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錬金術の憂鬱〜神様の殺し方  作者: かわせみ
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第九章 悪魔憑き

  部活を終え、学校から出た鋼玉は、とりあえずは自宅に戻ることにした。日は既に落ちているが、もっと人通りが少なくなるまでは、奈莉栖と聖夜は動かないだろう。自宅から聖夜の家や例の公園まで、空を駆ければ五分といったところだ。実際に動くのは、奈莉栖からの連絡を待ってからでも遅くはないだろう。鋼玉がいるからと言って、黒曜は、いや、イシュタルは聖夜を諦めたりはしない。必ず今夜また、イシュタルは聖夜を奪いにくる。鋼玉には確信があった。


 起谷山の麓まで来たところで、鋼玉はちょっとした悪寒を感じた。朝に出会った黒鴉とは異なる、その異様な気配に、鋼玉は覚えがあった。


「やぁ、これは奇遇ですね。君とこんなところでお会いするなんて」


 鼻につく甘ったるいフランス語で話し掛けてきたのは、予想通り、悪魔憑きのジャックだった。金髪碧眼、スーツ姿の美しい青年が、不自然なほどにこやかな笑顔で鋼玉に近付いてくる。昨夜、奈莉栖から聞いていたものの、実際に鉢合わせする可能性は高くないだろうと考えていたため、鋼玉は軽く頭を抱えた。


「久しぶりだな。ストラスブールで殺されかかって以来か」


 感情を見せずに鋼玉が答える。


「ああ、そんなこともありましたね。元気そうで何よりです」


 悪びれもせず、顔に張り付けたように満面の笑みを浮かべたままでジャックが言う。


「悪いが、日本語で話してくれ。フランス語は好きじゃない」


 話せないわけではないのに、フランス人の前でわざわざフランス語を貶したのは、鋼玉なりの不快感の現れだろう。母国語への侮辱に、ジャックは少し笑顔をひきつらせたが、何も言わずに懐から一冊の本を取り出した。錠の掛けられたその本を、小さな鍵で開けると、ペラペラとページをめくった。


「エロヒムよ、エサイムよ、我が声を聞け……」


 囁くようにそう言うと、巨大な妖気の塊がジャックを取り巻いた。


「これでよし。まったく、こんなことのためにわざわざ悪魔の力を使わせないで欲しいんですけどね」


 自然な日本語でジャックが言う。語学に堪能な悪魔の力を身に宿したのだろう。


「別に、自分の力で喋ればいいだけの話だろ。人のせいにするな」


 鋼玉が冷たく答えたが、ジャックは肩をすくめただけだった。


「それで、一体何の用だ?」


 このしたたかな男とのやりとりで有益な情報を得られるとは思っていなかったが、鋼玉は牽制の意味を込めて尋ねた。


「別に、異国の地で偶然旧知の者を見付けたから声をかけただけですよ。私としては、何故君がここにいるかの方が気になりますが……」


「何故も何も、俺はもともとこの街の住人なんでね」


 鋼玉は素直に事実を語った。異端審問官相手に軽々しく個人情報を明かすのは得策ではないが、それでも今の自分の目的に勘付かれる危険を冒すよりはましだった。


「そうでしたか。私の同僚と同じ街に住んでいるとは、ますます奇遇ですね。私は私用でこの街を訪れましたが、暫く滞在する予定なので、困ったことがあったら言ってください。私にできることがあれば手伝いますよ?」


 殊勝とも取れる発言だが、鋼玉はその言葉を素直に信じるほどお人好しではなかった。


「遠慮しておく。標的ごと消される危険は避けたいからな」


 以前成り行きで共闘した際、標的だけでなく鋼玉も巻き込む形でジャックが力の解放を行ったため、鋼玉は危うく殺されかけたのだ。


「人聞きの悪い。あの時のことなら、あなたが私ごときに殺されるわけがないと信じた上での行動ですよ」


 明るい口調でジャックはそう弁明したが、本人ですら信じて貰えるとは思っていないだろう。


「何にせよ、標的が被ってでもいない限りこちらへの詮索はなしにしてもらいたいな」


「悪魔まで降ろして交流を深めようとしたのに、つれないですね。まぁ、いいでしょう。私もそれほど暇なわけでもないですし。この地に住む異端審問官(ご同業)への挨拶も終わりましたから、私用にとりかかることにしますよ」


