第四章 援軍
大体の説明が終わると、鋼玉はまた少し不機嫌そうに黙り込んだ。沈黙が痛い。
「ね、ねぇ、こ、鋼玉……くん、前髪、左目にかかって、見にくくないの?」
聖夜は意を決して、ここに来た目的を果たそうと、行動に移った。そう、「誘惑」だ。さり気無く鋼玉に近付き、耳元で甘く囁きながら、その少し癖のあるミディアム・ショートの髪に指を絡めたのだ。
今の聖夜は、素裸の上から男もののTシャツを羽織っただけの、何とも煽情的な格好だ。しかも、髪が揺れる度、仄かに甘酸っぱいシャンプーの残り香が鼻孔をくすぐり、自分で考えてもいかにも「美味しそう」だ。当然、まだ男性経験のない聖夜は、会ったばかりの鋼玉に最後まで許すつもりはない。鋼玉がその気を見せればすぐに拒絶しようと考えていた。
それは聖夜にとって、今だかつてしたことのないような、大胆な行動だったのだが、鋼玉は動じた風もなく、淡々と答えた。
「左目は義眼のようなものだよ。もともと視力はないんだ」
言われてみれば確かに、右目の美しい黒瞳に比べて、前髪の隙間から覗く左目はどこか燻んだ感じであり、どことなく人工的な感じがする。
「ご、ごめんなさい……」
またも地雷を踏んでしまった気がして、聖夜はそれ以上何もできなくなった。
「別に、君が謝るようなことじゃない」
申し訳なさそうな顔の聖夜に、鋼玉は気にした風もなく、淡々と答える。
「でも、わたしってば、考えなしに不躾な質問しちゃって……」
カチッ
言いかけた聖夜を遮るように、部屋の電気が消えた。何も見えない。
「聖夜、下手に動かず、じっとしているんだ」
鋼玉の落ち着いた美声のお陰で、聖夜はパニックにならずに済んだ。とっさに鋼玉に抱きついたまま、じっと息を潜める。待つこと暫し、何の前触れもなく、再び電気が点いた。眩しさに、聖夜が目を細める。
「よかった、ただの停電だったのか……な!?」
視力が戻り前方を見ると、見知らぬ美女が鬼のような形相で、抱き合う聖夜と鋼玉を睨みつけている。
「人に人探しを手伝わせておいて、自分はのうのうと女を連れ込んでお楽しみなんて、いい身分じゃない」
苦々しげに、女は吐き捨てた。怒りの表情を差し引いても、聖夜が思わず見惚れるほど、女は美しかった。よく見れば、ばっちりと化粧をしているため大人びて見えるものの、年の頃は聖夜とそう変わるとは思えない。都会に住むお洒落な私服姿の女子高生、というのが聖夜の見立てだ。
「別に自分の家に女を連れ込んで悪いとも思わないけど、今回は違うよ。彼女は成り行き上、助けただけだ」
聖夜の頭に浮かんだのは、浮気現場を押さえられた修羅場な状況であったが、鋼玉は全く取り乱すこともなく淡々としていた。
「ふーん、成り行きで助けただけなのに、抱きあって指に髪を絡めて貰ってるんだ。助けたお礼に体でも求めたの? 節操なしなあんたらしいわ! 貴女も、人前で淫ら事に耽らないでよ、この、淫売!」
女がヒステリックにまくし立てる。聖夜は慌てて鋼玉から身を離したものの、何故初対面の人間にそこまで言われなければならないのか、理不尽に感じてもいた。
「とりあえず、黙れ。さすがに鬱陶しい」
鋼玉の美声が命じた。特に威圧的な口調ではなかったが、女……奈莉栖は、何か言いたげであったものの、渋々口を噤んだ。
「悪かったな、聖夜、驚かせて。彼女がさっき言った援軍、各務奈莉栖博士だ」
「は、博士!?」
信じられない思いで、聖夜は奈莉栖を見た。魔術師と言われた時よりも驚いたかも知れない。奈莉栖は、どう見ても明らかに未成年だ。それこそ、聖夜と一つ二つしか変わらないだろう。先ほどのヒステリックな言動といい、その私服姿の女子高生のような外見といい、博士のイメージからはほど遠い。
「博士って呼ぶのは止めてって言ってるでしょ」
鋼玉の、ごく普通の紹介にも、奈莉栖は噛みつく。
「俺のように高校も卒業できなさそうな落ちこぼれと違って、立派な学歴なんだからそう嫌がることもないだろう」
そう言う鋼玉の口調には卑屈な所は全くない。さしたる感慨もなく、ただ淡々と事実を述べている、そんな感じだ。
「博士号に何の有り難味も感じていない人間に、わざわざそう呼ばれるのは不愉快だわ」
「協会とのやりとりでは、君はDr. Kagamiと表記されるから、つい、ね。だけど、不愉快というなら気をつけるよ」
一歩引いた鋼玉に、奈莉栖が満足気に頷く。機嫌が治ったかと思ったのも束の間、奈莉栖は聖夜を睨みつけた。
「で、この雌豚は一体なんなの」
淫売だの雌豚だの、博士と呼ぶよりも遥かに失礼だと思ったが、鋼玉を誘惑しようとしていたという負い目があるため、聖夜は何も言えなかった。
