美しさについて
美しさって、きっと人それぞれ違うと思います。
独りという淋しさよりも、ふたりという淋しさのほうが随分美しく見える。終わりが近く思えるからだろう。ただ漠然とした不安より、輪郭のはっきりとした不安の方が美しく見える。美しい、というのは鮮明であると思う。朝日に照らされる夜露も、雲の合間から掛かる光の梯子も、美人と評される化粧も、全部がはっきりとした輪郭のあるものだ。淡い色の淡い光景は美しい、とは言わない。綺麗と美しいは似ていると思う。ただ、美しいものが必ずしも綺麗であるとは限らない。綺麗の基準は簡単に変わってしまえるものだから。清潔な場所では霞んで見えるものも、汚れた場所へ放って仕舞えば綺麗に映る。これは当然の話で、何も矛盾はしていない、と思う。ところで人間は簡単に死ぬ。どんなに健康でも、不健康でも、いつか死ぬ。では人間は美しいか。これは違う。少なくとも自分の中では。人間という生物、ひいては生命体という全ての存在、つまり動物と呼ばれるものはあまり美しくない、と思う。鮮やかすぎるのだ。どこか不確定でなければ、美しさというものは生まれないような気がする。淋しいと美しいは似ている。人間は美しくなくても、人生、寿命、というものは美しいと思う。今まで歴史に名を残さなかった全ての存在さえも美しいと思う。美しい?美しくなんてない。きっと美しいのは生死だ。生まれる、そして死ぬ。終わりがあるから美しい。終わりのないものはこの世にはない。ずっと続くものなんてない。確定するものなんてない。約束なんて破られるものだと、そう思うからこその、期待。感情はひどく醜くて、それでいて美しい。美しいってなんだろう。難しい。人それぞれ違う、と思う。美しさがわからない人間に、美しいとはなんですか、と聞かれたら。答えられるだろうか。美しいという感情をまだ知らない純粋な子供に、野原を駆け回って一番速いものが偉い、なんて単純な世界で生きているような子供に、説明できるだろうか。貴方が生きていることこそが、生まれてきてくれたことこそがいちばん素晴らしくて、その瞬間そのことこそが大変美しいんだよ、と言っても、きっと首を傾げるだろう。それで良いと思う。美しいという感情は、価値観は、傷付いた人間に芽生えるものだ。子供の未来を守るために、そんな単純な理屈だけで動けるほど大人は簡単ではない。でもそういう傷付いた人間が集まって、きっと世界は廻る。そこに子供の居場所をつくってやる。子供のため。過去の、自分のために。自分がしてほしかったことを愛しい存在にしてやる。それが愛だと思う。美しさってなんだろう。全ての感情に名前をつけられた時、論理立てて説明できた時。その時こそが私の終わりだと、そう思う。