プロローグ
月の美しい夜だった。今宵は満月。T県郊外の田舎町、加観町では、都心部と比べて心なしか、月が美しく見える。
怖いくらいに美しい月に誘われるように、男は家を出た。淡い月光を浴びながら歩くこと暫し、男は辿りついた公園のベンチに静かに腰を下ろした。満月の都度繰り返される、これは一種の儀式だった。
男の呼吸が荒くなる。恍惚とした表情で月を見つめるその顔は、次第に白銀の体毛に覆われていく。瞳は赤く染まり、急激に伸びた爪と牙は、触れるだけで身を裂くほどに、鋭い。
狼人間
人の殻を破り、野獣の力を得る瞬間の、世界を支配できるかのような高揚感……そして、この鋭利な牙と爪とで人の肉を切り裂き、喰い千切りたいという抑えようのない衝動に身を委ねる。
既に深夜だが、近所には何件か深夜営業の店もあり、人通りは皆無ではない。人目に付きにくい薄暗い路地で獲物を探し、己の欲望を満たす……それが、男がこの忌まわしき血に目覚めてからの習慣だった。
男は、自分がいわゆる「人類の敵」として、不特定多数の狩人達に狙われていることを知っているが、それを気にもとめていない。彼は、化け物退治の訓練を積んだ狩人であっても、彼の圧倒的な身体能力の前では赤子も同然だと考えていたし、事実、これまでに幾度も、彼を襲ってきた多くの狩人を返り討ちにしてきたからだ。
だから、男は、獲物を探すためにベンチから立ち上がった自分の前に、明らかにそれと分かる気配を纏った少年を見た時にも、驚いたりはしなかった。寧ろ、獲物を探す手間が省けたと、獰猛な笑みを浮かべて舌舐めずりをしたくらいだ。
一方、狩人の少年は冷たいまでの無表情だ。着ているのはブレザーの学生服で、どこぞの高校生であるらしい。顔立ちは整っているが、際立った美少年というわけではない。前髪から微かに覗く左目が異様な雰囲気を醸し出している以外、男の目にはごく普通の少年に見えた。
少年は無言のまま、静かに懐からナイフを取り出し、構えた。いわゆるバタフライナイフで、取り出したときには既にブレードがオープンしている。威嚇するようなダブルフリップではなく、静かなシングルフリップだ。それを見て、男は声を出して嘲笑った。大方、銀のナイフなのだろうが、そんなもの掠らせることすらできはしない、と。
軽い前傾姿勢から、爆発したかのような勢いで、男の両脚が地を蹴った。男の動きは、人が反応できるような速さではない。少年がナイフを振る暇もなく、男の爪は易々とその腕を引き裂くことができるはずだ。
対する少年は、愚かにも、身をかわそうとしているようだ。その動きは、普通の人間に毛が生えた程度であり、かつて男が退けてきた狩人達と比べても鈍重すぎるほどであった。間に合うはずがない。間に合うはずがないのに……。少年は、そのゆっくりとした動きのままで男の猛襲をかわし、少し距離を取って、先ほどと同じようにナイフを構えた。
男は混乱した。こんなノロマに、自分の爪がかわされるなど、あり得ることではない……。混乱したまま、男は再び地を蹴った。上から覆いかぶさるように跳びかかり、胸を切り裂いてやるつもりだった。なのに、男の身体は少年を飛び越え、勢いあまって顔から地面に激突した。あり得ない、自分が、自分の身体を制御できないなど、あり得ない……。
混乱が恐怖に変わった。逃げなくては、殺される……。強か鼻を打った痛みに耐えながら体を起こそうとして、男は首筋に金属の冷たさを感じた。
「チェックメイト」
抑揚の乏しい冷たい美声が、男の死を告げた。
***
トゥル、トゥル……。
スマートフォンが鳴ったのは、学生服の少年、神威 鋼玉が男の死を確認し、ナイフを懐にしまったのと同時だった。
(目敏いな)
おそらくは監視されていたのだろう。鋼玉は電話に出た。
「終わったみたいね。そんな田舎町までわざわざ人殺しに行くなんて、ご苦労なことだわ」
声の主は予想通り、博士――各務 奈莉栖であった。狼人間は化け物であって人間ではない……。鋼玉は決して善良な人間ではなかったが、そのような論法で自分の行為を正当化するのが好きではない。奈莉栖はそれをわかったうえで鋼玉を揶揄しているのだ。
「自分で依頼した仕事だろ。気に食わないなら、次はもっと近場で、人道的な仕事を依頼してくれ」
長旅と戦いで疲れた身に、奈莉栖の悪態は癇に障る。鋼玉は吐き捨てるように言った。
「気にしないで、ただの労いの言葉よ。それにしても、これまで12人の狩人を返り討ちにしてきた化物を瞬殺なんて、流石は『神殺しの錬金術師』、メルクリウスを継ぐ者ね」
「用があるなら早くしてくれ。そんな話に付き合うほど暇じゃない」
「じゃあ、手短に。あなたの探してたアレ、見つかったわよ」
「……場所は?」
口調にほんのわずかに焦りの色が浮かんだのを、奈莉栖は聞き逃さなかった。いつも冷静な鋼玉が、居ても立ってもいられない、そんな感じだ。彼相手にかつて感じたことのない優越感がこみ上げてくる。
「忙しいようだし、S 県に帰ってきてからゆっくり教えるわ」
鋼玉の反応を楽しむように、奈莉栖が焦らす。
「何処だ」
有無を言わせぬ声音だ。鋼玉の冷たい美声には人を従わせる魔力があるかのようだ。奈莉栖は諦めたように溜息を一つ吐いた。
「いくつかの霊域に目をつけていたけど、あなたの読み通りよ。結局、放浪の末帰ってきたのね。我らの愛すべき本拠地、富貴市に。ほんの一瞬だけど、協会の『目』がそれらしき存在を捉えたわ」
「この情報は……」
「大丈夫。すぐに『目』を逸らして、他の狩人にはバレないようにしているわ。わざわざあたしが……」
必要なことだけを聞いて、鋼玉は電話を切った。
折角他県まで来たのだから、明日は学校をさぼって軽くご当地グルメでも堪能するつもりでいたのだが、鋼玉は予定をキャンセルしてすぐに帰宅の途に就いた。
探し求めてきた「究極の美女」にようやく会える……。そう思うだけで、自分の鼓動が速くなるのを鋼玉は感じていた。




