりの下で丸くなった。
猫の姿での再起。
三代目ダメ社長の兵法が、異世界の歪んだ大地を少しずつ、しかし確実に踏み固め始めていた。
「おやすみ、武蔵。僕、頑張るよ」カイルはそういうとベッドに横になった。
少年の寝息を聞きながら、俺は黄金の瞳を光らせた。
地の巻は始まったばかりだ。
次は、この国を蝕む「カルト」という毒の本質を暴いてやるぜ。
TBC




