第六章 黒十字
翌朝、聖夜が目を覚ますと、奈莉栖の姿は既になかった。一階に降りると、鋼玉は昨日と同様、ソファで居眠りしているように見えた。しかし、聖夜が鋼玉の前に立つと、直ぐに目を開けた。寝ぼけている様子もない。
「えと、おはよう。あの、奈莉栖は?」
「自分の家に戻った。昼頃また来る予定だ。イシュタルは、明るい間に君を襲うことはしないと思うけど、念のため、それまでは俺が側にいるよ」
「ありがとう。それはそうと……奈莉栖とは、恋人なの? 随分仲が良さそうだけど」
聖夜はなんとなく聞いてしまった。鋼玉と二人になって聖夜に生じた感情は、奈莉栖への嫉妬心だったのだ。鋼玉の答えはどこか煮え切らないものだった。
「どうかな。告白されてOKしたと言う意味では恋人なのかも知れないけど、他の女性に告白されても断ってないから……。奈莉栖本人には、そういうのは恋人とは呼ばない、と言われたよ」
聖夜は、昨夜の奈莉栖の話を思い出した。教師を含む複数の女性との「恋愛関係」それは、告白されて断らなかった、という意味なのだろう。
「OKするということは、その人のことが好きなんじゃないの?」
やや刺々しく、聖夜は鋼玉に問い質した。
「好きという認識はないかな。ただ、求められたら応えないと、って思うだけだよ」
「な、なんて無責任な! 好きでもないのに付き合うなんて、相手の女の子にも失礼だよ!」
聖夜の声に露骨な怒りが籠もる。他の男とは違う、どこかミステリアスで素敵な男性……鋼玉のことをそう思っていたのに、女性なら誰でもいいと言わんばかりの態度だ。
「別に、俺の気持ちなんて関係ないだろ? 話を聞いて欲しいと言われれば聞くし、優しい言葉が欲しければあげる。プレゼントが欲しいと言われれば買ってあげるし、抱いて欲しいと言われれば抱くよ。付き合うというのはそういうことで、女の子は、それで満足なんじゃないのか?」
より酷いことを、鋼玉はさらりと言った。あまりの暴言に聖夜は咄嗟に反論もできない。
「望みを全部叶えているのに、それ以上を求められてもどうしていいかわからない」
本当に、自分の何が悪いのか分からないのだろう。鋼玉は少し困惑したような顔をしている。恋愛に対する考え方が、偏っているのを通り越して、病んでいるようにすら見える。恋が冷めた、そう思う反面、そんな鋼玉に、聖夜は哀れみにも似た愛着を感じてしまっていた。
「とりあえず、落ち着いたなら山を下りよう。ここにいれば安全だろうが、逆にイシュタルに見つけてもらえないおそれがある。この山の中には特に濃厚な外魔力が満ちているから……」
何も言わなくなった聖夜に、何もなかったように鋼玉が告げた。聖夜は黙って頷いた。
***
しばらくして、鋼玉と聖夜は山を下りた。さすがに白昼堂々、空を舞うわけにもいかず、徒歩での下山だ。先ほどの会話の後も、鋼玉の態度は特に変わっていないが、聖夜は彼とどう接していいか、分からなくなっていた。二人は無言で歩き続けた。
「聖夜、動くな。じっとしていろ」
鋼玉が口を開いたのは、二人が麓の神社に差し掛かったときだった。不意に命じられ、聖夜は反射的にその場に硬直した。まるで金縛りにでもあったかのようだ。
「ひょっとして、アレがいるんですか?」
一瞬遅れて、鋼玉の言葉の意図を想像し、聖夜は恐る恐る尋ねた。その問いには答えず、鋼玉は周囲に意識を張り巡らせている。聖夜の緊張感が限界に達する寸前、二人の周囲を取り囲むように、無数の黒い羽が飛来した。
「聖夜、来い!」
聖夜が動くよりも早く、鋼玉は強く聖夜の手を引き、抱き寄せると、聖夜を抱いたまま地を蹴った。前方から襲いくる羽に突進する形ではあったが、前方の羽は二人に触れる寸前で勢いを失い、地に墜ちた。後方からの羽をかわした鋼玉は、ポケットから鉄球を取り出す。
「そこ!」