 そう言うと、ジャックは軽く手を振って鋼玉とは逆方向に歩いていった。鋼玉は、疲れる割に実り少ない会話から解放されてほっとため息をついた。


 ジャックとの会話でわかったことは、黒鴉がまだこの神社の中にいるということだけだ。せいぜい感付かれないように気を付けようと思いながら、鋼玉は自宅を目指して徒歩で山道を登っていった。


***


「ジャックさんって、変わった人でしたね」


「変わった、なんて表現は生ぬる過ぎるわね。変わり者の多い異端審問官(わたしたち)の中でも群を抜いた変人よ」


 那由の何気ない感想に、黒鴉が毒吐く。「食事」を邪魔されて不機嫌なのだろう。生ぬるい、という熱くも冷たくもない状態を指す言葉に、過ぎる、という言葉を付ける不自然さを指摘すべきか、黒鴉自身にも変わり者の自覚があったことに驚くべきか、一瞬考えたものの、結局何も言わずに那由は微笑んだ。


「そんなことより、中断されてしまったけど、ねぇ……」


 普段はクールで、遠慮のない言動の目立つ黒鴉が、落ち着きのない様子で俯いて、躊躇いがちに言う。那由と二人きりの、特に「食事」の時にだけ見せるこの黒鴉の媚態が、那由は嫌いではなかった。


 定期的に血を欲するという性癖を、忌むべき悪癖として嫌悪する黒鴉にとって、他人に血をねだる行為は屈辱以外の何物でもないのだろう。その屈辱的な姿を、黒鴉は自分にだけ見せてくれている……。その優越感は那由にとって心地好いものであったが、そんな風に感じてしまう辺り、自分は黒鴉が考えるような清純で無垢な少女ではないのだろうと、那由は思っていた。


「ちゃんと言ってくれないと、わからないですよ?」


 ほんの少しだけ意地悪に、那由が焦らす。那由にしても、このような嗜虐的な一面を見せるのは黒鴉にだけである。


「お願い、もう、我慢できない……。欲しいの、あなたの血が……」


 泣きそうな顔で、黒鴉がねだる。いつにも増して辛そうな様子だ。無理もない。いつも我慢して我慢して、どうしようもなくなるまで、黒鴉は那由に血をねだったりはしない。今日も限界まで我慢した後にやむを得ず那由に頭をさげ、やっと血を貰えると思った時に、邪魔者(ジャック)が現れたのだ。最早、形振りを構う余裕もないのだろう。


 もう少し焦らしてみたい誘惑にも駆られたが、那由はうなじにかかった髪を後ろで結わえた。那由の白い首筋が露になる。美しいながらも、そこにはほんのわずかに傷痕があった。黒鴉の顔が悲痛に歪む。この傷痕をみるたびに、黒鴉は、自らの浅ましい欲望のために美しい那由を汚してしまったことに、深い罪悪感と自己嫌悪を覚えるのだ。


「どうぞ、召し上がれ」


 それでも、那由にそう言われると、理性を保つことのできない黒鴉だった。押し倒すように那由に抱きつき、軽く舌を這わせて傷痕のあたりを湿らすと、一気に犬歯を立てる。プツッと、肌が裂ける小さな音と共に、黒鴉の口一杯に濃厚な血の味と、恍惚感が広がる。しばらくの間、お互いの吐息だけしか聞こえない閉じた世界の中で、黒鴉は那由を貪り続けた。


「ごめん……ありがとう」


 心行くまで、とは言ってもそれほど大した量でもないのだが、那由の血を味わった黒鴉は、理性を回復して恥ずかしそうに、また申し訳なさそうに言って、那由から離れた。黒鴉の唇と舌と、歯とそして互いの肌とが、離れていく寂寥感はどちらにとってより強いものだろうか……。


