第二章 『究極の美女』
「はぁ、はぁ……」
息はほとんど切れかかっている。もう長くは走り続けられないだろう。
七月聖夜は走りながら後ろを見やった。これは愚策だ。振り向くことで走るスピードが落ちれば、簡単に追いつかれてしまう……。そんなことは百も承知だったが、振り向かずにはいられなかった。
(どうして、私ばかりこんな目に遭わないといけないの!?)
男は、徐々に距離を詰めてきている。追いつかれるのも時間の問題だろう。
それは学校の帰り、バス停から自宅へと向かう途中の出来事だった。時刻はまだ18時になるかならないかだったが、12月半ばともなれば既に日は落ちて辺りは暗い。加えて、帰り道は街灯すらほとんどない暗い田舎道であり、しばらく歩かなければ民家も見えない。聖夜が男と会ったのは、そんな状況であった。
見たことのない男だったが、聖夜と目が合うや、男はいきなり、下卑た表情を浮かべ聖夜ににじり寄ってきた。瞬時に、聖夜は悟った。
(逃げないと、犯される……)
***
S県立富貴高校2年生の七月 聖夜は男性にモテた。確かに、彼女は、愛くるしい大きな瞳と、肩まで伸ばした美しい黒髪を持った可愛らしい少女だ。背はそれほど高くなかったが、最近体つきもぐっと女らしくなった。しかし、高校2年生にしては化粧っ気がほとんどなく、同学年の女子の中では幼く見えることもあり、本来それほど男性の目を惹くタイプではない。まだ花開く前の蕾なのだ。
聖夜は中学生の頃から年に2、3回は男子生徒に告白されていたが、それも容姿のお陰と言うよりは、寧ろ彼女の親しみやすい性格によるところが大きかった。
それなのに、ここ数カ月の彼女のモテ方は、はっきり言って、異常だった。今月に入ってからだけでも、既に20人以上の男子生徒から告白されているし、町を歩けば、広告付きのティッシュを貰うよりも頻繁にナンパされる。
しかし、彼女はその全てを断っていた。理由は、彼女に言い寄る男たちの目が、自分のことを好きであるようにはとても見えなかったからだ。彼女には、彼らの目が、欲望にぎらついているようにしか見えなかった。
これは、思春期の少女にありがちな、異性に対する曖昧な嫌悪感や恐怖心ではなかった。男たちは明らかに彼女に性的な欲望を抱いている。事実、彼女は毎月のように男に襲われているのだ。今月も、暴漢に襲われるのは、これが二度目であった。一度目は何とかことなきを得たが……。
***
いきなり抱きつこうとしてきた男を突き飛ばし、聖夜は逃げだしたのだが、男はしつこく追ってきた。男の足がそれほど速くなかったのは幸いだが、体力ではさすがに敵わないようで、全力で走り続けている聖夜はそろそろ限界に近い。後少しで、人通りのありそうな大きな通りにでるのだが……。
「痛っ」
追いついてきた男に服をつかまれたせいで、聖夜は勢いよく転んでしまった。擦りむいた膝がジンジンと痛む。なんとか起き上がろうと膝をついたが、目の前に立った男に突き飛ばされ、尻もちをついてしまった。
「ぃゃ……やめて、来ないで……」
聖夜の必死の叫びも、男には聞こえていないようだ。男は息を荒げ、血走った眼で聖夜ににじり寄ると、制服のコートに手をかけ、乱暴に引っ張った。
「きゃっ……」
ボタンが引きちぎられ、コートがはだける。ブレザーと、その下のブラウスを見ると、男は再びボタンを引きちぎった。下着の隙間から、聖夜の白く美しい胸の谷間が露わになった。聖夜はもう、恐怖で目を開けていられなかった。ただ必死に腕を伸ばして、聖夜の胸にしゃぶりつこうとしているらしい男を拒み続けた。
涎を垂らしているのだろうか、生暖かい液体が胸の谷間に垂れてくる不快感……それが全身に広がって、広がって……。
(えっ?)