自分たちの頭上、巨大な鳥居の上に座る人影に向けて、鋼玉は鉄球を放った。鉄球は弾丸を思わせる速さで飛んだが、人影は優雅な動きでそれをかわし、そのまま鳥居から身を踊らせ、二人の目の前に着地した。
「え、女の、子?」
聖夜が自分の目を信じられずに呟いた。確かに、目の前に降り立った少女は、背丈や顔立ちからすれば小学校高学年程度の年齢に見える。ただ、美しい銀髪と白皙の肌を黒いゴスロリ服に包んだその姿にはどこか生気がなく、西洋の生き人形を思わせた。その表情も幼いとは到底言えない。特にその紫暗の瞳には、邪悪と言い換えていいほどに冷たい知性が宿っていた。
「鬼……ではないのね。遠縁ではあるようだけど」
暫く聖夜を見つめていたその少女は、興味を失ったとばかりに聖夜から鋼玉に視線を移した。
「お前、何者だ?」
鋼玉が、幼い少女に向けるには冷たすぎる声音と視線で問い質す。鋼玉は瞬時に理解していた。この少女は危険だ、と。
「尋ねる側から名乗るのが礼儀だとは思うけど、いきなり襲いかかって礼儀を語るのもナンセンスね。わたしは夜月黒鴉。この神社の巫女の友人よ」
「問答無用で襲いかかる理由にしては薄弱だな。神社の前を通っただけの通行人を、巫女の友人が襲う必要はないだろう」
「そうですね。ですが、本当のことです。黒鴉は、単純な善意から私を手伝ってくれているにすぎません。ですから、私から謝らせていただきます。突然のご無礼、お許しください」
透き通った美しい声。いつの間にか、二人のすぐそば、鳥居の陰に、巫女装束の美しい少女が佇んでいる。清楚で落ち着いた雰囲気の少女だが、年は聖夜とそれほど変わらないだろう。
「鬼の気配を感じてもしやと思いましたが……。貴女のお名前は?」
巫女装束の少女が聖夜に向かって尋ねる。
「七月、聖夜です」
おずおずと聖夜が答える。
「そうですか。やはり、鬼の眷族でしたか」
「鬼の、眷族? 鬼って、桃太郎とかに出てくる、あれ? そんなもの、いるはずが……」
言い掛けて、聖夜は諦めた。昨日からの経験からすれば、鬼が出ようが妖怪が出ようが、それほど不思議はないと気付いたのだ。
「ここ富貴市の地名は、元は封鬼、つまり、鬼を封じると書いたらしい。同じように、この神社、姫刻神社も鬼哭、つまり鬼が哭くと書いたようだ。要するに、鬼退治を任じられた神社ということだ」
鋼玉が聖夜に説明する。
「よくご存じですね」
巫女の少女が微笑む。
「養父がこの地に強い興味を持っていたんでね」
「そうでしたか。申し遅れましたが、私はこの姫刻神社の巫女、桃園那由と申します。貴方の仰る通り、この神社は代々、暦鬼、つまり、この地に現れる鬼を封じてきました。貴女はその七番目の鬼、七つ鬼に縁があるのでしょう」
ななつおに、ななつき、七月ということなのだろう。
「じゃあ、その女も?」
鋼玉が黒鴉を見やる。
「はい。彼女は四つ鬼の眷族です。そして私も、八つ鬼の眷族。今は、異なる姓を名乗っていますが」
那由が答える。
「わたしには、お前の正体の方が気になる。お前、何者だ?」
鬼とは関係なさそうな鋼玉がここにいることを咎めるように、黒鴉がキツい口調で詰問する。
「俺か? 俺の名は、鋼玉だ。鋼の玉と書いてそう読む」
「可愛げのない名前だな」
「自分で付けた名じゃない。言われても困る」
憮然として、鋼玉は答えた。
「だが、聞いたことがある。この辺りに住むフリーランスの狩人だったか」
「そんなようなものだ」
「腕利きと聞いているが、お前のようなガキだったとはな」
鋼玉よりも更に幼い少女にガキ呼ばわりされても、鋼玉は何も言わなかった。聖夜からすれば、鋼玉のことを知る黒鴉の正体をこそ知りたかったのだが、鋼玉は黒鴉のことになど興味がないと言いたげだ。
「では、私たちはこれで。本当に、すみませんでした。ですが、お気をつけください。鬼の血は、鬼を呼びますから」
一礼して、那由が二人の前を辞した。
