第十章 イシュタル
20時を回り、聖夜は簡単に夕食を作った。有り合わせの鳥ミンチと豆腐で作った豆腐ハンバーグであったが、奈莉栖は随分と気に入ったようだ。
「悪いわね。ご馳走になっちゃって。美味しかったわ」
「ううん、こっちこそ、守って貰ってるし」
「そ、それは鋼玉に頼まれたからだし、ちゃんと報酬ももらうし!」
奈莉栖が慌てたような早口で言う。奈莉栖のその反応は聖夜の予想の範囲内であったため、聖夜は思わず笑ってしまった。
「まったく。狙われてるってのに、随分余裕じゃない」
からかうような聖夜の笑いに軽く頬を膨らませて、奈莉栖が言う。
「もちろんこうして安心していられるのは、奈莉栖のおかげだよ」
「まぁ、夕食分くらいの働きは期待して貰っていいわ」
食後のお茶を啜りながら二人は簡単にこの後の行動を打ち合わせた。
「家の方が戻るのは何時ごろ?」
「多分、22時は過ぎると思う」
聖夜の母の勤め先は二府県隣で、通勤には二時間近くかかるのだ。
「じゃあ、お会いすることはなさそうね。そろそろ準備して。21時にはここを出ましょう」
21時になって二人は聖夜の家を出た。人通りの少ない夜の住宅街を歩くこと数分で、こじんまりとした公園に着く。
「確かにここなら、鋼玉の要求は満たしているわね」
奈莉栖が満足げに頷く。聖夜はほっとすると同時に緊張し始めていた。つまり、ここにいればいつあの化け物、イシュタルが襲ってきてもおかしくないのだと理解したからだ。
「怖い?」
そんな聖夜の様子に気付き、奈莉栖が声をかける。
「うん……。奈莉栖は怖くないの?」
「そいつを見たことがあるわけでもないし、怖いとは思わないけど……。気は張ってるわね」
奈莉栖なら難なく倒せる……。奈莉栖が心を強く保てているのは鋼玉のその言葉があったからだ。鋼玉はその種のことで嘘や世辞をいう男では決してない。彼がそう言うからには、本当に問題ないのだろう。ただ、彼にそう言われたことで、ヘマはできないと気負ってしまってもいる奈莉栖だった。
二人は公園の隅の小さなベンチに腰を降ろした。座っていても、公園の隅々にまで目が届く。奈莉栖は携帯を取り出した。
「刻描」
奈莉栖が囁くと、一瞬で公園の砂地に複雑な円形の図形が刻まれた。
「うわ、すごい! これは何なの?」
「敵意ある者の存在を術者に知らせるとともに、敵対的な魔術の効果を弱める簡単な防御用の魔法陣よ。効果は気休め程度だけど、ないよりはましでしょ」
このような、場を持続的に支配する魔術を使うには、端末に魔法陣のデータを呼び出すだけでは足りず、その場に実際に魔法陣を敷かなければならない。仮想空間に陣を描いても、その仮想空間に防御の効果が生じるだけだからだ。そのため、魔法陣自体をメモリに保存するのではなく、魔法陣を描くための魔法陣を保存するという迂遠な手段が必要なのだが、こうした「ないよりはまし」程度の防御手段については、奈莉栖は戦闘用のフォルダに分類していない。
後は待つだけ、そんな状態になると、緊張感からか、お互い言葉少なになった。いつくるとも知れないイシュタルを待っていたのだが……、敵は思わぬところにもいた。
「……寒いわね」
「うん……。体の芯が冷えてきた感じ。ねぇ、辺りを暖かくする魔法陣とかないの?」
「やろうと思えばできなくはないでしょうけど、さすがにわざわざそれ用の魔法陣を予め準備してはいないわね」
「今パパっと作れないの?」
聖夜が期待に満ちた目で奈莉栖を見つめる。
「二、三十分くれるなら作ってあげてもいいけど、その間自分の身は自分で守ってよ?」
望む効果が得られるように、魔法陣を自ら構成して描くことは、一種のパズルのようなもので、奈莉栖はそれが嫌いではなかったが、没頭してしまうのが難点なのだ。
「ごめんなさい、寒いのは我慢するから、守って」
諦めて、聖夜はそう懇願した。
「あら、守るって何から?」
その声に、二人の背筋が凍った。ごく自然に、聖夜を後ろから抱きしめるように、ソレが立っていたのだ。先刻、奈莉栖の描いた魔法陣は危機を報せなかった。こいつには敵意というものがないのであろう。
「イシュタル!?」
奈莉栖の声と聖夜の悲鳴が夜の公園にこだまする。
「あら、私のこと、知っているの? 」
「ええ。鋼玉から聞いてよく知っているわ」
はったりだ。鋼玉から聞いているのは、イシュタルというホムンクルスの概略だけである。鋼玉の名前を出したのは、イシュタルの気を聖夜から逸らすためだったが、イシュタルはそれを嘲るように笑っただけだった。
聖夜はイシュタルの腕の中で身動きもできないほど震えている。この状況でイシュタルが聖夜を取り込むことができるとは思えなかったが、聖夜を傷つけないようにイシュタルを攻撃するのも困難だ。
