奴隷狩り
紺碧の大河を見下ろすように、切り立った岩山に造られた町・・・サガ。
そこは、小さく儚い町だった。
ガザンベルク帝国による侵略戦争に、従属することを拒否したネヴィルスラム王国は敗れた。その後、ガザンベルクの皇帝は、様々な労働力の確保に奴隷狩りを行った。王宮の捕虜だけでなく、サガの町の住人を引き連れてくるようカーネル〈ダルレイ・カーネル・サルマン〉総督に命じたのである。
切り立った岩山に造られたサガは、そばに大河があるものの、それを利用していた設備の老朽化によって旱魃に対応できず、もはや朽ちてゆくだけだと見放されつつあった町だ。
いきなり人気が無くなった町中の建物。
突然やってきたガザンベルクの部隊に、住民たちが一時一斉に捕らえられてから、三十分が経つ。
先日、九歳の誕生日を迎えたばかりのレドリー・カーフェイは、この時、暗く冷たい地下室にいた。小さなゴザの上で、母親のエレンにしっかりと抱かれていた。父親のレイリーの顔が、床の割れ目から漏れてくる埃っぽい光で、うっすらと窺えた。眉間に皺が寄っている。レドリーがこれまで見たこともない、叱られた時とはまた違う恐ろしい表情だった。
誰も何も言わない。この沈黙は、夜まで延々と続くかに思われた。
ここは貯蔵庫だ・・・が、やせ細ったニンジンと、貧弱なジャガイモがあるばかり。そのうち空腹な少年の胃袋は、恐怖の中で惨めに悲鳴を上げだした。
さらに身を寄せる母の腕の中で、レドリーはおずおずと父を見た。レイリーは我が子に目をやり、悲しげに微笑した・・・が、それだけだった。
重い長靴の音が聞こえた。細い石畳の道を迫り来る。
レイリーが油断ない目で上を睨みつけた時、その足音が急に忙しなく民家へ乱入していく物音が響いた。していく・・・というのは、カーフェイ一家の方ではなく、それは向かいの家だったのである。
再度、この地区の奴隷狩りが行われていた。
しばらくして、聞き慣れた女性の声が耳をつんざいた。彼女は子供の名前を叫び、「来てはダメ!」と、懸命に叱りつけていた。
それが聞こえた時、レドリーはハッと息を飲み込んだ。友達の名前だ。その友人には妹がいたが、聞こえた名前は友人のもの一つだけだった。
喧嘩っ早いその友人の威勢の良い声は、瞬く間にやってきた。しかしその声は、誰か男の罵り声のあと、聞くに堪えない悲鳴に変わった。
女性のかなぎり声が響き、それに、「連れて行け。」という冷酷な声が続いた。
レドリーは、胸を抉られる思いで母の胸にしがみついた。エレンも、きつくレドリーの頭を抱きしめ返した。
女性のその声はどんどん遠ざかっていく。
すると、今度はそれについて行こうとする幼い少女の声が聞こえた。少女はめちゃくちゃに泣きながら、「ママ!」と、しきりにわめきたてている。
「そこの小僧、こいつを黙らせておけ!」
男はまた口汚く怒鳴った。
カーフェイ一家には、軒先で起こっているむごたらしい光景が目に見えるようだった。
レイリーには、どれほど駆け寄って、その兄妹を優しく抱き起こしてやりたいか知れなかった。だが、できなかった。三人で逃げよう。そう息子と約束していたからだ。
「もう一度言ってやろう、よく聞くがいい。抵抗せねば殺しはせぬ。お前たちは、新しく建てる宮殿の建築を手伝うだけだ。一仕事終えれば解放されるだろう。さあ、おとなしく姿を見せろ。さもなくば、子供の命の保証はせぬぞ。」
実際にはそれだけでなく、その後はほかの重労働にも充てられることになり、すぐに自由を得られる可能性は低い。
上手い言葉で油断を誘いながらも、無情に脅しかける男の声は、ひと息ついたあとさらに続いた。
「まだ居るのは分かっているぞ。三分やろう。三分経って誰も現れない場合は、私の言葉が単なる脅しではない証拠に見せしめを行う。」
夫婦は強張った顔を見合わせた。それは、さきの兄妹を殺すという意味だ。
エレンは真っ直ぐに夫を見つめながら、絶望的な声で言った。
「あなた・・・諦めましょう。」と。
そんな妻を見つめたまま、レイリーはしばらく何も言わなかった・・・が、長靴の音がそのうちにも動き出して玄関を潜り抜け、間近に迫り来るとハッとして見上げた。その鋭い切れ長の瞳で、軋む板間に注意深く目を凝らした。
やがて、レイリーは妻のエレンに目を向け直した。レイリーはその時、決意を固めた真剣な顔で、一つうなずいてみせたのである。
それを見たレドリーの鼓動は、やにわに狂ったかのようになった。
「父ちゃん、母ちゃん!」
レドリーはどうしようもなく戸惑い、声を殺して悲鳴を上げた。
エレンの手が、レドリーから放れた。エレンはそっと立ち上がった。頬に涙が伝っているのが、薄暗い中でもレドリーには分かった。
「嫌だよっ、一緒に逃げようって言ったじゃないか!」
レドリーはまた、力いっぱい母にしがみついた。だが、そばに膝をついた父に肩をつかまれ、強引に引き寄せられると、ぐずり続けようとするレドリーはピタリと黙った。
レドリーは、その父の悲痛な顔と、面と向かい合って立たされていた。
レイリーは、息子のひどく不安そうな目を食い入るように見つめ、苦笑を浮かべた。
「いつかお前にも、今の父ちゃんと母ちゃんを理解できる時が来る。約束守れなかったの・・・初めてだな。」
次の瞬間、レドリーの鳩尾に父の拳が叩き込まれた。
驚く間もなかった。苦しくて、喘ぎながら胃のあたりを押さえたレドリーは、体をくの字に曲げて足元のゴザに倒れ込んだ。意識も急速に薄れていく。だがその時、ずいぶん遠く感じられた父と母の声は、しっかりと頭に刻み込まれた。いきなりこんなことをした、父の言葉。
「レドリー、強く生きろ・・・。」
「生きてさえいれば、必ずまた会えるわ。」
いつか理解できる時が・・・今だって分かる・・・そのあとすぐ、レドリーは気を失った。
やがて夫婦は、我が子をそのままにして、ひどく名残惜しそうに離れだした。
だが、急に背中を返したエレンが、嗚咽を漏らしながら、倒れているレドリーの背中を抱き起こした。
レイリーは、頬ずりを止められずにいる妻の肩に、無言でそっと手をかける。それから気絶したままの息子の方へ屈みこむと、額に口をつけた。
うなずき合った二人は、今度はためらうことなく木梯子を登った。そして床下倉庫の蓋も押し開け、隠すために動かしたテーブルもくぐり抜けて、食堂に堂々と姿を現した。
居間へ移っていた敵兵が、あわただしく駆け戻ってくる。
ほどなく、カーフェイ夫妻は両手首を縛められた。