「別の意味で、お前は気を付けた方がいい。怪しげな真似をすれば、わたしがお前を狩ってやる」
言い捨てて、黒鴉も那由に続いた。
肩を竦め、鋼玉も歩きだした。手を引かれ、慌てて聖夜も続く。
「変な、人たちだったね」
聖夜が素直な感想を漏らした。鬼の眷族、などと言われても、聖夜にはまったく理解できていなかった。
「ああ。あのクロアという女、昨日俺たちの話していた、異端審問官だ。巷では、黒い十字架の名で知られているが、普段はヨツキクロアと名乗っているんだな」
黒鴉の名に過剰に反応しなかったのは、自身の目的について、なるべく注意を引きたくなかったからだろう。昨夜の話では今一つ実感できなかった聖夜だが、今なら鋼玉たちが厄介だと言った意味がわかる。先ほどの身のこなしや羽を操る不思議な術からしても、相当な曲者であるのは間違いないだろう。
「大丈夫なの? あの人、鋼玉のことも知っていたみたいだったけど」
「狭い世界だし、そもそもご近所さんだからね。噂くらいは聞いていて当然だよ。魔術師の関係者なら、特に理由なくこの地に居を構えていたとしてもそれほど不思議じゃない。下手に動かないように気をつけておけば、当面は特に問題ないだろう」
言って、この話はこれで終わり、とばかりに鋼玉は歩を速めた。黒鴉が何らかの盗聴のようなスキルを有していても不思議はない。鋼玉からすれば、尻尾を捕まれるような話題は極力避けたいところだった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
鋼玉に引きずられ、ようやく聖夜は気付いた。先ほどの黒鴉の襲撃で手を引かれて以降、鋼玉と手を繋いだままだったのだ。意識した途端に一気に顔に血が昇る。恥ずかしい一方で、手の触れ合いは心地よく、自分から手を離すのも惜しい気がした。とりあえず、手を引かれるまま、聖夜も足を速めた。
神社を過ぎて、二人は少し大きな通りに出た。早朝ではあったが、それなりに人通りもある。
ここ最近、聖夜は外を歩くのが怖かった。全ての男が自分を狙っている、そんな風に感じていたからだ。鋼玉のように聖夜の魅力に抵抗できる男もいることからすれば、被害妄想と言われても仕方がないが、それでも限りなく事実に近い被害妄想だった。しかし、鋼玉と一緒なら男たちの視線もそれほど気にならない。どこか凄味のある鋼玉を前に、堂々と聖夜を口説こうとする者も皆無であった。
「聖夜!? あんた何してるの? その男は誰なのよ!?」
鋼玉に手を引かれて歩く聖夜に声を掛けてきたのは、聖夜のクラスメートだった。登校途中なのだろう、制服姿だ。それに対して、聖夜は奈莉栖の用意した私服姿だ。こんな朝早くから、同世代の男と手を繋いで歩いているのだ。朝帰りの最中と見られても仕方のない状況だろう。
「え、こ、これは違うの。その……」
聖夜は慌てて言い訳しようとしたが、事実を語るわけにもいかず、言葉に詰まった。赤くなってもじもじしているだけなのであるから、これでは誤解してくれというようなものである。
「悪いが、急いでるんだ。聖夜は今日は学校に行けないから、適当に言い訳をしておいてもらえると助かる」
淡々と、鋼玉は事実のみを述べ、聖夜の手を引いたまま足早にクラスメートの前から立ち去った。
「ちょ、ちょっと、あんな説明じゃ誤解されちゃうよ」
「あの場で思いつく程度の言い訳で済むのなら、後日いくらでも釈明できるだろ。今一番重要なのは、なるべくアレに居場所以外の聖夜の情報を与えないことだ。交友関係でも知られれば、アレは友人を人質に取るくらい平気でする。今日は、適当に気配を振りまいたら、夜まで家でじっとしている方がいい」
正論であろうが、クラスメートが学校で聖夜たちのことを憶測混じりに話して回ることはまず間違いない。後日言い訳したところで噂まで消せるとは思えない。聖夜は大きなため息をついた。