そこで聖夜は違和感を覚えた。涎だけでこれだけ全身が濡れるのは、おかしいのではないか。それに、男の力も心なしか弱まっている。
おそるおそる目を開ける。聖夜の目に映ったのは……大量の血を吐きながら息絶えている男と、男の腹部から生えた、白く細い腕だった。
「きゃ、きゃぁぁぁぁ……」
衝撃的な映像に、パニックに陥る。聖夜は、もたれかかってきている男の死体から逃れるように、尻もちをついたまま後ずさった。恐怖で腰が完全に抜けており、とても立ち上がれそうにない。
支えを失って地面に倒れた男の死体の後ろから現われたのは、一人の女性だった。年の頃はわからない。聖夜と同じくらいにも、またずっと成熟した大人の女性のようにも見えた。ゆったりとした黒絹のドレス――西洋風の喪服にも見えるが、それにしては胸元が開きすぎている――を身に纏っている。
女の肌はその服とは対照的に、病的なまでに、白い。ただその右腕だけが、男の体内から引き抜かれたせいで、朱に染まっていた。
「見ぃつけた……。さぁ、一緒になりましょ?」
優しい声音だった。表情も、慈愛に満ちた聖母を思わせるほど安らかだ。聖夜は一瞬、その申し出が自分に救いをもたらしてくれるかのような錯覚を覚えたが、差し出された血染めの手を見て我に返った。
「いや、来ないで……化け物!」
「なんて失礼な……『究極の美女』であるこの私をつかまえて、化け物ですって?」
女は怒ったように、声を荒げたが、その後すぐに、笑い始めた。最初はふふふ、と上品な笑いであったが、その笑いは徐々にトーンを上げ……遂には気が触れたとしか思えないほど、けたたましい笑いになった。その笑顔も恐怖すら覚えるほどの凄絶なものに変わる。
「あっはは、よくわかってるじゃない。でも、安心して? あなたも、すぐにその化け物の一部になるんだから」
男を殺した女の手が、聖夜に迫る。聖夜は尻もちをついたまま必死で後退し、そこで何かにぶつかった。もう、後ろには下がれない。
女から目を離すのは怖かったが、逃げ道を探すために、聖夜は恐る恐る振り向いた。道を塞いでいるのは、黒いジャケット姿の男性……いや、少年であった。年は聖夜と同じか、やや若いくらいだが、それでも聖夜には頼もしい救世主に見えた。
(助けてください、殺される)
必死で叫ぼうとするが、声にならない。聖夜が言葉を発するよりも早く、少年が口を開いた。
「久しぶりだね、黒曜」
少年の声には、親密な響きがあった。現れたのが救世主ではなく、女の仲間だと知って、聖夜は、遂に絶望した。
しかし、そんな聖夜の絶望とは裏腹に、女の様子は変わっていた。先ほどまでの狂気を宿した表情から一転、今は明らかに理性的な顔をしている。
「あら、鋼玉。久しぶり。相変わらず、辛気臭い顔をしているわね」
口調は皮肉っぽいが、こちらにも親しみがこもっているように感じられた。
「君は随分と変わったね」
鋼玉の顔に寂しげな表情が浮かぶ。同時に、女の顔から再び、理性が消えた。
「あっはは、可笑しい。当り前じゃない。だって、わたしはもう、黒曜じゃないんだもの。あなたにだって、わかっている癖に」
女は再び、狂ったように笑い始めた。壊れた、という表現がぴったりの笑いだ。笑い声が美しいだけに、一層、不気味さが増す。鋼玉は、聖夜を庇うように前に出た。
「どいて、邪魔よ。わたしは、そのいやらしい雌を取り込んで、もっといい女になるんだから!」
急に、凛とした声音で言い放ち、黒曜――既にそう呼ぶべきではないのかも知れないが――が二人に迫る。
鋼玉は、焦るでもなく懐に手を入れた。取りだしたのは一握りの小さな鉄球、つまりは、パチンコ玉だった。鋼玉は迫りくる黒曜目掛けて、鉄球を次々と指で弾く。先刻、魅玖に教わった指弾だが、「門」を通している。魅玖が見せたものよりも格段に威力は上だ。鉄球が指で弾いたとは思えないほどの速さで、容赦なく黒曜を打ち据える。
「ぎゃああああ」
痛みに、黒曜はおぞましい悲鳴を上げた。しかし、鋼玉は顔色一つ変えずに鉄球を弾き続ける。