「初対面の女性に、そういう失礼な口の利き方はどうかと思うけど」
流石に呆れたように、鋼玉がたしなめる。
「アンタ気付いてないの? この雌が使っているのは超強力な『性愛の魔術』よ。ただ男をたぶらかすためにこんな魔術を使うなんて、どんな淫乱よ」
汚らしいものを見る目で、奈莉栖が聖夜を睨む。鋼玉は奈莉栖の言葉を確かめるように、その冷たい瞳で聖夜の体をじっと見つめた。
「俺にはそんな魔術を使っているようには見えないな。確かに、魅力的な体ではあると思うけど」
「わからないですって!? 意志の弱い男なら問答無用で襲いかかってしまうくらい強力な魔術よ。その目は節穴?」
「なに、それ……。何言ってるかわからないよ……」
聖夜はわけがわからず、茫然としている。
「呆れた、貴女もそんな性質の悪い魔術、知らずに使っているの? 犯してくださいって言っているようなものよ?」
奈莉栖は、心底信じられないということを、表情とジェスチャーで示した。
「確かに、聖夜はイシュタルと遭遇した時も、男に襲われていたようだが……」
「そんな……わたし、魔術なんて使えないよ……」
怯えた小動物のように震え始めた聖夜に同情したのか、奈莉栖の表情が少し和らぐ。
「自分で使ったのでないとすれば、ちょっと問題ね……。どんな術式に拠ったか分からなければ、解呪もできないし……。何かきっかけのようなものはなかったの?」
「きっかけ……」
聖夜には、特に思い当たる節もなかった。好きな人を振り向かせるために恋のおまじないをしたことも、魔女の怒りを買って呪いを掛けられた覚えもない。
「心当たりは何も、ないです……」
申し訳なさそうに、聖夜は俯いた。
「数か月前から急に、男の人から頻繁に告白されるようになって、それが段々エスカレートして……。わたしにもどうしてかわからないんです……。ごめんなさい」
「別に謝る必要はないわ。でも、早くなんとかしないと危なくて外も歩けないわよ」
深刻そうに、奈莉栖が考え込む。
「聖夜のその『魅力』は、先天的なものじゃないのか?」
鋼玉が何かを思いついたように口を開いた。
「聖夜の『魅力』が魔術で賦与された一時的なものなら、イシュタルが聖夜を狙うとは思えないんだけど」
「そんな、確かにこの子の『魅力』は魔術的なものよ」
「最年少で協会の上位魔術師となった魔術の申し子がそう言うんだ、その点については疑っていないさ。だけど、そもそも普通の人間も、内魔力を使って動く以上、一種の魔術装置と呼びうる……そんな学説があるだろ?」
奈莉栖も鋼玉の言うことを理解したようだ。
「つまり、この子の身体それ自体が、魅了の魔術を発現する魔術装置ってこと?」
鋼玉は頷いた。
「言ってみれば、全身が魔眼のようなもの、ということだろ。この山を始め、この地には外魔力が満ちている。これだけ、霊的に強い力を持った地だ。この地に住む人間に、そういう特殊な力を持ったものがいても、不思議はないんじゃないかな」
「えっと、話が全然わからないんだけど……」
二人の会話に頭を抱える聖夜に、鋼玉が説明した。
「簡単に言えば、オドやマナと言うのはいわゆる魔力のようなものと思ってくれていい。生命体が自らの体内で生成する生体エネルギーをオド、生命体をとりまく外界に、自然に存在するエネルギーをマナと呼ぶ。こうしたエネルギーは、いわゆる魔力として利用可能で、それを利用する術が魔術と呼ばれる。アーティファクトというのは、オドやマナの魔力への変換から術の発動までの一連の儀式ないし術式を自動的に行う、道具のようなものなんだ」
鋼玉が当然の常識を語るかのように淡々と言う。
「加えて言えば、儀式や術式なしで魔力そのものを自在に操る方法を魔法といって、魔術とは区別するの。それは、言わば神の定めた根源的な法。魔術師は、その法に則って術を行使しなければ魔力を扱えないわ。つまり、魔術には、法に従わなければならないという制約があるの。その法を一部でも解き明かして、体現できた者を魔法使いと呼んで、魔術師とは区別するんだけど……。まぁ、魔法使いなんて、滅多にお目にかかれるものじゃないんだけどね」
奈莉栖が補足する。
「鋼玉も、奈莉栖さんも、その、魔術師なんですよね?」
聖夜は、魔術師だって滅多にお目にかかれるものではないと思ったので、一応聞いてみた。
「奈莉栖は、ね。俺は魔術師ではなく、錬金術師に分類されるんじゃないかな。魔力を扱うという意味で重なる部分もあるけど、俺が魔術師を名乗ったら協会は嫌な顔をするだろうな」
鋼玉が自嘲気味に笑う。
「確かに、認めたくはないでしょうね。協会は、建前上は真理に至ることを目的とする者、言い換えれば、体系的に魔術を研究し、修めた者しか、魔術師と認めないから。でも、認めないとして、協会の魔術師に討伐できない標的を、鋼玉に狩って貰っているという事実を、どう整合させるのかしらね」