「どういたしまして」


 笑顔で答えた那由はハンカチを取り出し、慣れた手つきで傷口に当てて止血した。黒鴉に血をねだられることを見越して、那由は緋色のハンカチを愛用している。


「それにしても……」


 浅ましい欲望を見られた気恥ずかしさを誤魔化すように、やや唐突に黒鴉が口を開いた。


「本当にもう、九つ鬼は顕現しているのかしら」


「多分、しているんでしょうね。時折感じる鬼の気配もそうですけど、今日だけでも、七月さんに鋼玉さんにジャックさん、新たに三人もの異能の持ち主に出逢いましたもの。大きなことが起こる予兆だと思いませんか」


 これまで同じ富貴市の住人ながら、那由や黒鴉は鋼玉と面識がなかった。那由などは、起谷山の麓と中腹という、かなり近い位置に住んでいるのに、である。黒鴉は、鋼玉という狩人がこの辺りに住むことを噂には聞いていたが、仕事が被ったこともなく、さして興味もなかった。


「確かに、ね。ジャックは、私用と言うからには異端審問(お仕事)ではないでしょうけど、その私用とやらが鬼絡みでないとは言い切れないし、鋼玉に至っては何から何まで胡散臭いわ」


 毒吐く黒鴉に那由が微笑む。胡散臭さで言えば、鬼の血を引くだけでなく、人血を嗜み、「悪魔」と呼ばれるものの娘で、異端審問官などという時代錯誤な肩書きを持つ黒鴉に勝る者はそうはいないと思うのだが、そんな自分を棚に上げて、無邪気に悪態を吐く黒鴉を可愛いと思ってしまう那由だった。


「そうやって同い年の私を見て、子供でもみるかのように微笑むのはやめて」


 少し膨れたように、黒鴉が言う。そう、黒鴉はその小学生のような外見にも関わらず那由と同年の17歳なのだ。12歳辺りで成長が止まったのは悪魔の血のせいか鬼の血のせいか。少なくとも双子の妹の杏樹(あんじゅ)の成長はまだ止まっていない。黒鴉にとっては成長が止まってしまったという事実も、自分の持つ呪われた力も、自己嫌悪の根源でしかなかったが、自分と似たところのある那由と出会ってからは、諦めよりはもう少しだけ前向きに、その事実を受け入れることができていた。


「ごめんなさい、つい。でも、そんなことより……鋼玉さんやジャックさんの目的が鬼とは関係ないにしても、もし鬼に会ってしまったら彼らは……」


「狩ってしまうでしょうね。なにも考えずに。戦闘(それ)しか取り柄がない人種だから」


 込められたのは彼らに対する侮蔑と言うよりは寧ろ自虐であることに那由は気付いていたが、那由は敢えてそこには触れなかった。


「そうなる前に見付けないといけませんね」


「そうね。でも、何となく、鬼が唐突に彼らの前に姿を現すことはないと思うわ。鬼の血が鬼を呼ぶなら、狙われるのは寧ろ……」


「七つ鬼の眷属……」


 黒鴉の言わんとするところを理解して那由が言葉を継ぐ。黒鴉が頷いた。鋼玉と一緒にいた七月聖夜というあの少女は、黒鴉の目から見てもいかにも無防備で、美味しそうに見えたのだ。狙いやすいという点では、那由や黒鴉の比較にならないだろう。那由の手前、美味しそうと口にするのは憚られたが。


「鋼玉が今もあの少女と一緒にいるかはわからないけど、とりあえずあの少女は見張っておくわ」


 そう言って、黒鴉は懐から黒い羽を三枚取り出すと、それを呪った。羽は、命を与えられたかのように蠢きはじめ、黒鴉の元から飛び立った。黒鴉は物質を呪うことで、それに簡単な意思を与えて支配することができるのだ。


「これでいいわ。七月聖夜が鬼に襲われても、連れ去られても大丈夫」


「ありがとうございます。じゃあ、私たちはいつものように、見回りまでに少し仮眠をとっておきましょうか」


 宵の頃に仮眠を取って、深夜に見回りをする。それが鬼の出現を感じてからの二人の日課になっていた。夕食は仮眠の前に軽く済ませ、見回りでお腹が空けば(大抵空くのだが)夜食を食べる。健康には良くないだろうが、大義名分の下こうした不規則な生活ができることを、それなりに楽しいと感じている二人だった。

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