第十三章 イシュタルと鋼玉
「あたしみたいな、か弱い一般人相手に大人げないわね」
黒鴉の前に立ち塞がる奈莉栖に余裕などないはずだが、意外なほど奈莉栖は落ち着いているように見えた。黒鴉は、その理由を訝りながらも、奈莉栖を嘲る態度を崩さない。
「強い弱いは関係ないわ。異端かどうかは、つまり、断罪されるべきか否かは、異端審問官が決めるんだから」
黒鴉の傲慢な言葉を、奈莉栖は鼻で笑った。
「別に異端にでも何にでも認定してくれていいけど、死なないでね。あなたを死なせちゃうと魔術師協会も色々面倒だから」
これは奈莉栖の本心だろう。このような私闘で悪い魔術師以外の人間を殺せば自分が協会からバッド・フェロウに認定されかねない。しかも、それが異端審問官ともなれば教会との関係悪化も避けられない。しかし……。
「私を殺す? 冗談にしても笑えないわね。あなた程度では、聖剣を使う気にもなれないわ」
先程の奈莉栖の戦いぶりを見ての判断だろうが、その点については当の奈莉栖も同感であった。黒鴉の化け物ぶりを、奈莉栖はよく知っている。こうして奈莉栖がクロアと対峙するのは二度目なのだ。
一度目は、魔女っ子に憧れるあまり悪魔との契約に手を出したことがきっかけだった。あの時は、奈莉栖に大した力はなく黒鴉の力の強さも漠然としか感じられなかったが、今ははっきりとその化け物さ加減が分かる。戦闘能力の差を考えれば奈莉栖が黒鴉を殺すのは基本的に不可能だ。使っているのが鋼玉の古い端末ではなく、最新・高性能な自分のスマホであったとしても勝ち目などありはしない。増してや、古い端末では……。
「この鋼玉のスマホ、性能が低くて動作が遅いのよね」
「早くも言い訳?」
黒鴉が嘲る。
「いえ、忠告よ。さっき、あまりに固まるからイライラして連打しちゃったのよね。今頃になってようやくスタックから回復したみたい」
言うが早いか、鋼玉の携帯端末に幾つもの魔法陣が立ち上がり、次々と発動した。一つ一つが必殺の威力を持つ焔の鷲が、一斉に黒鴉に襲いかかる。
「そんな!?」
流石の黒鴉も、これほどの猛攻は想定外であった。必死になって焔の鷲を避けようとする。焔の鷲の速度はそれほどではないが、強い誘導性能を持っているらしく、クロアの身体能力をもってしても完全に避けきるのは不可能に見えた。鷲の一羽がクロアを喰らおうとした、その時だった。
「ルロイ!」
黒鴉の呼び掛けに応じて現れたのは、禍々しい邪気を帯びた長大なチェーンソーだった。
「ケケケ、聖剣ルロイ様のおでましだぜ!」
チェーンソーは大口を開けて下品に笑いながら、クロアの眼前に迫った焔の鷲を、高速で回転する刃で真っ二つにした。
「な、なんなのよ、それ……」
唸りをあげて焔の鷲を次々とかき消していくチェーンソーを見て、奈莉栖は言葉を失った。その凶悪な外観も、下品な笑い声も、聖剣という名が相応しいものでは決してない。
「何って、こいつが自分でも言ったでしょ。異端審問官の証、聖剣よ」
黒鴉が面白くもなさそうに言う。
「冗談はやめてよ。そんな、B 級ホラー映画にしか出てこないような悪趣味なチェーンソーが聖剣とか」
そう毒吐いたものの、奈莉栖の顔は引きつっていた。いかさまに近かったあれだけの魔術の嵐を防がれたのだ。最早、奈莉栖のポケットにはこれ以上の奇術のタネは入っていない。
「じっくりと時間をかけて呪ったんだけど、確かに見た目は思った通りにはなってくれなかったわね」
素直に黒鴉が認める。
「ひでぇな、俺様ほどイケてる聖剣は他にないってのによ」
チェーンソーが大げさにため息をついた。
「お喋りはここまでよ。ルロイ、さっさとこの異端を処理しなさい」
「へいへい、てことで、お嬢ちゃん悪く思わないでくれよ」
そういうと、チェーンソー、ルロイは、黒鴉の手から離れて奈莉栖に襲い掛かった。奈莉栖が地面を転げながら必死でルロイの刃を避ける。そんな奈莉栖に最早目も向けず、黒鴉は鋼玉を追って洞穴へと入っていった。
***
「……何故拒むんだ、黒曜。 今のままでいいって言うのか?」
イシュタルから黒曜を取り出そうとする鋼玉を、黒曜はきっぱりと拒絶した。理解できないと鋼玉が激しく頭を振る。
「当然、今のままでいたい訳じゃないわ。あなたがイシュタルを壊してくれれば、それでいい」
「自ら死を選ぶのか? そりゃ、今みたいな愛玩用ホムンクルスのままでいるくらいなら、死んだ方がマシかも知れないが……」