「その子を離しなさい」
そう言われて離してくれると奈莉栖は思っていたわけではなく、単に時間稼ぎである。交渉を持ちかけるように見せながら、奈莉栖はポケットの中で端末を弄り、予め準備してあったメールを鋼玉に送信した。
「それはできないわ。この子は私がより美しくなるためにどうしても必要だもの。でも、あなたもなかなかいい素材ね」
「誉めて貰って恐縮だけど、生憎、その他大勢の内のひとりになるつもりはないわ」
奈莉栖が皮肉を込めて言う。
イシュタルという存在の設計思想は、パッケージ化されたアイドルグループに似ている。鋼玉からイシュタルのことを聞いた時、奈莉栖が感じたのはそれだった。様々な特徴を持った多数人を集めることで、幅広いニーズに対応できる一つのグループを構成する、という発想だ。その一つのグループが、一つの個体に変わったのがイシュタルだ。色んな女性の魅力をつまみ食いで楽しむ、そんな男性の欲望にとっては魅力的な存在かも知れないが、少なくとも奈莉栖はそんなものの一部になるつもりはなかった。
「まぁいいわ。この牝さえ手に入れば。貴女程度なら他の牝でも代替可能だしね。私の邪魔をしないなら貴女は見逃してあげるわよ?」
代替可能……。その言葉は、奈莉栖の自尊心を強かに傷つけた。
「代替可能? 残念ながら私はよくも悪くもone and onlyだわ。私が代替可能に見えるのは、単にあんた自身が、代替可能なパーツの寄せ集めに過ぎないからでしょ!」
奈莉栖は寄せ集めという言葉に最大限の侮蔑を込めたつもりであったが、イシュタルから帰ってきたのは無知を憐れむかのような冷ややかな笑みだった。
「そうよ、だからこそ私には意味があるの。人である私の創造主が、神の創造物からそれ以上のものを作り上げた証、というね」
ここで奈莉栖は悟った。この人形は人語を操ることができるだけで、対話や議論が成り立つようにはできていないのだと。彼女の創造主への狂信は、反対意見など欲していないし、ましてや、考えを改めるなどありえない。話し合いには意味がないということだ。
「じゃあ、あたしは、あんたが未だ人間には遠く及ばないことを証明してあげるわ……縛れ!」
奈莉栖はポケットの中で手早く端末を操り、捕縛の魔法陣を呼び出した。完全な奇襲だ。イシュタルはなすすべもなく動きを封じられた。しかし……。
「律令を無に帰す理の霧よ」
イシュタルが厳かとも言える口調で命じると、イシュタルの動きを封じていた捕縛の魔術はたちどころに霧散した。
「な、あんた魔術が……」
「使えるわ、当然。鋼玉に使えるのに、私に使えないわけがないでしょ?」
嘲るようにそう口にしたのは、恐らくは黒曜の人格なのだろうが、奈莉栖の受けた印象では、「使える」どころの話ではなかった。奈莉栖が独自に構成した魔術を初見で解呪したのだ。イシュタルの、いや、黒曜のと言うべきか、魔術師としての力は計り知れない。少なくとも、鋼玉が奈莉栖に軽く請け合ったように、難なく倒せる、という程度の実力では決してない。
奈莉栖は、咄嗟に自分の用意している魔術の中で最も強力な戦闘用魔術を端末から呼び出そうとした。しかし、イシュタルに後ろから抱き締められて今にも泣きそうな顔をしている聖夜と目が合って、無差別攻撃をできる状況にはないことを思い出した。舌打ちをして、次手を考えようとした瞬間――。
「愚者を打つ理の雷鎚よ」
高圧の電撃が奈莉栖を打ち据えた。術の名を呟いてから術の発動まで、反応できないほどに早い。しかも威力も相当なもので、聖守護天使の加護がなければ即死であったかも知れない。
鋼玉同様の投射か、魔法陣の高速描写か、いかなる術式によるものか奈莉栖には理解できなかったが、何れにせよ、相手にこれ以上魔術を行使させないよう、先手を取るしかないだろう。少なくとも、聖夜を気遣いながら戦う余裕がないことだけは確かだった。幸い、既に電気は体から抜けている。問題なく動けそうだ。奈莉栖は先刻使用を躊躇した、とっておきの魔術を呼び出そうとして、端末を操る。そして……。
「最っ低……」
盛大に舌打ちした。端末が電撃でイカれてしまっているのだ。いわゆる携帯魔術の権威も、端末がなければ即興で魔術も使えない三流魔術師と変わらない。
何もできずに立ち竦む奈莉栖を、イシュタルは最早相手にしなかった。聖夜を抱き締めたままで、宙に浮く。
「いや、離して! 助けてぇ!」
泣き叫ぶ聖夜の声は徐々に遠くなっていく。自責の念に苛まれながらも、奈莉栖には鋼玉を待つ以外、どうすることもできなかった。




