第十五話【水の巻・合流】鋼の鎧の内側に義の火を灯せ
「水の巻」の最終章は、バラバラになった水の流れを一つに束ね、巨大な濁流へと変えることにある。
カイルが民衆の心を掴み始めた一方で、俺たち「サンライズ・インテリジェンス」が次に狙いを定めたのは、王国の「暴力装置」すなわちハイシティ正規軍であった。
『カイル、いいか。どんなに民衆の支持があっても、剣を持つ連中が敵のままでは、最終決戦で全滅する。前世の倒産現場でもな、現場の職人(兵士)たちが「この上司はダメだ」と見限った瞬間が、組織がひっくり返る最大のチャンスなんだ』
俺武蔵猫は、カイルの机に広げた「軍の配置図」の上に、一粒の煮干しを置いた。
「でも武蔵、軍の指揮権は第一王子ゼクス兄さんが握っている。
兵士たちは厳格な軍規と、教団による思想教育でガチガチに固められているよ。
僕が近づいただけで、反逆罪で切り捨てられる」
『正面からぶつかるのは愚策だ。水の如く、彼らの「不満」という隙間に染み込め。
黒鉄、例の「給与明細」はどうなった?』
天井の闇から黒鉄がニヤリと笑い、一枚の羊皮紙を落とした。
「ニャ。大将、思った通りだぜ。軍の予算は増えているが、末端の兵士たちの給料は三ヶ月も滞納されてる。その金は全部、ゼクスが自分の私兵を豪華にするためと、司教への賄賂に消えてるぜ」
潜入:深夜の兵舎
その夜、カイルは俺を連れ、王宮の外郭にある「第三歩兵連隊」の営舎へと忍び込んだ。
この連隊は、かつてストーン王に最も忠誠を誓っていた古参の兵士たちで構成されているが、今は冷遇され、最も危険な国境警備や雑用を押し付けられていた。
「腹が減ったな。明日の演習、この空腹でこなせるかよ」
焚き火を囲む兵士たちが、痩せこけた頬を火照らせながら愚痴をこぼしていた。
「ゼクス王子は、自分の私兵には上等な肉と酒を振る舞っているというのに。
俺たちは泥水をすすれと言うのか。ストーン様が生きておられたら」
「よせ、誰が聞いているかわからんぞ。スパイ防止法で、明日には絞首台だ」
「その時、暗闇からカイルが静かに姿を現した。兵士たちは一斉に剣を抜き、殺気を放つ。
「何奴だ! な、カイル王子!?」
「静かに。皆さんに、今日の『夜食』を届けに来ました」
カイルの合図で、影から数百匹の猫たちが現れた。
彼らは口々に、オーウェン商会から提供された「干し肉」や「栄養価の高いパン」を包んだ小袋をくわえていた。
『(カイル、今だ。施しをするんじゃない。「取引」をするんだ。兵士は誇り高い。慈悲をかけると逆効果になることもある)』
カイルは俺の助言通り、居住まいを正し、兵士たちのリーダーである中堅将校、ロベルトに向き合った。
「ロベルト殿。これは恵みではありません。皆さんがこれまでこの国を守ってきたことに対する、当然の『正当な報酬』の一部です」
「報酬だと? 我々の雇い主は女王陛下とゼクス王子だ。あんたじゃない」
「いいえ。皆さんの雇い主は、この国の『民』です。そして今、民は皆さんが教団の犬としてではなく、国の盾として戻ってくるのを待っています」
知略の説得:経営的「乗り換え」の提案
ロベルトは干し肉を手に取りながら、冷めた目でカイルを見た。
「王子、あんたが優しいのは知っている。だが、パンと肉だけで俺たちが命を懸けると思うか? ゼクス王子の背後には、教団の魔術師がついている。逆らえば一族郎党、ただでは済まん」
ここで、俺がカイルの肩の上で一歩前に出た。
『だからこそ、俺たちが「保険」を用意したんだよ。ロベルト』
「ね、猫が喋った……!?」
『驚くのは後だ。俺たちはすでに、君たちの家族全員を、オーウェン商会の秘密の隠れ家へと移送する手はずを整えてある。明日、君たちが「演習中に迷子になった」ことにすれば、家族の安全は確保される。残るは、君たちの「誇り」の再雇用先だ』
カイルが、懐から一枚のメダルを取り出した。それは、ストーン王がかつて功績のあった兵士にのみ与えた「真実の石」の紋章だった。
「ロベルト殿、そして兵士の皆さん。僕は皆さんに『寝返れ』とは言いません。ただ、来るべき時が来たら、剣を振るう相手を間違えないでほしい。僕はサンライズ王国を建国する。その時、皆さんは『反逆者』ではなく、国の『創業メンバー』として迎え入れたいんです」
ロベルトは、手にした紋章を見つめ、長く重い沈黙を守った。
焚き火の爆ぜる音だけが響く中、彼はゆっくりと膝をつき、剣を地面に置いた。
「ずっと、待っていました。この腐った鎖を、誰かが断ち切ってくれるのを。カイル様……いや、我が主よ。第三歩兵連隊、一千二百名。本日より、影の軍勢としてあなたに帰依いたします」
兵舎を後にしたカイルは、夜風に吹かれながら、空を見上げた。
彼の瞳には、もはや迷いは微塵もなかった。
「武蔵、僕たちはついに、剣(軍)と盾(民)と財布(商会)を手に入れたね」
『ああ。組織の基盤は完成だ。だが、ここからが本番だぞ。カイル。女王ハイシティ……いや、教団の司教が、お前の動きを完全に察知した』
俺がそう言った瞬間、王宮の方角から不気味な鐘の音が響き渡った。
侵略戦争の開始を告げる「宣戦布告」の鐘だ。
『時間の猶予はなくなった。奴らは戦争という混乱に紛れて、お前を消し、民をさらなる地獄へ叩き落とすつもりだ。次は「火の巻」。攻めの兵法を始めるぞ!』
「受けて立つよ、武蔵。僕たちのサンライズ王国に、影を落とさせはしない!」
一匹の猫の軍師に導かれ、無能王子は今、真の王へと覚醒した。
ハイシティ王国の闇を焼き尽くす、「火の巻」の戦乱が幕を開けようとしていた。
TBC




