もう空は飛べないけれど
小さい頃の夢は、小説家だった。
ふつう小説家を目指すのは、休み時間になると図書館に入り浸って、夏休みには毎日本を読んでいるような子、なのかもしれない。でも、私はそうじゃなかった。休み時間は友達とくだらない話をして、夏休みは昼まで寝ているようなどこにでもいる子どもだったと思う。ただ、人並みに本は好きだった。ページをめくると始まる、誰かの人生。そこには、現実ではできないような大冒険や大恋愛があって。何気ない日常の中にも、不思議な出会いや別れがあって。本の中では動物とだって話せたし、空だって飛べた。医者にだってパイロットにだって、怪盗にだって魔女にだって、望めば何にだってなれた。物語の世界はどこまでも自由で、気ままで。そんな世界に憧れて、そんな世界を私も作ってみたいと思った、のかもしれない。
先週部屋の掃除をしていたら見つけた、古びた原稿用紙。端がくしゃくしゃになったその紙には、まだ幼さが残る文字と拙い言葉たちで物語が綴られていた。タイムマシンに乗って亡くなったおばあちゃんに会いに行ったひと夏の思い出。動物の声が聞こえる女の子の大冒険。緑の枠いっぱいに描かれた、きっと評価にも値しないくらいの拙い物語たち。でもそこには、溢れんばかりの夢と希望がつまっていた。次々と頭に浮かんでくる人生を言葉にしていたあの頃は、ただただ書くことが楽しかった。
十年ぶりに開いたアルバムのページをゆっくりとめくる。
ー将来の夢 『教師』
そうか、「小説家」を目指していたのは、小学六年生までだった。曖昧な記憶に苦笑して、重たいページを静かに閉じた。
どこかの県で最高気温が40℃を超えたというニュースが視界を横切る。人工的な冷風から逃げるようにカーディガンを羽織って、最近教わったばかりのアイコンをクリックした。
『プロントを入力』
そう書かれているとも確認しないままクリックして、カタカタと文字を打ち込んでいく。プロンプトという言葉の意味は、つい数日前に調べて初めて知った。
「教職員向けに、卒業アルバムの撮影日程を知らせる文章を作成してください」
カタンッとエンターキーを押すと、よく見慣れた堅苦しい文が画面に提示されていく。これは楽でいいな、と思いながら、心にぽっかりと穴があくような、不思議な気持ちになってしまうのはなぜだろう。
「……味気ない」
生成AIがくれた文章は私がいちから考えるよりもずっと綺麗で、悔し紛れに呟いた言葉は、一人っきりの職員室に虚しく消えた。そんな、変わり映えのしない夏休み。周りに人がいないとどうもやる気になれないんだよな、なんて誰にでもなく言い訳をして、パタンッとパソコンを閉じた。定時まで、あと30分。何かを始めるには短くて、何もしないには長いこの時間を埋めるべくスマホを立ち上げて、3日以上返していないメッセージがあることをようやく思い出した。
いつからだろう、理性と惰性で生きるようになったのは。目の前のことをこなして、こなして、必死に食らいついて生きていたら、いつのまにか後輩ができていた。ストレスを打ち消すように趣味にお金をつぎ込んで、倒れてしまわないように毎日食で気を紛らわせて。残ったものは健康診断で引っかかるスレスレの体重と、同年代と比べて明らかに少ない預金残高。友人へメッセージの返信をするはずだったのになぜか推しのSNSを立ち上げている自分に、あきれてため息すら出なかった。
今さらメッセージアプリに戻る気にもなれず、なんとなく画面をスクロールしていく。読めているのかいないのかもわからないくらいのスピードで流れていく画面を眺めていたら、ふと、最近気になっている俳優の投稿に指が止まった。
『短編小説を更新しました』
数分前に投稿されたそんな文字と共に、貼り付けられているリンク。この人、短編小説なんて書いてたんだ、なんて思いながらクリックすれば、そこにはありそうでなさそうな一人の男性の人生が広がっていた。
自分が今職場にいることなんて、すっかり忘れてしまっていた。はっと現実世界に帰ってきた頃には、すっかり就業時間は終わっていて、それでもまだ席を立つ気にはなれぬまま、流れるようにインタビュー記事にたどり着いた。表題には「小説は今の自分の感情を留めておくためのもの」と書かれていて、短編小説について触れている記事を読み進めていくとまた、ある一文が目に留まった。
「きっと今僕が書く物語は、今の自分にしか書けないものだと思うから」
なぜだろう、胸がきゅっと苦しくなった。雑にしまわれていた、端がくしゃくしゃになった原稿用紙。そこにはただただ書くことが好きだった少女の、夢と希望が詰まっていた。そんな少女は少しずつ大人になって、現実に触れて。小説家で食べていけるほどの才能はないからと、「教師」と書いた卒業文集。すっかり読まなくなった、本の山。
それでもずっと、物語を書くのは好きだった。誰に見せるわけでもないのに細々と、書くことだけは続けていた。初めて恋をした時に書いた、片思いの物語。初めて彼氏ができた時に書いた、青春物語。辛い別れの後に書いた、失恋物語。まるで日記のように、その時の感情を綴って、吐き出して、綴って、残して。物語の中でなら、どんな感情も受け入れられる気がしたから。どんな感情も、綺麗に残せる気がしたから。いつだって、心が動いたら綴っていた。いつだって、その感情を書き留めていた、はずなのに。
たくさんの物語を書き留めてきたメモのアプリを立ち上げる。でもそこに映るのは、仕事に関するメモばかり。数年前はピンクに染まっていた毛先も、就職の面接と同時に色をなくした。太陽を反射して輝いていた爪も、もう長いこと輝きを失ったままだ。久しぶりに会う友人にはいつも、「夢を叶えててすごいね」と憧れの目を向けられた。でもその度に、どうしようもない後ろめたさに襲われていた。いつからか、自分の目に映る日常は、すっかり味気ないものになっていた?
久しぶりに、書いてみたいと思った。
きっともう主人公は動物の声だって聞こえないし、空だって飛べない。医者にもパイロットにもなれないし、魔法だって使えない。でも、それでいいと思った。それがいいと思った。だってそれがきっと、「今の私にしか書けない物語」なのだから。
今の私には、どんな物語が書けるのだろう。悲しいも、苦しいも、悔しいも、虚しいも。嬉しいも、楽しいも、大好きも全部。今の私だけが持っている、今しかないこの感情を筆にのせたら、どんな人生が生まれるのだろう。夢も希望も、あの頃のようには持ち合わせていない。本だって読めていないから、きっと文章だって下手くそなままだ。でも久しぶりに、胸が高鳴る。だって、ずっと書くことは好きだった。書くことだけは、好きだった。だから、駄文でもいい。誰にも評価されなくてもいい。ただただ書くことが好きな私にしか、書けない物語を。毎日を必死に生きている今の私にしか、書けない物語を。
そうだ、明日は美容院に行って、バレないくらい髪を明るくしてみよう。それからネイルサロンを予約して、少しだけ爪を輝かせよう。そんな小さなキラキラを、これから少しずつ増やしていきたい。これから私の綴る人生が、少しでも彩りで溢れるように。
オリジナルで短編を書くのはすごく久しぶりなので、自己紹介も兼ねて、書いてみました。
仕事の傍らで細々と書き進めていければと思います。
よろしくお願いします!