「あなたは勘違いをしているわ、鋼玉。イシュタルは別に愛玩用に作られたホムンクルスではないわ」
「……どういうことだ?」
「究極の美女は強くもある、少なくともメルクリウスはそう考えていたわ。実際、神話のイシュタルは戦女神でもあったわけだしね」
「それはそうかも知れないが……」
「イシュタルは単に失敗作だっただけ。でも、わたしは成功してあなたのような完璧な人形になりたくもないの」
「人形? 何を言ってるんだ?」
「愛玩用としての美しさと、極めて高い戦闘能力という両面性を備えた、メルクリウスの最高傑作のホムンクルス……」
「イシュタルのことだろ?」
鋼玉の言葉に、黒曜は頷いた。
「一体はイシュタルよ。でも、メルクリウスの構想では、彼は、雌雄二体の究極のホムンクルスを作るつもりだったのよ。知っての通り、彼はイシュタルの完成まで精神が持たなかったけど、もう一体は既に完成していたの。あらゆる女性を虜にする性的魅力と、極めて高い戦闘力を両立した雄のホムンクルス。その二面性を兼ね備えた作品に、メルクリウスはとある貴石の名前を付けたわ。優れた硬度を持つと共に、深紅のルビーにも、青藍のサファイアにも変わる二面性を持った石……」
鋼玉の鼓動が早くなる。鋼玉は、当然の知識としてその石の名を知っていた。
「そうよ。その石の名はコランダム。和名は鋼玉石。つまり、あなたのことよ」
「嘘だ……嘘だ!」
鋼玉の叫びが洞穴に谺する。
「メルクリウスは狂い行く自分の精神に気付いて対策を講じていたということよ。あなたも知っているでしょ? 狂いつつあった彼は死ぬ間際、イシュタルだけでなく、何体もの戦闘用ホムンクルスを作っていたことを。彼は自分がどんな化け物を創ってしまったとしても、それをきちんと処理できるホムンクルスを正気の残っているうちに用意しておいたの。それこそが彼の最高傑作であるあなたよ」
「義父さんの造った戦闘用の化け物を、人が処理できるわけがない!」
「そうね。だから人ではないあなたがいるのよ。彼はよく言っていたわ。物理法則に従う存在である限り、鋼玉に敵う者はいない、って」
今まで自分が人間であることなど、当たり前すぎて何の疑念が生じる余地もなかったのだ。そんな当然の前提が崩れ、鋼玉は自分でも情けないほど狼狽していた。だが、人間でないと言われれば思い当たる節がないわけでもない。メルクリウスと過ごした時間の記憶はあるが、高校に入るまでの記憶が曖昧であったり、何の脈絡もなく賢者の石を使いこなせたりするのは、彼の知識や記憶が人為的に植え付けられたものだからなのだろう。
奈莉栖が魔術的なものだという聖夜の魅了の魔術から影響を受けなかったのも、鋼玉が心を持たぬ人形なら容易に説明がつく。
「じゃあ、俺の存在は……」
「何の自覚もないまま人間のごとく振る舞いながらも、創造主の意に沿って忠実に働く、理想のホムンクルスね」
縋るような目で黒曜を見た鋼玉に、だが、彼女は冷たく真実を告げた。
洞穴の中に黒鴉が入って来たのは、その時だった。鋼玉の腕の中では傷付いた化け物、つまり、黒曜が今まさに息絶えようとしている。そして鋼玉は、常のポーカーフェイスから程遠い、憔悴しきった顔をしている。この男がこんな顔をするなど、出会ったばかりの黒鴉ですら信じられなかった。
「可哀想な弟……でも、わかるでしょ? だから、わたしはホムンクルスとして生きながらえたくなんて無いわ」
黒曜は、そう言うと最後に小声で何事かを囁き、そっと目を閉じた。
「そんな……嘘だろ? 目を開けてくれよ、黒曜……姉さん!」
鋼玉は蒼白な顔で、四肢を失った黒曜の体を揺すったが、黒曜は目を覚まさなかった。
「なるほど、姉の魂を捕らえて、ホムンクルスにしようと企んでいたのね。やっぱり予想通りの立派な異端行為だけど……興が冷めたわ。未遂で終わったなら見逃してあげる。聡い姉に感謝することね」
そこまでに二人の間でどんなやり取りがあったか黒鴉にはわからなかったが、最後のやり取りからすればそんなところだろうと、黒鴉は推測した。もし自分が那由を失えばと考えると、理解できないこともない。黒鴉が鋼玉に背を向けて洞穴を出ようとした、その時だった。
「聖剣を抜いておいてそんな勝手な真似は困りますね、クロア」
洞穴を覗き込むようにして現れたのは、この地を訪れているもう一人の異端審問官、ジャック・シンクレアであった。