「あの、そろそろ手、離して。近所の人に見られるとまずいから」
家が近づき、聖夜はそう言って鋼玉の手を振りほどいた。
「ああ、悪かったな」
聖夜としては、寧ろ名残惜しいくらいであったのだが、平日のこんな時間に手をつないだままで家に入るのを近所の人に見られれば、学校での噂以上にひどいことになる。その辺りが、田舎暮らしの煩わしいところだろう。
「そうそう、あそこがさっき言っていた公園だよ」
気まずさを振り払うように明るく言って、聖夜が前方の公園を指差した。明らかに幼児向けの遊具が二つあるだけの、見晴らしのよい小さな公園だ。
「悪くないな」
かなりさびれた公園である。素行の悪い者がたむろしたり、若い恋人が愛を語るにも適しているとは到底言えず、夜にわざわざここを訪れる者は稀だろう。
公園の下見を終えて、二人は聖夜の家に着いた。聖夜の家は古い一戸建てである。父は単身赴任であり、母と二人暮らしをしているが、共働きの母は既に仕事に出ており、夜まで戻らないはずだった。昨夜のうちに、聖夜は友人宅に泊まることをメールで母に伝えている。たまにあることであり、変に勘ぐられたりはしていないだろうと聖夜は考えていた。
中に入ると、聖夜はとりあえず、鋼玉をリビングに通した。そして、気になっていたことを聞いてみる。
「どうして、ずっと手を繋いでいたの?」
「きっかけは、黒鴉からの攻撃をかわすためだったけど、その後も素早い移動を促す必要があったし、特に離す理由もなかったと思うんだけど」
鋼玉は淡々と答える。君と手を繋いでいたかった……。そんな言葉が聞けると思っていたわけではないが、聖夜は少しがっかりした。そんな聖夜に、鋼玉は信じられないことを言った。
「手を繋がれて、抱かれたくなった?」
言葉の意味がわかるまでにたっぷり数秒固まった後、聖夜は羞恥で倒れそうになりながら後ずさった。
「な、な、な、な、何でそんなこと言うのよ!? だ、抱かれたくなんか……」
「何となく、そう感じただけだよ。近づいて肌を触れ合わせればそうなるのは、動物としては至極自然だし、慌てて否定するほどのことでもないと思うけど?」
相当恥ずかしいことを口にしているにも関わらず、鋼玉の顔は至って真面目だ。卑猥な話をしているつもりはなく、単に生物学的な話をしているつもりなのだろう。そこに羞恥や罪悪感といった感情は見られない。聖夜の表情からか、仕草からか、生理的な変化がわかるのかも知れない。
「したいとかしたくないとか以前に、する相手とか時とか状況とか雰囲気を選ぶのが人間でしょ!」
「それはそうかも知れないな。求められて答えるだけだからあまり考えたことはないけど、理解はできる」
「鋼玉は、その、したいの?」
「いや、別に。特に積極的にそういう気分というわけではないけど。聖夜がしたいなら、付き合うと言っているだけだよ」
愛情がないだけでなく、欲情されてすらいないとは! 単なる性欲で抱きたいと言われる方がまだマシだったかも知れない。
「ごめんなさい。私は、したくない。鋼玉は私のことが好きなわけじゃないでしょ? 永遠に、なんて無理でも、少なくともしばらくの間は私のことを好きになってくれて、私だけを見てくれる人じゃないと、したくない」
鋼玉が聖夜を一人の女性として欲しているのであれば、聖夜はそれを許したかも知れない。或いは、鋼玉の言うように、聖夜の体は強く鋼玉を欲しているのかも知れない。それでも、自分のことを見てすらいない鋼玉と、刹那の快楽のためだけに体を重ねることは、聖夜の貞操観からは抵抗が大きすぎた。
「そうか。なら別にいいよ。俺は少し調べものをするから、何かあったら呼んで」
気を悪くした様子もなく、相変わらず淡々と、鋼玉は言った。しかし、聖夜は、その口調の中に、ほんの微かだが捨てられた子犬のような寂しさが滲んでいるような気がした。