「おのれ……」
黒曜は飛び上った。痛みと怒りに我を忘れたのか、一気に跳躍してくるように見えた。
鋼玉は冷静に、黒曜の喉に狙いを定めた。窒息させて、動きを止めようという狙いだったのだが……。黒曜は、空高く跳び上がると、そのまま後ろを向いて逃げ出した。ゆっくりとした動きではあるが、黒曜は空を飛んでいた。
ちっ、と舌打ちを一つして、鋼玉は走り出した。空を飛ぶ相手を追い掛けようというのか……。鋼玉が地を蹴って跳びあがろうとした瞬間、後ろから両足を掴まれて鋼玉はつんのめった。鋼玉が後ろをみやると、聖夜がしがみついていた。
「お、置いて行かないでください……」
目に涙を溜めながら、必死にお願いする。黒曜はもう、空の彼方だ。鋼玉は溜息をつきながらも、渋々頷いた。
「立てる?」
鋼玉は座り込んでいる聖夜の手を引き、立たせた。聖夜は露わになった肌を隠すように腕を組む。かなり際どい格好の筈だが、鋼玉は寧ろ不機嫌そうな顔でまっすぐに聖夜の目を見ている。
「あ、ありがとうございました。あの、あなたは、一体……」
「俺の名は、鋼玉。鋼の玉と書いてそう読む」
ぶっきらぼうに、鋼玉が答える。寧ろ、あの化け物女に話しかけるときの方が優しい声だったのではないか。少し傷ついたが、それでも、非現実的な出来事にパニック状態であった聖夜は、鋼玉の美しい声に少し落ち着きを取り戻した。
そして、改めてじっくりと鋼玉を見て、聖夜は見惚れた。取り立てて特徴のない顔立ちであるのに、どこか惹きつけられるものがある。一言で言えば、「いい男」だ。一目惚れ……そんな言葉が頭を過ぎり、聖夜は激しく首を振った。
(これはきっと、世に言う吊り橋効果に違いないわ。安全が確保されれば、冷静になるはずよ!)
聖夜はそう自分に言い聞かせたが、不機嫌そうな鋼玉と目が合うだけで心がときめくのを、止められなかった。
「わ、わたしは、七月……聖夜といいます」
聖夜は恥ずかしそうに言った。聖夜と書いてイブと読ませるその名前にコンプレックスがあるのだ。いわゆる「きらきらネーム」という奴で、笑われることも多い。しかし、鋼玉はそのあまり日本人らしからぬ聖夜の名前に、何の反応も示さなかった。興味がない、とでも言わんばかりだ。
「災難だったな。あんなものにつけ狙われて」
それでも、一応は聖夜を気遣ってみせる。聖夜は、鋼玉があの化け物女と知り合いらしいことを思い出した。
「あの、あの女の人は一体、なんなんですか? 私はどうして狙われたんですか?」
疑問を口にすることで思い出してしまったのだろう、聖夜は震え始めた。
「答えてもいいが、長い話になる。君もそんな格好だし、ここでは話すのはやめた方がいい。俺の家に来る?」
聖夜は真っ赤になった。この男は初対面の女性に突然何を言い出すのか。しかも、自分は服を破かれ、下着が見えるような煽情的な格好なのだ。折角助かったのに、このままでは、今度こそ犯されてしまう……。
そこまで考えて、聖夜は気付いた。鋼玉はまっすぐに自分を見て喋っている。それなのに、自分を見る鋼玉の目からは、これまで他の男達から感じたような、欲望にぎらついた感じを受けないのだ。
恐らく、鋼玉には下心などないのであろう。単に成り行き上巻き込まれ、助けを求める聖夜を、義務感から庇護しようとしているに過ぎないのだ。
それに気付いて、聖夜は、いささか自尊心を傷付けられた気がした。ここ数カ月、聖夜を見て平常心を保てた男などいなかったのだ。今まで散々、男の下劣さを嫌悪してきたのに、いざそういう目で見て貰えなくなると、何となく、もやもやしたものを感じてしまう。それと同時に、聖夜は少々身勝手な怒りも感じていた。
(なんでこんないい男に限って、わたしに魅力を感じてくれないの!? ホモなの!?)
「どうする?」
思わずイケない妄想に耽っていた聖夜は、鋼玉の声で現実に戻った。そして……。
「お言葉に甘えさせていただきます」
誘惑してやる、そう心に誓って、聖夜は勢いよく返事した。