協会の一員、しかも幹部でもある奈莉栖が、他人事のように皮肉に笑った。
「どうせ、半端な落ち零れを、捨て駒として態よく使っているという程度の認識だろうさ……。それより、今後のことだ。イシュタルは俺から逃げ出したけど、その程度で聖夜を諦めるとは到底思えない。隙を見て、聖夜を奪おうとすると思う。俺が傍に付いている間は、行動には出ないかも知れないけど……」
「でも、襲ってくれないとどこにいるかも分からないし、困るわよね。そのセクシーな美少女を餌にするつもり?」
歯に絹着せぬもの言いに、聖夜は少しむっとしたが、鋼玉もためらいなく頷いた。
「ああ、聖夜には悪いが囮になって貰う。イシュタルが聖夜を狙っている以上、それが一番だろう」
「そ、そんな、囮なんて、嫌です! 怖いし……」
イシュタルの恐ろしい笑い声を思い出して、聖夜が泣きそうな顔をする。
「言い方が気に食わないなら、護衛として見守る、と言い換えてもいい。やることは変わらないけど……。聖夜にしたところで、これ以上平穏を乱されるのは、迷惑だろ? だから明日の夜、ケリをつける」
「もう十分迷惑よねぇ。しかも化け物を呼び寄せるための餌にされるなんて」
奈莉栖が意地悪く言う。聖夜もそう言いたかったのだが……。
「聖夜には傷一つつけさせないよ」
鋼玉の美声で力強く断言されると、聖夜は何もかも許してしまえる気がした。
「別にあたしはどうでもいいけどね。聖夜を一人にして泳がせるの?」
「悪いけど、奈莉栖が聖夜に付いていてくれないか? イシュタルは君の力を知らない。君がいても気にせず聖夜を襲おうとするだろう」
「迷惑ね。まあ、お礼次第ではやってあげなくもないけど」
「礼ならするよ。いくらでも、ね」
奈莉栖のような女性に好きなように礼を要求させるなど、聖夜からすれば非常に怖いと思ったのだが、鋼玉は事もなさげに請け合った。
「ならいいわ。でも、あたしで何とかなるの?」
「イシュタルの戦闘能力自体は大したことがないよ。その気になれば、君一人で難なく倒せると思う。あれは、本来戦闘用ではないから……」
では、何用なのか……。鋼玉は「愛玩用」というその本来の用途には敢えて触れなかったが、彼の不快感だけは二人に伝わったようだ。
「でも、殺してはいけないのよね?」
「ああ。イシュタルと遭遇したら、俺に連絡して、俺が着くまで聖夜を護って欲しい。過度に攻撃するのは避けてくれ。奴は勝てないと感じたら空を飛んで逃げる」
「わかったわ。でも、どこでイシュタルを待つの?」
「夜中に人気の少なくなる、公園のような場所がいいな。聖夜、心当たりはないか?」
「住宅街の公園でよければ」
聖夜が家の近所の公園を思い浮かべて言う。富貴市は比較的治安のいい田舎町だ。繁華街も駅近辺だけで、そこから離れると夜は極端に人通りが少なくなる。仕事帰りの会社員が通りかかる可能性はあるが、それも一定の時間を過ぎればそれほど多くはないだろう。
「じゃあ、明日の夜、二人にはその公園に居て貰おう。俺は、少し離れた所に身を隠して連絡を待つよ」
聖夜と奈莉栖は頷いた。
「イシュタルはそれでいいとして、他の狩人たちの動きが心配だな。先に狩られてしまっては、元も子もない。奈莉栖、本当に大丈夫なのか?」
「協会の狩人については気にしなくていいわ。『目』はこの辺りから外してあるし、見付けた時の情報も隠蔽済みだから。でも、教会関係者に、要注意人物がいるわね」
「この地に住む異端審問官、か……」
奈莉栖は無言で頷いた。
「確かに厄介だな……。不思議と会ったことはないが、黒の姉妹と言ったか」
「正確には、黒い十字架、姉の方ね。妹はただの悪魔祓いだったはずよ。彼女がいるのは、まぁ当然想定の範囲内だけど、実はもう一人、異端審問官がこの地に来ているようなの」
「それは、不自然だな。理由はわかっているのか?」
「そこまではわからないけど、異端審問官が同じ場所に二人もいるなんて、よほどのことでしょうね」
「誰が来ているかはわかっているのか?」
「嫌な予感がしたなら当たりよ。ジャック・シンクレア」
「よりにもよってあの悪魔憑きか……。最悪だな」
鋼玉が軽く頭を抱えた。謎の多い異端審問官の中にあって、悪魔憑きのジャックは悪魔を使役する聖職者というその異常さ故に魔術師の間でも有名だった。
「あの、キョウカイとか異端とか、また話がわからないんだけど……」
聖夜が控えめに質問する。鋼玉と奈莉栖が顔を見合わせ、苦笑する。諦めたように肩を竦めて、奈莉栖は説明を始めた。




